初めに光があった。
この堂々の書き出しはどうだ! この物語も、ついに「旧約聖書」と肩《かた》を並《なら》べるところまで来た。
いや、そんな呑気なことは言っていられない。——一体僕はどうしたのだろう?
闇《やみ》の中に、ぼんやりと白い光が動く。あれは何だかマシマロのような——いや白玉かもしれない。肉マンかな?
どうも食物の連想ばかりで申し訳ない。腹が空《す》いていたのかもしれない。
そこへ、新たな要素が加わって、一気に僕の意識は戻ったのである。しかし、それはあまりありがたい要素ではなかった。
つまり、ひどい頭痛だったのである。
同時に、思い出した。あの添田の奴《やつ》が、僕を殴ったのだ。——刑事のくせに善良な市民を殴るとは!
殺人犯を善良な市民とは言えない、という意見もあるかもしれないが、それにしても殴っていいというものではない。
訴えてやる! 絶対に訴えて、あいつをクビにしてやるぞ!
と頑《がん》張《ば》っている内に目を開く。——いや、目は開けていたのだ。ピントが合って来た、というべきか。
そして——目の前には特大の肉マンが——いや、そうじゃなかった、祐子の顔があったのである!
「まあよかった。気がついたのね」
と、祐子はにっこりと笑いながら言った。「心配したのよ、どうしちゃったのかと思って!」
「祐子! 僕は——」
起き上ろうとして、また頭痛にやられ、「イテテ!」
と悲鳴を上げる。
「寝てなきゃだめよ」
と、祐子が優しく言った。
「ここは?」
「寝室じゃないの、あなたの」
「そうか……」
僕はベッドに寝かされていた。「どうしてこんなことに……」
「分らないわ、私にも」
僕はハッとした。
「そうか! 添田の奴だ!」
「え? 添田さんがどうしたの?」
「あんな奴に『さん』なんてつけなくていい! 僕をぶん殴ったんだ! どこにいる? 殺してやる!」
「そんな——落ち着いてよ」
と、祐子がなだめる。
「しかし……君はどこにいたの?」
「それがねえ——」
と祐子がため息をつく。
「な、何があったんだい? あの霧の中で——」
彼女は大倉を捜しに出た後、姿を消してしまっていた。その後、今までの間に何があったのか?
「それが……言いにくいんだけど——」
と、祐子は顔を伏《ふ》せた。
僕はゴクリとツバを飲み込んだ。僕の頭には最悪の情景が、スクリーンに映写される映画のように(TVに放映される、でもいいけど)写し出されていた。
あの大倉が、祐子を捕え、縛りあげておいて、手ごめにするという……何という悲《ひ》惨《さん》な場面だろう! 僕が映倫の委員なら、絶対にカットしてやる!
「ねえ、言ってごらんよ」
と、僕は言った。
どんなことを言われても、僕はショックを受けまい、と覚悟した。それでこそ男というものだ。どうしてここで音楽が鳴らないのだろう?
「私ね——」
と、祐子は恥《は》ずかしそうに言った。「霧の中で、方向が分らなくなっちゃったの」
「何だって?」
「怖かったから、目をつぶってワッと飛び出したでしょ。そしたら——どこにいるのか分んなくなって、めちゃくちゃ歩いていたら、森の中へ入っちゃったのよ」
「森の中って——裏の森に?」
「そう」
「正反対じゃないか」
「私、凄い方向音《おん》痴《ち》なの」
僕はホッとした。いや、祐子に、もし欠点というものがあるとすれば、それは欠点がない、という点だと思っていたので、こういう人間的な欠点が分るというのは、実に心の休まるものなのである。
「それでどうしたの?」
「で、どっちがどっちか分らなくて……。散々歩き回ったり休んだり……。やっとここへ辿《たど》り着いたの」
「じゃあ、大倉には——」
「ごめんなさい。会えなかったのよ」
「そうか。しかし——良かったよ、君が無事で」
「優しいのね」
祐子が僕にキスしてくれる。これで頭痛が大分柔《やわ》らいだ。
「それからあなたが倒れてるのを見つけて、ここへ運んで来たの」
「そうか。——大変だったんだよ、君のいない間」
「何があったの?」
僕は、大倉の手で「某《ぼう》」という刑《けい》事《じ》が殺され、そのあと、添田と池山、それに僕の三人が地下室で水責めにあったこと、出て来ると大倉が殺されていたこと、池山が殺されたこと、僕も殺され——いや、僕は生きている!
「大変だったのね」
と、祐子は肯《うなず》いた。「私、それなのに、あなたを一人で放っておいて……」
「大丈夫だよ。僕は男だからね」
と、僕は胸を叩《たた》いてみせた。「——大倉の死体は?」
「見なかったわ。ともかくあなたが倒れているのが目に入って、びっくりしたものだから、他のことなんか気にしなかったの」
僕は感動して、ひ《ヽ》し《ヽ》と、祐子を抱《だ》きしめてやった。抱きしめたついでに、ベッドの中へ引きずり込み——というと印象が悪いけど、祐子の方から入って来たのだ——そのついでに僕らは……。
「——それで、添田は?」
と僕は言った。
そのセリフの前の、「……」と「——」の間には色々と意味がこめられているのである。
「見なかったわ」
と祐子が言った。
彼女と僕は、あまり服を着ていない状態で、寄り添《そ》っていた。もちろん毛布はかぶっていたけれども。
「変だな。僕をぶん殴って、どこへ行ったんだろう?」
「逃げたんじゃない?」
「刑事が? しかし、あいつなら、やりかねないな」
僕は肩をすくめた。ともかく、いないのなら、それに越したことはない。人間も、そこまで嫌《きら》われたら、おしまいである。
「——これからどうするの?」
と、祐子が言った。
「そうだなあ」
僕は呟くように言った。こういうときはこっちが黙《だま》っていると、たいてい祐子が何とか言ってくれるのだ。
「大倉が刑事を殺したとして——」
やはり祐子が言い出した。「大倉を殺したのは誰かしら?」
「君がやったのかと思ったんだけど」
「私じゃないのよ。そんな勇気ないわ」
「じゃ、誰がやったのかな」
と僕は首をひねった。
それにしてもずいぶん沢山死んじまった。もともとは、妻一人を殺すつもりだったのに……。
そうだ。それに大倉があの電話の「誘拐犯」でないとすると、あの電話の主は誰なのか?
「どうなってるんだ?」
と僕は言った。
「ややこしくなっちゃったわね」
と、祐子が肯く。
「美奈子を殺したのはいいけど、そのあとはめちゃくちゃだな」
「やっぱり他《ほか》に考えようはないわよ」
「というと?」
「吉野さんよ、しくんだのは」
「そうか! 忘れてた!」
あんまり色々なことが起こるので、吉野のことはコロリと失念していたのである。
「あいつめ! 僕の恩も忘れて!」
思い出すと、急に腹が立ってくる。
「でも共犯がいるはずよ。あの電話は吉野さんじゃないんだし」
「そうだな。吉野の奴を何とかしないと——」
「朝になったら、どうするの?」
「もう朝かな」
「もうじきよ」
「そうか。——ともかく添田を捜さなくちゃ。あの男は僕のことを疑ってるんだ。やってもいない殺人で捕まっちゃ、どうしようもないよ」
すると、突然、
「捜すことはありませんよ」
と声がした。
祐子が、キャッと声を上げて、毛布をつかんで、首のところまで引っ張り上げた。
このつつしみ深さはどうだろう! いや、感心している場合じゃない!
「話はうかがいましたよ」
と、添田がニヤつきながら入って来る。
「立ち聞きか」
「これも仕事の内です」
添田は、いやに落ち着き払っていた。「どうもおかしいと思っていましたよ」
格好をつけようというのか、添田はタバコをくわえて、百円ライターで火を——つけようとしたが、火が出ない。
「畜《ちく》生《しよう》! この安物め!」
と、毒づいて、やっと炎が上ると、タバコに火をつけた。——シュッと音がして、フィルターが燃えてしまった。逆にくわえていたのだ。
「——お二人はずっとこういう仲だったわけですな」
添田はタバコを投げ捨てて言った。
こういうところを見られては、仕方ない。否定するわけにもいかないだろう。
「だからどうだってんです?」
と、僕は開き直った。「恋《こい》は自由でしょうが?」
「そりゃまあね。しかし、奥《おく》さんを殺したとなると——」
添田はニヤリと笑った。「まあ、その可愛《かわい》い女性のためとあれば、分らないでもありませんが」
全くいやな奴だ!
「どうしようっていうんです?」
「そりゃ決ってますよ」
と添田は言った。「私は刑事で、あなたは殺人犯だ。当然、私はあなたに手《て》錠《じよう》をかけて、引っ張って行き、上司にほめられるわけです」
添田は、ゆっくりと椅《い》子《す》の一つに座って、
「金にはなりませんがね」
と、付け加えた。
「——分ったわ」
と祐子が言った。
祐子はベッドから起き上った。これにはびっくりした。何しろ祐子は裸《はだか》なのである。
添田もギョッとして目を見張る。祐子は、堂々と裸のままでベッドから出ると、ガウンをはおった。
「——あなたの魂《こん》胆《たん》は分ったわ」
と、祐子は、添田の前に立った。「お金がほしいのね?」
「そ、そりゃいらないとは言いませんがね……」
「私の体も?」
「い、いや、そりゃいらないとは——」
「祐子!」
と僕が仰天して言いかけると、
「あなたは黙ってて」
と、祐子が押えた。
僕は素直に従った。大体、何もしなくていいという指示には、従った方がいい。
「私の体とお金と、どっちがいい?」
と祐子は添田に迫《せま》った。「両方なんて虫のいいこと言わないでよ。刑事なんだから、ばれたら、そっちも困るのよ。そっちにも弱味があるんだから」
「そ、そりゃまあ……」
添田はすっかり呑まれている。「君の体なら——金はなし?」
「そう」
「金が入れば——」
「お金があれば、それでトルコだって行けるし、愛人も作れるわよ」
「そ、そうだな」
と、添田は肯いた。「それは論理的で、正しい」
「じゃ、お金にする? いくらほしいの?」
「そ、それは——」
「こっちで決めるわよ。そうね……一千万でどう?」
「一千万!」
「不足?」
「いや——まあ結構で——」
「じゃ、決めた。その代り——分ってるわね」
「うん」
「私たちのことは黙ってるのよ」
「よし分った」
「じゃ出て行って。私たちまだ途《ヽ》中《ヽ》なんだから」
僕はすっかり感動してしまった。まずいきなり裸を見せて相手を圧《あつ》倒《とう》し、そのまま一気に交《こう》渉《しよう》して、丸め込んでしまう。
祐子は外務大臣にでもなればいいんじゃないだろうか。もっともそうなると、国際会議はラブ・ホテルあたりで開催することになるかもしれない。
「じゃ、まあ——ゆっくりお休み下さい」
添田はコロリと変って、まるでホテルの従業員みたいに頭を下げながら出て行った。
「凄いね! 感心したよ」
と僕が言うと、祐子は、駆け寄って来て、僕に抱きついた。
「他にどうしようもなかったのよ。——怒らないでね」
「何を怒るんだい?」
「他の人に裸を見せたこと。——死ぬほど辛かったのよ」
「怒るもんか!」
僕は再び、ひ《ヽ》し《ヽ》と彼女を抱きしめたのである。——で、「途中」から「終点」まで、また二人して頑張ったのだった。
頭の方の痛みは、もう忘れていた。——そうか、その分、一千万から差し引いてやろう。
でも、頭を殴られた代金というのはいくらぐらいなのだろう?