「どうしましょうか」
祐子は、のんびりと言った。
「お金は……」
「大体、最初から金庫へ入れなかったの。私がいただいてるのよ」
「なるほど、そうか」
と僕は肯いた。「じゃ、もう君の目的は果したわけだね」
「そうね」
祐子は肯いた。「でも——このままじゃ済まないわ。そうでしょ?」
僕は、ぼんやりと座っていた。
こういうとき、どうすればいいものか、まるで見当がつかないのだ。
何しろ、今までは、総て祐子が考えてくれていた。それを今になって、急に自分で考えろと言われたって……。
それにしても、美奈子一人を殺して終るはずだったのに、何とも凄《すご》い事件になってしまったもんだ。
「私をどうする?」
と祐子が訊く。
「さあね」
「私は、あなたが奥さんを殺したことは黙《だま》ってるわ。あなたは私が一億円持って、出て行くのに目をつぶる。それで、いかが?」
「それで済むかな」
「済むわよ。あなたの奥さんが誘拐され、身代金は、よく分らない方法で奪われた。でも、奥さんは戻って来なかった。——よくあることだわ」
「その内、見付かるよ」
「構わないじゃないの。誰が埋めたか、なんて分らなくなってるわ」
「なるほどね」
と僕は言った。「吉野は?」
「私は一人よ。いつも、ね。吉野さんにはいい人生勉強になったでしょ」
それは確かだ。
「後は、あの添田って刑事よ。あの人だけ黙らせておけば、私もあなたも、無事でいられるわ」
そうかもしれない。——そうだろうか?
僕は、一億円を惜しいとは思わなかった。
いや、多少思ったが、その悔《くや》しさなんて、取るに足りない。
祐子が、そこら辺にいる、他の女とちっとも変らない、ただの女にすぎないということ。——そのことの方が、僕にはたまらなかったのだ。
祐子は僕の天使だったのに、その天使が電卓で、銀行の利子を計算しているのを見るのは、辛かった。
「顔を洗ってくるよ」
僕は立ち上って洗面所へ行った。
少し頭をすっきりさせなくては。——ほんの偶《ぐう》然《ぜん》だった。
引き出しが、少し開いていて、気になった僕は、閉めようとした。——何かが、引っかかっている。
もう一度引き出してみる。
そこには、祐子が織田を刺《さ》したナイフが入っていた。忘れていた。僕が、ここへ入れたのだ。
僕はそれを手に取った。
神の導きというか、そんな気持だった。
今、ナイフが僕の目に止ったのは、おそらく、祐子を刺せという神の声だろう。
そうだ。——祐子は永遠に僕の中の、「美しく清らかな祐子」でいなくてはならない。
そのためには、僕は、何もかも投げ捨てても構わないのだ……。
僕は、顔をタオルで拭うと、ナイフを持った手を後ろへ回して、寝室へ戻った。
「——どう? 目が覚めた?」
と、祐子が微笑みながら訊く。
「うん……」
僕は言った。「一つお願いがあるんだけど——」
「なあに?」
「もう一度キスしてくれないか」
「いいわよ」
祐子は、僕の首に両手をかけて、ゆっくりとキスをした。
僕は、ナイフを握った手をそっと彼女の背中へ回して行った……。
「——大変な事件でしたな」
と添田が言った。
「ええ」
と僕は肯いた。
「よく死んだもんだ」
「全くです」
二人の死体に白い布がかけられようとしている。——祐子と、吉野だ。
いや、誤解されては困るので申し添《そ》えておくが、僕が二人を殺したわけじゃない。
大体、吉野は最初から気を失っていたふ《ヽ》り《ヽ》をしていただけで、縛った縄《なわ》も、みかけだけのものだった。
僕が、祐子の本心を聞き出すために、ああいう風に見せかけようと吉野に話したのである。
しかし、吉野は、思っていた以上に、祐子に惚《ほ》れていたようだ。
ただ利用しただけだと祐子が話すのを耳にして、カッとなったらしい。僕が祐子を刺すより速く、彼女の後ろから首を絞《し》めようとしたのである。
祐子はもちろん、猛《もう》烈《れつ》に抵《てい》抗《こう》した。
僕はといえば……公平の原則を守った。
この二人の争いに、どっちの味方もすべきでない、と判断したのだった。
で、当然、祐子の方に、体力上のハンディがある。そこで公平の原則を貫《つらぬ》くため、祐子の手に、ナイフを握らせてやったのである。
祐子はそれで吉野の背中を刺した。吉野は最後の力をふり絞って、祐子の首を絞め続けた。
かくて——二人とも死んじまったのである。
「この二人が共謀して、あの大倉を使い、奥さんを誘拐させた、と」
添田はそこまで来て、声を低くし、「表向きはこれでいいでしょうね」
僕は肩をすくめた。
「お好きなように」
添田は笑って、
「いや、あなたは運のいい人だ。あんなことをしておいて、うまく法の手を逃《のが》れるとはね!」
運がいい、か。——僕は苦笑した。
僕は恋人を失ったのだ。そのどこが、「運がいい」んだ?
「後の始末は、私に任せて下さい」
と添田は僕の肩をポンと叩いた。
こっちはあまり喜べない。
「なに、私が、うまくやりますよ。ただし——」
と添田は、け《ヽ》い《ヽ》れ《ヽ》ん《ヽ》としか見えないウインクをした。「それなりのお礼は、下さるでしょうな」
「分ってますよ」
と僕は言った。
どうせ、この先、ずっとこの添田という刑事につきまとわれることになるのだろう。
「——よし、運び出せ!」
と、添田が大声で言った。
しばらくすると、家の中はシンと、静まり返った。
後は、美奈子の死体が、いつか、どこかで見付かるかもしれないが、しかし、それで僕が疑われることはあるまい。
何もかも、終ってしまったのだ。
僕は一人、居間に座って、ぼんやりしていた。
美奈子も、祐子もいなくなった。
今になってみると、せめて美奈子がいれば、まだ殺意を抱くという「楽しみ」があったのに、と思う。
人間ってのは、ぜいたくな動物だ。
そうだな。——今度は、あの添田を殺す計画でも立てることにしようか。
相手は能なしでも一応刑事だ。こいつは慎重を要する。
うん、これは当分、時間が潰《つぶ》せそうだ。
気を取り直して、コーヒーを淹《い》れていると、急に、玄《げん》関《かん》の方が騒がしくなった。
出てみると、刑事の一人が飛び込んで来る。ひどくあわてているのだ。
「どうしました?」
「大変です! 電話を貸して下さい!」
「どうぞ。何があったんです?」
「電話がトラックにぶつかったんです。死傷者が出て——」
電話にそんな力があるとは知らなかった。
「いや、違った」
と刑事は頭を叩《たた》いて、「パトカーとトラックが正面衝《しよう》突《とつ》で……。ひどいもんです」
「パトカーが?」
と僕は言った。「誰か死んだんですか?」
「添田さんが……。トラックとまともにぶつかって、頭が飛んじまいました」
なるほど、それでは生きていないだろう。変った男だったが、頭なしでは……。
「やれやれ……」
と僕は呟いた。
添田まで勝手に死んじまった。
僕は何て運の悪い男なんだろう!