「まあ、可哀《かわい》そう。よっぽど疲れてるんだわ」
と、女の声がした。
「ワン」
と、犬が鳴いた。
「放っとけないわよ。何ていっても、ずんぶん迷惑《めいわく》かけたんだもの。——寝てる間に、何か食べるものでも用意しときましょう」
「ウー」
「あら、私、ちゃんと研究して来たんだからね。あんたとは違うのよ」
「ワン」
「そりゃ、こっちだって落ちこぼれですけどね。天国の落ちこぼれと、地獄の落ちこぼれじゃ大違いなのよ」
「クーン」
「少し静かにしてれば? この人、せっかく眠ってるんだから。——人間って、こんなに馬鹿みたいな顔して眠るもんなのね、ハハハ……」
——遠い声だった。
何を勝手なことしゃべってやがるんだ!
ここをどこだと思ってる。警視庁捜査一課の吉原丈助刑事の超高級[#「超高級」に傍点]マンションだぞ!
俺《おれ》は一人なんだ。ここで一人暮しだ。
誰の声もするわきゃないんだ。きっとTVでも点《つ》けっ放しになってたんだな。
——吉原は、眠りの世界と、現実の間をフラフラとさまよっていた。
何しろ、ここへ帰った時は、もう疲労の極致にあったのだ。
三宅吉司を殺したとみられている、その妻、三宅照子が、一人娘の良子を連れて、姿をくらましてしまった。
しかも、一旦《いつたん》、駐在所に保護しながら、では、とんだ大失態である。何とかして発見しようと、夜を徹《てつ》して——いや、翌日の昼過ぎまで、現場となったアパートの付近一帯を、捜し続けた。
その結果、みごと——何も見付からなかったのである。
課長の村田《むらた》には怒鳴《どな》られ、しかも前夜から一睡もしてないし、何も食べていない。
一旦、ここへ戻《もど》るべく、自分の車を運転して来たが、空腹と眠気で、事故を起こしかけること数回。無事に辿《たど》りついたのが、不思議だった。
半ば眠っているような状態で、マンションによろめき入り、そのままソファの上にドッと倒れてしまった。
眠り込んだものの、疲れ過ぎているせいか、却《かえ》って眠りが浅いようで、何となく空耳のような話し声が聞こえたのだった。
そういえば——ゆうべは妙な奴《やつ》がいたな。
あの若い女の子と黒い犬……。あいつらのおかげで、一恵には逃げられ、ひどい目にあったが……。
それとも、あれは全部夢だったんだろうか?——そうかもしれない。
一恵をここへ連れて来るというので、緊張《きんちよう》のあまり、変な夢を見たのかも。
きっとそうだ。——ついでに、殺人事件も、犯人を逃がしたことも、全部夢だといいのにな。
目を覚ますと、テーブルにおいしい朝食が用意されて、一恵がやさしく微笑《ほほえ》む。
「あなた、もう起きないと……。ほら、キスして起こしてあげるわ」
とか言って、そっと頬《ほ》っぺたにキスしてくれる。
フフ……、冷たいよ。そうなめるなよ。
「あなたったら……朝っぱらから、何してるの?——だめよ、お料理がこげちゃうじゃないの。——ねえ」
いいじゃないか、新婚なんだぜ……。
「だって——そんな——」
ほら、じっとして……。
「だって——ワン」
ほら、そんなに吠《ほ》えないで……。
ん? 何で吠えるんだ、一恵が?
目をパチッと開くと、目の前には真黒な顔があった。どう見ても一恵じゃない。そんなに鼻が光っていないはずだ。
「ワァッ!」
吉原は飛び上った。
「キャン!」
黒い犬が、床へ投げ出されて、引っくり返る。
「な、何だ、この犬!」
「あら、目が覚めたの。ちょうど良かったわ」
と、声がした。「食事の用意、できたところよ」
吉原は、ポカンとして、目の前の少女を眺めた。——夢じゃなかった。
「ここで何してる!」
と、吉原は、まず怒鳴《どな》った。
「食事の仕度」
と、少女が答えた。
「いや、そんなことじゃない! ここは——ここは、僕の部屋だぞ!」
吉原は、そう言ってから、周囲を見回した。「うん、確かに僕の部屋だ!」
「そうじゃない、なんて言ってないわ」
「勝手に人の部屋へ入りこんで、何をしてるんだ? 君も、その薄汚《うすぎた》ない犬も」
黒い犬が、頭に来たように、ウーと唸《うな》ったので、吉原は、ソファの上に飛び上った。
「怒らないのよ」
と、少女は犬の首筋をポンと叩《たた》いた。「勝手にお邪魔したことについては、ゆうべ謝ったわ」
「ゆうべ……。ゆうべか!」
吉原は、思い出して改めて頭に来た。「君とその——その犬のおかげで、僕は恋人に逃げられたんだぞ!」
「ごめんなさい」
と、少女は首をすぼめた。「そんなつもり、なかったんだけどね」
吉原は、ぐっと腹に力を入れ、
「出て行け!」
と、怒鳴ろうとした。
とたんに——グーッと、腹が、それだけのエネルギーが不足していることを訴えたのだった……。
「お腹《なか》、空《す》いてるんでしょ。ずいぶん眠ってたもんね」
「そんなに? 今、何時だ?」
時計を見て、吉原は目をパチクリさせた。八時。——八時?
「夜の八時?——大変だ!」
「焦《あせ》ってもしょうがないじゃない。ともかく食べて。——ね?」
吉原は迷った。この得体《えたい》の知れない少女と黒い犬を叩《たた》き出すのが先か、それとも、何か腹へ入れるのが先か。——当の[#「当の」に傍点]腹が、グーッと再び訴えて、結論を出した。
「——いかが?」
と、少女が微笑《ほほえ》みながら、訊《き》いた。
「うむ……」
吉原は、何とも返事のしようがなかった。一つには、口の中が、食べたもので一杯《いつぱい》になっていたせいでもあるが、何とも言いようのないのも事実だった。
「これでもずいぶん研究して来たんだけど……。気に入らない?」
吉原は、お茶をガブ飲みして、やっと息をつくと、
「まあ……客観的に言って、味そのものは、決して悪くない」
吉原は、正直なところ、「こんなまずいものが食えるか!」と、皿を引っくり返して、この少女と黒い犬を叩き出そうかと思っていたのである。
しかし、それにはいささか気がひけた。
なぜなら、用意されていた料理の皿は、全部きれいに空っぽになっていたからである。
「そう! 良かった」
少女はホッとしたように、「食べてくれなかったら、どうしようかと思ったのよ」
「しかし……」
と、吉原は首をかしげた。
食べておいて文句を言うのも変かもしれないが、取り合せが何とも珍妙だったのだ。
焼肉、みそ汁、コーンフレーク、カレーライス。それにギョーザ。
これだけ食べてしまったのも大したものだが、こうも雑多な料理を並べるというのも、まともでない。
いや、まともでない、といえば、大体この少女と犬、そのものが、まともじゃないのだ!
「——やれやれ」
吉原が食事を終って一息ついたのは、もう九時になるころだった。
「これから会社に行くの?」
と、少女が訊《き》いた。
「いや。会社じゃない。僕は刑事だからね。警察へ行くのさ」
「ワン!」
と、犬がびっくりしたように吠《ほ》えたので、吉原の方もびっくりした。
「何だか、この犬、人の話が分るみたいだね」
「気にしないでいいんです、この犬のことなら」
と、少女は言った。「へえ。刑事さんなの? 見たところ、そんな風に見えないけど」
「僕のことより、君たちのことだ」
と、吉原は、咳払《せきばら》いして、「まず、どうして僕の部屋の風呂《ふろ》に裸で飛び込んだのか、聞かせてほしいね」
吉原は、改めて、その少女を見直した。
十七歳か十八歳。やや小柄《こがら》だが、スタイルは悪くない。顔が丸いので、多少太っているような印象を与えた。色白で、肌《はだ》はつややかだった。
きらめく、大きな目、唇には微笑《びしよう》。——林一恵との肝心の一夜を邪魔されなければ、吉原だって、ふと目をひかれそうな、可愛《かわい》い少女である。
そして少なくとも、まともでないという印象を与えるようなところはどこにもない。
だからこそ不思議なのだ。こんな少女が、なぜ突然、吉原の部屋へ忍び込んで、風呂に入っていたのか……。
「それは——」
と、少女が言いかけるのを遮《さえぎ》って、
「いや、ともかくまず、君の名前を聞こう」
「名前……。何でもいいの」
「何でも?」
「ええ。だって、あっち[#「あっち」に傍点]じゃ、そういう普通の名前ってついてないんですもの」
「あっちって?」
「ゆうべ話したわ。それとも——もう忘れちゃったの?」
「いいかね」
と、吉原は、ため息をついて、「確かに、ゆうべ君の説明は聞いた。しかしね、あんな話を信じろっていうのかね?」
「だって本当なんだもん」
と、少女は言った。
「大したもんだ! 凄《すご》いニュースだよ。天使が一人——だか一匹だか、知らないけど、天国から下りて来て、人間の家の風呂へ飛び込んだ、か」
「そう」
「TV局が喜んで飛んで来るだろう。天使なのにどうして翼がないんだ、って訊《き》くだろうね」
「お菓子のマークじゃないんだもの。そう人間の考えた通りの格好できないわよ」
「なるほど」
吉原は、お手上げ、という様子で、「ともかく、君がそんなでたらめを頑固《がんこ》に言い張るのなら、僕としても君のことを、家出人として扱うしかないね」
「そんな。——家出ったって、こっちが出たかったわけじゃないわ」
「ほう?」
「出されちゃったの。少し人間のことを勉強して来いって」
「なるほど」
「ほら、人間もよくあるでしょ? 会社で研修旅行とか。それと同じ」
「なるほど。大変によく分った」
「分ってくれた?」
と、少女が嬉《うれ》しそうに言った。
「じゃ、今夜は留置場に泊ってもらうか」
「留置場って……」
少女は眉《まゆ》を寄せて、「どんなホテル? 星の数でいうと? 二つ星? 三つ星? バストイレ付き?」
吉原は頭に来た。ここまで馬鹿にされると、少女の可愛《かわい》らしさも、苛々《いらいら》の種になる。
「どうでもいい! ともかく橋の下でも地下道でも、勝手に好きな所で寝ろ! ともかく僕の部屋から出て行け!」
と、怒鳴《どな》った。
まあ、怒鳴るだけの力が出るのは、少女の作ってくれた料理を食べたおかげではあるのだが。
「——待てよ。おい、その服はどうしたんだ?」
と、少女の着ているデニムのジャンパーとスラックスを眺めた。
「表で買って来たの。あなたのコート、借りて着て行ったけど」
「お金は? 天使ってのは月給制なのか?」
「あの——買物もあったし。食べるものとかの。で、その引出しから……」
「人の金を勝手に使ったのか!」
吉原はカッとなった。
一恵のために大分今月は無理な出費をしているのである。
「ごめんなさい」
と、少女は頭をかいた。「だって、裸でいたら、またあなたが困ることになるかと思って」
「大きなお世話だ!」
吉原は時計を見た。——何時になっても、捜査本部へは出ないとまずい。
「分ったよ」
と、吉原はため息をついて、「君に料理を作ってもらって、僕は食べた。その代金として、その服は君にあげたことにしよう。ともかく、もうここから出て行ってくれ」
「分ったわ」
と、少女は口を尖《とが》らした。「人間って、もの分りの悪い生き物なのね」
「僕はもの分りがいい方だ!」
「そう大声出さないで。子供が起きるわ」
「そうか……」
と、吉原は声を低くして、「じゃ、ともかくこれを片付けて——。今、何て言った?」
「子供が起きちゃうわって」
「子供? 子供なんていないぞ」
「奥の部屋で寝てるの」
「誰が?」
「あら、起きて来ちゃった」
振り向いた吉原は、七、八歳の女の子が、ポカンとした顔で、寝室の入口に立っているのを見て、唖然《あぜん》とした。
「どうしたの? うるさかったでしょう? この人、大声ばっかり出すから」
「ううん」
と、その女の子は首を振って、「お腹《なか》が空《す》いちゃったの」
「あ、そうか。そうね、何も食べてなかったんだものね」
と、少女は立ち上って、「何か残ったもので作るわ」
「おい——おい、ちょっと」
吉原は、あわてて少女を台所まで追いかけて行った。
「ギョーザがいくつか残っているし、お肉もあるし、と……」
「あの子は何だ?」
「あなたが帰って来て、ドタッと倒れちゃってからね、少ししてドアの前に立ってたの」
「ドアの前に?」
「すごくくたびれてたみたいだったから、中へ入れて休ませたのよ。当然でしょ? 放っておけないじゃない」
「しかし……」
「待ってよ。子供がお腹空《なかす》かしてるのに、放っておけって言うの?」
「いや——そうじゃないけど」
吉原は、渋々、居間へ戻《もど》った。「どうなってるんだ、畜生!」
「——すぐできるからね」
と、少女が戻って来ると、「お母さんはどうしたの?」
「寝てる」
「そう。よっぽど疲れたのね」
お母さん?——お母さんだって?
吉原は、立ち上って、寝室を覗《のぞ》いた。
見たこともない女が、吉原のベッドで静かな寝息をたてて、眠り込んでいた……。
電話が鳴って、吉原はあわてて飛びついた。
「はい、吉原です」
「生きとったか」
と、課長の村田の声がした。
「申し訳ありません! 色々その——ごたごたがありまして。すぐに出ますから」
「いや、構わん」
と、村田は珍しくのんびりしている。「例の親子は未《いま》だに行方《ゆくえ》がつかめん。知人や親類などを当らせている」
「どうも、とんだ失態で……」
「いや、それよりお前、もう一度現場をよく調べてくれんか」
「は? 何か見落としが?」
「いや、どうも三宅という男、裏に何かありそうだ。よく洗ってくれ」
「分りました」
「それから、女がいたな。三宅の知り合いとかいう」
「小川育江ですか」
「そうだ。詳しい話を聞きたい。連絡先は?」
「あの——父親が連れて行きました。何でも児玉総監と知り合いの方だと」
「総監だと? うちの総監か?」
「はあ」
「総監は中沢《なかざわ》だ。児玉なんてのは知らんぞ」
吉原は青くなった。——そうだった! あの小川尚哉という男が、まことしやかに言うので、つい……。
「おい、どういうことだ?」
「は、その——実は——」
と、しどろもどろで事情を説明すると、しばらく沈黙した後、
「すると、お前はその小川何とかいう男の言うことをうのみ[#「うのみ」に傍点]にして、その女を一緒に行かせたのか」
「はあ……」
「連絡先も訊《き》かず、身許《みもと》も確かめずに、か!」
「す、すみません」
「俺《おれ》はいい部下を持って幸せだ」
「恐れ入ります」
「いいか!」
村田の声が、受話器を突き破らんばかりに高くなった。吉原はあわてて耳を離した。
「その女を何としても見付けて来い! それから、女を連れて行った男もだ! 分ったか!」
「わ、分りました」
電話が切れても、しばらく耳鳴りがした。それくらい村田の声は強烈だった。
「畜生!」
吉原は、空中で拳《こぶし》を振り回した。
あの男の押し出しの良さだけで、コロッと騙《だま》されるなんて! 何てことだ。
「——どうかしたの?」
と、少女が訊《き》いた。
「君の知ったことじゃない! 大体、何だ、勝手に見も知らん人間を僕の部屋へ入れて寝かせるとは!」
と、吉原は八つ当り気味に怒鳴《どな》った。
「ママが起きるよ」
と、小さな女の子が、ジロッと吉原をにらんで言った。
吉原は、もう絶望的な気分だった。
ここは俺一人の家だったのだ。それなのに——どうしてだ?
見たこともない女がベッドで寝ている。それに天使だと自称している変な少女と、黒い犬。そして子供まで。
いつの間に俺の所は無料宿泊所になったんだ?
「——大分疲れてるみたいね」
と、小さな女の子が言った。「もっと優しくしてあげなきゃ」
「そうね」
と、少女が肯《うなず》く。
「ワン」
と、黒い犬がないた。
吉原は、発狂する前にここを出なくては、と思った。
「出かけて来る」
と、コートをつかみ、「帰って来るまでに、一人残らずここから出て行くんだ! もし一人でも——一匹でも残ってたら……保健所へ連れてくぞ!」
そう怒鳴ると、吉原はマンションを飛び出して行った……。