「やっぱり、無理かしら」
「だから言ったじゃないか」
「だって……」
「人間なんて、そんなもんさ。自分のことしか考えちゃいないんだから」
「そんなことないわ。あの人だって、疲れて苛立《いらだ》ってるだけよ」
「甘い甘い。そんなことで人間の間で暮らして行けると思ってんのかよ」
「あら、それじゃ、あんたは帰れば?」
「帰れば、って……。帰れりゃ苦労しねえや」
と、最後の方は独り言だった。
もし、誰かが聞いていたとしても、分りゃしなかったろう。人の耳には、ただ犬がウーと唸《うな》っているようにしか聞こえないはずだから。
「あんた、大体どうして私と一緒に来たの? 別にいいことなんてないじゃない」
「そりゃあ……。まあ一人[#「一人」に傍点]でいるより、面白いかと思ってさ」
「ふーん。ま、私は構わないけどね。でも、私のそばに犬の格好でいるのなら、それらしくしてくれないとね。変に人間の言うことが分るような顔したら、それこそ、怪しい犬だって、保健所へ連れてかれちゃうよ」
「ごめんだぜ、そんなの。何しろ、悪魔ったって、何も超能力があるわけじゃないんだからな」
「そりゃ私だって同じよ。空でも飛べたり、姿を消して歩いたりできりゃね。面白いんだろうけどなあ」
「——なあ」
「何よ」
「協力しようじゃないか」
「何を?」
「お前も俺《おれ》も、人間界じゃよそ者[#「よそ者」に傍点]だ。お互いに助け合って行こう」
「何か下心があるんじゃないの?」
「何だよ。せっかく人が好意で——。天使が人の話を疑っていいのか?」
「あんた、人じゃないの。犬よ」
「そりゃまあそうだけど……」
「——いいわ。じゃ、まず住む所を確保するのよ」
「あのボンヤリした刑事、扱いやすそうじゃないか」
「純情な人よ。だから、迷惑《めいわく》かけた分、お詫《わ》びしないとね」
「頭に来てるぜ、相当に」
「刑事でしょ。だから、手伝ってあげればいいのよ。犯人を見付けてあげるとかさ。——そうよ!」
「何だよ。馬鹿力で叩くなって」
「失礼ねえ。——あんた犬の格好してんだから、どこでも入って行けるじゃない。いい助手だわ」
「勝手に助手にするない」
「あら、いやなの?」
「いや……じゃないけど」
「じゃ、つべこべ言わないの。——ほら、そろそろ着くみたい」
——天国から研修に来た天使。そして、地獄から成績不良(?)で叩《たた》き出された悪魔……。
悪魔の方は、しかし胸の内に秘めた目的[#「目的」に傍点]があったのだ。
そうだ。そのためには、あの刑事の手伝いをするってのは、いい考えかもしれないぞ。
「ワッ!」
二人して、車がバウンドしたので、悲鳴を上げてしまった。
「——何だ?」
吉原は、車を停めて、振り返った。
何だか変な声がしたような……。気のせいかな。
もうこの車も寿命なんだよな……。
吉原は、車から出た。——現場になった部屋の前には縄《なわ》が張ってある。
ふと、隣の宮田という、塾の教師のことを思い出して、ドアを叩《たた》いてみたが、返事がない。
留守《るす》かもしれない。取りあえず、現場になった三宅の部屋に入ってみることにした。
——明りを点《つ》ける。部屋の中は、何の変りもない。
しかし、住む人間がいなくなると、たった一日しかたっていないのに、部屋の中は妙に寒々として見える。
ともかく、まず現場になった浴室を見る。
まだ血が飛び散って、生々しい。見ているだけでも何となく気が滅入《めい》って来るようである。
あのシャベル……。凶器はあれだったわけだが。
ふと、おかしいな、と吉原は思った。
あれは外国製の、モダンなシャベルである。いわゆるサバイバル用として、ちょっとした流行になっている品だ。
そんなものが、なぜこのアパートにあったのか? どうにも似つかわしくない。
三宅が、全く抵抗した様子がなかったことも、少し気になった。泥酔《でいすい》していたとすれば分らないでもないが。
三宅は声を上げなかったのだろうか?
上げたとすれば、隣の宮田に聞こえなかったのか。
畜生、それにしても……。あの小川育江と名乗った女!
でたらめの名前だったかもしれないが、吉原はコロッと騙《だま》されてしまったのだ。自分に腹が立つ。
「——ここが現場なのね」
突然すぐ後ろで声がして、吉原は、
「ウァッ!」
と、飛び上ってしまった。
「あら、びっくりさせた?」
「——おい、何してるんだ、こんな所で!」
吉原は、少女と黒い犬を見て、目を丸くした。
「あら、だって、ずいぶん迷惑《めいわく》かけたし、何かお手伝いできないかしらと思って」
「ワン」
「大きなお世話だ!」
と、かみつくように(犬じゃなかったが)言ってから、「どうやってここに来たんだ?」
「車に乗って」
「僕の?」
「そう。トランクの中に隠れて。これでも気をつかったのよ」
「いいか——」
と、言いかけて、吉原は、電話の鳴る音に気が付いた。「電話だ」
「そこにあるわ」
「分ってる!」
三宅あてにかかって来たのだろうか?
吉原は、電話に出ようとして、ふと思い当った。昨日、ここにいて、何となく奇妙な印象を受けていたのは——少なくとも、その原因の一つは——この電話だった。
いやにモダンで、可愛《かわい》いピンク色のプッシュホンなのである。この部屋には、やはり似つかわしくない。
いや、もちろんたまたまそうなった、ということもあるだろうが。
「——はい」
と、吉原は、低い声で言った。
「どうだ? 準備は終ったのか」
と、いきなり男の声。
誰だろう? 吉原は、何となく聞いたことのある声だ、という印象を持った。
「もしもし。そちらは——」
と言いかけたとたん、電話は切れてしまった。「何だ?」
準備は終ったか?
あれは何の意味だろう?——誰に[#「誰に」に傍点]向って言ったのか。
三宅が殺されたことを知らないで、かけて来たのか。
「——切れちゃったの?」
と、少女が覗《のぞ》き込む。
「仕事中だ! 口を出すな」
「変な人ね」
「変な人だと? 自分はどうだ? 変な天使のくせに」
「私のことじゃないわ」
と、少女はふくれて、「その電話の相手、あなたが名前も言わないのに」
「うん。——確かに妙だ」
と、吉原は受話器を置いた。
「可愛い電話ね」
「勝手にいじるな」
「いいでしょ。——一一〇番する?」
「いたずらで捕まるぞ」
電話の相手は、きっと三宅が殺されたのを知っていたのだ、と吉原は思った。
でなければ、ただの仕事の話ぐらいなら、出ているのが誰かぐらい、確かめるだろう。
「これ、何かしら?」
「おい、勝手にいじると——」
「何か入ってるみたい。私って目がいいのよ」
「人には一つは取り柄《え》があるもんだ」
「私もそう言われたわ」
「誰から?」
「大天使。上の方なの。私は下級の天使」
吉原は、何だか知らないが、腹が立つのを通り越して、笑い出してしまった。
「これ、外れるのね。——こう回して」
送話口をねじって外すと、中から、四角い箱のようなものがポトリと落ちた。
「あ、こわれちゃった。いけない」
「ワン」
「笑うな!」
と、少女が犬をにらんだ。
しかし、吉原は笑わなかった。その箱を拾い上げると、
「これは……。盗聴機《とうちようき》だ」
「何なの?」
「電話を盗み聞きするんだ。驚いたな!」
「へえ。人間って、よっぽどお互いに信じてないのね」
「待てよ、おい。誰かがこれを仕掛けた。——しかし、なぜだ? 三宅はただの失業者の酔っ払いだったのに……」
そんな人間の電話を、盗聴してどうなるというのか。
つまり、この意味は、三宅吉司が、ただの失業者ではなかった[#「なかった」に傍点]ということである。
「こいつは、どうも裏に何かありそうだな」
と、吉原は言った。
「裏に?」
「うん」
「じゃ、調べに行きましょ」
「どこへ?」
「ここの裏を調べるんでしょ?」
どこまで真面目《まじめ》なのかね、この女の子は?
「まあ、いいよ。ともかくこれを見付けてくれただけでも、お手柄《てがら》だ」
「盗聴機があるってことは、誰かが聞いてるってことね」
「そうだろうね」
「それが誰なのか、調べるわけ?」
「分ればね」
「じゃ、電話するのよ」
「どこへ?」
「どこにでもいいわ。向うがそれを聞いて、出て来るようなことを話せばいいんだわ」
「ふむ……」
吉原は、肯《うなず》いて、「そりゃいい手かもしれない。しかし——」
「たとえば、ほら、あなたがどうとか言ってたじゃない。何とかいう女のこと」
「小川育江?」
「その女が何者か、分ったとか。でたらめでもいいわ。そう電話したら? それを聞いて、盗聴《とうちよう》してる人があわてれば、動き出すかもしれないわ」
「なるほど」
少々無茶かな、とは思ったが、確かに、盗聴機を見付けて、まだ向うが見付かったことに気付いていない以上、利用しないという手はない。
「よし、やってみるか」
「そうよ!」
吉原は、盗聴機を元の通りにセットすると、捜査一課へかけた。
「——村田だ」
「課長ですか。吉原です」
「何だ。どこからかけてる?」
「三宅のアパートです。どうも、こいつは大変なことになりそうです」
「どういうことだ?」
「かなり大がかりな組織犯罪が、かかわってるみたいですよ」
「何だと?」
村田が目をむいているようだ。
「三宅ってのは、一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかない男です。それに、小川育江のことも、正体がつかめました。勘《かん》ですが、まず間違いないと思います」
「そうか! そりゃ凄《すご》い」
あとで、全部でたらめと知ったら、課長、目を回すかな、と吉原は思った。
「三宅の女房と娘だが——」
「見付かりましたか」
「いや、手がかりなしだ。そっちはどうなんだ?」
「ご心配なく」
「何だ?」
「三宅照子と娘は、僕が発見しました」
「ほ、本当か?」
「僕のマンションに、無事保護してありますから。犯人は別にいるのです」
「そ、そうか。じゃ、詳しい話を——」
「後でそっちへ参りますので、その時にお話しします。では」
「うん。——まあ、頑張《がんば》ってくれ」
村田は、すっかり度肝を抜かれた様子だった……。
「——少しやり過ぎたかな」
と、吉原は、受話器を置いて、言った。
「いいじゃないの。出まかせでも。これで誰かが引っかかって来れば」
「魚つりだな、まるで」
と、吉原は笑った。
「でも、殺されたのはここのご主人なんでしょ?」
「うん。どうやら犯人は女房らしい。——しかし、この盗聴機《とうちようき》のことなんか考えると、ちょっとどんなもんかな、とも思うんだが」
「人間って、先入観に左右されやすいわ。気を付けないと」
「うむ」
いつの間にやら、この自称天使の話を、真面目《まじめ》に聞いている自分に気が付いて、吉原は妙な気分だった。
「その人、子供を連れて逃げてるの?」
「うん。七つ、とかいったな。女の子だそうだ」
「じゃ、あなたのマンションにいた子ぐらいね」
「ああ、そうだな」
と、吉原は肯《うなず》いたが……。「おい、あの子はどうしたんだ?」
「どうしたって? まだ母親が眠ってるから——」
「いや、どこの子だ?」
「知らないわ」
「待てよ……」
この二人——いや一人と一匹は、俺《おれ》の車のトランクに隠れていたんだ。
もしかして、三宅照子と、その娘も、俺の車のトランクに隠れていたのかもしれない……。そうなると——。
「写真だ!」
「え?」
「ここの母親と娘の写真! どこかにないかな?」
「捜してみる?」
「頼む!」
「ほら、あんたも!」
と、頭をポンと叩《たた》かれて、黒い犬も渋々起き上った。
引出しを開けたり、戸棚を引っくり返したり……。
「ワン」
と、犬がないた。
「あった?」
「ワン」
「——これだわ」
引出しの中から、写真が出て来た。三つか四つの女の子と、両親だ。
「大分前だけど……。あの女の子じゃないかしら?」
吉原は、それを見て、目をみはった。
「——そうだ! この女……。さっき、僕のマンションで寝てた女だ!」
「じゃあ……」
「何てことだ! 本当に[#「本当に」に傍点]僕のマンションにいたんだ。車のトランクに隠れて、あそこまで乗って来て……。こりゃ傑作《けつさく》だ!」
吉原は、ニヤリと笑って、「これで、課長にも大きい顔ができる!」
「そうね。でも……」
「ワン」
写真を見付けたのは俺だ、と言いたげに、犬が尻尾《しつぽ》を振るが、全く無視されていた。
「いや、君に礼を言わなきゃな。あんなに必死で捜し回ってたというのに、目の前にいたなんて!」
「でも、ねえ——」
と、少女はポンポンと吉原の肩を叩《たた》いた。
「何だ?」
「もし[#「もし」に傍点]、さっきの電話を、誰かが本当に盗聴してたとしたら?」
「それがどうかしたのか」
「だって、向うは、あなたの言葉を信用して、あなたのマンションへ行くかもしれないわ。あの親子を捜しに。いなけりゃ、構わないけど、本当にいたら……」
「——そうか」
吉原は、青くなった。「まずい!」
吉原はアパートを飛び出した。
「で、どうするのよ!」
「マンションへ戻《もど》るんだ!」
吉原は、自分の車へと駆け戻った。
「待って! 乗っけてよ!」
少女と黒い犬が、あわてて飛び込むと、車は猛《もう》スピードで走り出した。
吉原の車は、残念ながらポルシェでもBMWでもないが、何とか故障も事故も起こさずにマンションへ辿《たど》り着いた。
「——やれやれ」
三階へと階段を上りながら、「考えてみりゃ、こんなに急ぐ必要はなかったのかな」
「どうして?」
「だって、相手が誰にしろ、僕みたいな平の刑事のマンションなんて知りゃしないさ」
「そうかしら……」
「そうさ。——ま、天使か悪魔ならともかくね」
少女はムッとしたように、
「それ、いやみ?」
「いや、別に」
と、吉原は首を振った。「ほら、何でもないよ」
「もしかすると、あの二人も、いなくなってるかもしれないわね」
吉原が玄関のドアを開けて、明りを点《つ》ける。——吉原は、目を丸くして、立ち尽くしてしまった。
部屋の中は、まるでここだけ大型台風に見舞われた、という感じで、めちゃくちゃになっていた。
「——何だ、畜生!」
と、吉原は顔を真赤にして、「せっかく掃除したばっかりなのに」
「そんなことより、あの二人よ」
「そ、そんなこと、分ってる!」
吉原は、寝室を覗《のぞ》いた。「いないぞ」
「じゃ、誰かが連れて行ったのかしら?」
「さあね。——しかし、どうしてここが分ったんだろう?」
「だって、電話帳にも出てるでしょ。あなたの名前」
「そりゃまあ……」
「もっと捜すのよ! もしかしたら、またトランクに——」
「家にトランクはない!」
少女は、ベランダへ出るガラス戸が半分開いたままになっているのを見て、
「そこから逃げられる?」
「隣とはつながっていないんだ。無理だよ」
「そう。——でも……」
少女はベランダへ出てみた。「じゃ、どうして開いてるのかしら?」
「ここだよ……」
声が聞こえた。
「——ねえ! 来て!」
下の方からだ。手すりから覗《のぞ》くと、少女は目を丸くした。
ベランダの下に、あの女の子が、しっかりとくくられて、ぶら下げられているのだ。
「今、引き上げるからね!」
吉原が駆けつけて来る。少女が黒い犬に、
「あんたも口でくわえて引張んなさい!」
と、怒鳴《どな》った。
「ワン」
「天使はね、力仕事に向いてないの」
——ともかく、何とか無事に引張り上げると、吉原は、女の子を居間へ運び入れた。
「君は、三宅照子の子供だね」
「良子っていうの」
「そうか。君のママは?」
「連れてかれた」
「誰に?」
「知らない」
と、良子が首を振る。「男の人が何人も来たよ」
「そうか……。じゃ、君のママは、君をあそこへ隠して……」
「ドアの外で声がしたから。ママ、急いで、ああやったの。何も言っちゃいけないよ、って言って」
「男たちは何か言ったのかい?」
「分んない。聞こえなかったけど——ママのこと、いじめてたみたい」
「そうか……」
吉原は、胸が痛んだ。
「——可哀《かわい》そうだわ」
と、少女が涙ぐんでいる。
どうやら天使は涙もろくできているらしい。
「しかし——一体誰なんだ?」
吉原は、首を振って、「まだそう時間はたってない。すぐに手配しよう」
良子は、じっと唇をかみしめて、気丈に、泣こうともしない。
「ママがね」
「うん? 何か言ったかい?」
「警察に行っちゃいけないわよ、って」
「何だって?」
「きっと帰って来るから、待ってなさい、って」
「そうかい。しかしね、悪い奴《やつ》を捕まえるには、やっぱり警察の力を借りないとね」
と、吉原は言った。
「あら……」
と、少女が言った。「パトカーじゃないの?」
サイレンが近付いて来た。
「そうだ。しかし……」
パトカーは、近付いて来て、このマンションの下で停《とま》った。
「——どうしてここへ来たんだろう?」
と、吉原は言った。