吉原が廊下へ出てみると、階段を駆け上って来る足音がして、刑事や警官たちが、急ぎ足で姿を見せた。
「やあ、ご苦労さん」
と、吉原は言った。「ここに用かい?」
「君は?」
と、見たことのない刑事が、証明書を示して、訊《き》いた。
「僕は——僕はこの部屋の——」
「吉原丈助だな?」
呼び捨てにされて、ムッと来た。
「そうだよ。何だ、一体?」
「通報があったんだ。調べさせてもらう」
その刑事が促すと、他の何人かがワッと部屋の中へ入って行く。
「おい、一緒に来い」
と、その刑事が吉原の腕をつかんで、部屋の中へ引張り込んだ。
「おい、離せ!」
吉原が、頭に来て、手を振《ふ》り切ると、「僕は警視庁捜査一課の刑事だぞ!」
「それがどうした?」
吉原は、怒《いか》りの余り、口がきけなくなってしまった。——畜生! 憶《おぼ》えてろ! 貴様のことを、課長へ報告してやる!
「ひどくやり合ったもんだな」
と、その刑事は、荒らされた室内を見て、言った。
「やった奴《やつ》を言えよ」
と、吉原は、腕組みをして、「僕は被害者だぞ! そんな態度ってのがあるか」
すると、刑事は不思議そうに吉原を、頭の天辺からつま先まで眺めて、
「被害者だって?」
と、言った。
「そうだとも」
「足があるようだがね」
「何だって?」
そこへ、他の刑事が戻《もど》って来た。
「どうだ?」
「寝室です」
と、肯《うなず》いて、「ひどいもんだ」
「そうか」
「何がひどいんだ?」
と、吉原は言った。
「検死官を呼べ」
「はい」
警官が廊下へ飛び出して行く。
「おい……。待てよ」
吉原は、まさか、というように、「検死官だって?」
「お前さんも刑事なら、やり方は知ってるだろ?」
「待ってくれ。——寝室で、殺されてるのか?」
「何をとぼけてるんだ? 自分でやっといて!」
では、三宅照子は、やっぱりやられていたのか!
「誤解だよ」
と、吉原は言った。「捜査一課長の村田警視に訊《き》いてくれれば分る」
「いいだろう。後でな」
「——見せてもらうぜ」
「ああ」
吉原は、寝室へと入って行った。あの良子という娘に、どう話してやったものか……。
そういえば、あの変な少女や犬たちはどこに隠れてるんだろう?
そこまで考えて——吉原の思考能力はストップした。
思いもかけない光景だった。——ベッドの上に、大の字になって、血に染って死んでいるのは、三宅照子ではなかったのだ。
それは、三宅照子のアパートで会った女……。小川育江と名乗った女だったのである。
吉原が呆然《ぼうぜん》としていると、
「何も殺すことはないだろ」
さっきの刑事が、いつの間にか、後ろに立っていた。「どんなひどい喧嘩《けんか》をしたか知らないけどよ」
「おい、勘違《かんちが》いするなよ」
と、吉原は言った。「僕は、この女を殺したりしない」
「ほう。そうかい」
「本当だ。この女は事件の参考人なんだ」
「事件の参考人といい仲になったのか。それでも刑事か?」
「ふざけるな!」
カッとなって、我を忘れていた。
吉原は、決して動作の早い方ではないのだが、この時ばかりは、考える前に手が出ていたのだ。
カッ、と鈍い音がして、吉原の拳《こぶし》が、その刑事の顎《あご》にきれいに命中していた。
刑事は、床に大の字になって、のびてしまった。
しまった、と思った。
しかし、もう今さら、拳を引っこめても間に合わない。
「何だってんだ、一体?」
わけが分らない。吉原が頭をかきむしっていると、
「こちらですか」
と、警官が一人、入って来た。
吉原と、そして、床にのびている刑事を見ると、一瞬ポカンとしていたが、
「おい! 手向うのか!」
と、叫んで、拳銃《けんじゆう》を抜こうとした。
「やめろ!」
吉原は怒鳴《どな》った。「そうじゃないんだ! よせ!」
警官も怖《こわ》いのだろう。何しろ吉原を殺人犯と思い込んでいるのだから。
拳銃を抜こうとしているのだが、焦《あせ》って、なかなか抜けないのだ。
「僕は殺人犯じゃない!」
吉原は、その警官をドンと突き飛ばした。
「待て!——逃げるぞ!」
警官が、やっと拳銃を抜いた。「止れ! 撃つぞ!」
バン、と銃声が耳を打つ。蛍光灯のランプが粉々に砕けた。
吉原は、首をすぼめて、玄関へと飛び出した。銃声でびっくりして入ろうとした警官と鉢合せして、二人とも仰向《あおむ》けに引っくり返った。
「気を付けろ! 一人やられた!」
と、叫びながら、追って来る。
吉原は、もう夢中だった。立ち上ると、目の前の警官を殴《なぐ》って、廊下へ出る。
階段の方へ駆け出す。と、そこへ、
「撃つぞ!」
と、鋭い声。
夢中で走っているのだ。突然止れるものではない。
撃つなら撃て! 当るもんか!
バン、と銃声が、廊下に響いた——はずだった。しかし、吉原にはその音を聞いている余裕はなかった。
左の腕に、焼けるような痛みが走って、よろけた。足がもつれ、そのまま、コンクリートの床にぶっ倒れる。
顔をしたたか打ちつけた痛さ、コンクリートの冷たさが、一瞬感じられたが——それきり、吉原は意識を失ってしまったのだ……。
「——生きてる?」
「ワン」
「だめよ、死なせちゃ」
「ウー、ワン」
「たとえ死んだって、あんたには渡さないわよ」
「——死んでないぞ!」
と、吉原は言った。
「あ、目を開けたわ」
——吉原は、ぼんやりとした視界の中に、何だかフワフワとした、雲みたいなものを見ていた。
俺《おれ》も天国へ来たのかな? いや、死んでもいないのに、何で天国なんだ!
やがてピントが合うと、それは女の子の顔——あの、「自称、天使」の顔になった。
「君か……」
「良かった。このまま、ずっと目を覚まさなかったら、どうしようかと思っていたのよ」
「ちっとも良かない……」
少し動いて、吉原は左腕の痛みに、「ウッ!」
と、声を上げた。
「動かないで! ひどいけがしているのよ」
「ああ……」
思い出した! 俺は撃たれたんだ。
しかも、警官に。——何とも情ない。
吉原は、ゆっくりと、頭だけをめぐらせた。
「ここは……どこだい?」
と、呟《つぶ》くように言う。
大きな声を出すと、傷にひびくのだ。
いやに寒々とした場所だ。
「あなたのマンションよ」
と、少女が言った。
「ここが?」
吉原はびっくりした。いつの間に、俺の部屋はこんなに空っぽになったんだ?
「あ、もちろん、あなたの部屋じゃないわ。地下の倉庫」
吉原はホッとした。——いくら何でも、ここが我が家じゃ、ひどすぎる。
「僕は……どうしてここにいるんだ?」
「運んだのよ。私とこれで[#「これで」に傍点]」
ワン、と黒い犬がないた。
「そうか……。撃たれたんだな」
「びっくりしたわ。私たち、ベランダの隅に小さくなってたんだけど、銃声がしたから、飛び出してみたの」
「警官は?」
「あなたを捜してるわ。この犬が警官の注意をそらしてくれたの。で、私があなたをおぶって——」
「君が?」
「こう見えても、結構力があるのよ」
と、少女はぐいっ、と腕を曲げて、力こぶを作って見せた。「天使って、力仕事なんだから。重いもの運ばされたりして」
吉原は、こんな時なのに——いや、こんな時だから、だろうか——おかしくなって、笑ってしまった。その拍子に傷が痛んで、
「いてて……」
と、顔をしかめる。
「大丈夫?」
吉原は、倉庫の中の、古ぼけたテーブルらしきものに寝かされていた。あまり快適な環境とは言いかねる。
しかし、吉原は、生来、楽天的な性格の人間である。仕事で失敗しても、あまり落ち込むことはない。
何とかなるさ。——これで、いつも立ち直ることができた。
それにこの少女も、頭の方は少々おかしいのかもしれないが、どこか憎めないものを持っている。——天使か? そう言われてみると、そんな風にも思えるよ、と吉原は思ったのだった……。
「どうかしたの?」
と、少女は、吉原が何も言わずに、じっと見つめているので、不安になったようで、「何か言い遺すこと、ある?」
「殺すなよ、人のこと」
「ごめんなさい」
「いや——迷惑《めいわく》をかけたね。世話になった。しかし、もうこれ以上、巻き込まれない方がいい」
「私のことより、自分のことを心配しなくちゃ」
「僕は大丈夫さ。課長は事情を分ってくれるよ。あの女を殺したのが僕でないってことははっきりしてる」
「あの女って?」
「うん……。小川育江と名乗ってた女だ。あの殺人現場にやって来た女だよ」
「その人が、あなたのマンションで?」
「誰がやったのか、ひどいことをする奴《やつ》がいるもんだ」
吉原は、ふと気が付いて、「あの子はどうした? 三宅照子の娘」
「良子ちゃん? しっかりした子ね、本当に。お母さんがさらわれたっていうのに」
「どこへ行ったんだ?」
「ちょっと買物を頼んだの。一人で行けるって言うから……。あ、戻《もど》って来たかな」
小刻みな足音がして、倉庫のドアをトントンと叩《たた》く音。
「私よ」
「はい。待って。——ご苦労さま」
良子が、何やら大きな包みと、新聞をかかえて入って来る。
「新聞……。今、何時なんだい?」
「朝の十時ぐらいかしら。——どう? 近くのお弁当屋さんで買って来てくれたのよ」
「朝の十時!——そんなに長く意識がなかったのか!」
「鈍くて、眠ってただけじゃないの?」
と、良子が言った。
「だめよ、そんなことはっきり言っちゃ」
と、少女がたしなめた(?)。
「新聞を見せてくれ」
と、吉原が頼むと、良子は、
「途中で見て来ちゃった。結構よくとれてる」
と、新聞を差し出す。
「とれてるって、誰が?」
「あなたよ」
と、良子は、ませた口調で、「でも、若いころの写真ね、きっと」
新聞に写真が?——吉原は、急いで新聞をめくろうとしたが、何しろ左手がきかないので、思うようにならない。
「見せてあげるわ」
少女が、社会面をめくって、「——本当だわ。ほら」
と、吉原の目の前にかざして見せた。
〈現職刑事、愛人を殺して逃亡〉
その見出しが、目に飛び込んで来た。そして、間違いなく、自分の写真……。
吉原は、これは夢だ、と思った。
「おい」
「何?」
「僕を殴ってくれ」
「ええ? いやよ。天使は暴力なんてふるわないんだから」
「いいから、やってくれ!」
「私、やったげる」
良子が、いとも楽しげに、拳《こぶし》を固めて、ポカッと吉原の頭を殴った。——七歳の子にしては、よくきいた[#「きいた」に傍点]。
「——夢じゃないんだ」
吉原は記事を読んだ。
小川育江という名前はなかった。女の身許《みもと》は今のところ不明、となっている。
しかし、吉原のマンションの寝室で殺されていたのだから、何も知らない人間が、吉原の恋人と考えても不思議ではない。
捜査一課所属の刑事というので、よけいに扱いは大きかった。村田課長の談話も出ている。
「真面目《まじめ》な性格で、とても信じられない。一日も早く自首してほしい」
——これしか言うことはないのか!
吉原は愕然《がくぜん》としてしまった。もちろん、これが村田の本心かどうかは分らないとしても……。
「——参った!」
と、吉原は、新聞を投げ出した。
「せっかく買って来たのに」
と、良子が怒って、「TV欄が汚《よご》れちゃうじゃないの」
「畜生! 放っといてくれ!」
吉原は、痛みも忘れて、大声で言った。
「大声出すと、見付かるわ」
と、少女が言った。
「そうよ」
良子が、吉原をにらんで、「いいじゃないの、ママよりも」
吉原は、ハッとした。
そうだった。——三宅照子は、誰かに連れ去られている。小川育江を殺したのも、その連中だろう。
この良子という子は、母親が生きているのかどうかさえ、分らないのだ。それに比べれば、俺《おれ》は……。
けがはしているが、ちゃんとこうして自由の身でいる。
良子が、
「——お腹空《なかす》くと、機嫌《きげん》悪くなるのよね」
と、包みを開けて、「はい、食べやすいように、おにぎりにしたわ」
と、吉原の方へ差《さ》し出す。
「ありがとう……」
少し、照れながら、吉原は、起き上って、おにぎりを食べた。熱いみそ汁もついている。
もちろん、この代金は、吉原の財布《さいふ》から出ているのだろうが。
地下倉庫での、ちょっと変った食事会が終ると、吉原は、息をついて、
「——旨《うま》かった」
と言った。
「おいしいわね、結構」
「天使も、ご飯は食べるのかい」
「人間の格好して来たからにはね。こいつもね」
黒い犬は、少々食べものに不満げだったが、少女は気にとめていないようだった。
「これからどうするの」
と、少女が訊《き》く。「警察へ行って、事情を話す? 送って行くわよ」
「いや」
吉原は首を振った。「まず、この子の母親を助け出さないとね」
「でも——」
「もし僕が出頭して、事実を話しても、そう簡単には信じてもらえないさ。警察は、一旦《いつたん》これが犯人、と見たら、なかなか考えを変えちゃくれないんだよ。僕にはよく分ってる」
「でも……。じゃ、いつまでも殺人犯ってことにされちゃうよ」
「この子の母親を見付ければ、自然に真犯人も分る。ここまで来たら、本当の犯人を見付けて連れて行かない限り、疑いは晴らせないだろう」
「賛成」
と、良子が手を叩《たた》いた。
「でも、その格好じゃ……。上衣もシャツも血がついてるわ」
「うん。——何とかしなきゃな」
吉原は、少し考えてから、「そうだ! 君、電話をかけてくれないか」
「いいわよ。電話のかけ方も、ちゃんと勉強して来たの」
「そうか」
吉原は微笑《ほほえ》んだ。「君、って呼ぶのも何だか変だな。いい名前、ないのかい?」
「名前ねえ……。私も、ほしいの。だって、人間なのに名前がないなんて、不便だものね」
「いいのをつけよう。——何かないかな」
「うーん」
と、良子が考え込んで、「マーガレット」
「少女マンガじゃあるまいし」
と、少女は顔をしかめた。
「じゃ、ポチ」
「この犬ならね」
「ワン」
黒い犬の方も不服そうだ。
「じゃ、これがいい!」
と、良子が声を上げた。