「だから、女なんて信じちゃいけないのさ」
と、ポチが言った。
「でも……」
マリは、考え込んでいる。
「その女が密告したに決っているよ。でなきゃそんなにすぐ来るわけがないじゃないか、警察が」
「うん……。でも、あの女《ひと》の表情、本当にびっくりしていたわ」
「芝居《しばい》さ、芝居」
と、ポチは体を長くのばして、「女は芝居がうまいからね」
「でも、その後で、泣きながら帰って行ったのよ」
「女の涙は、適当に出したり止めたりできるんだぜ」
「水道じゃあるまいし」
「そういうことなら、俺《おれ》の方が詳しい。裏切りは悪魔の専売特許だからな」
マリは、ため息をついた。
「いい人だと思ったのになあ……」
ポチの目が、キラッと輝いた。——何かを期待している、という目である。
しかし、マリは、ウーンと伸びをすると、
「ま、いいや! くよくよしてたって始まらない! これからどうするか、考えましょ」
と、明るい声で言った。
ポチが、がっかりしたように鼻を鳴らした。
——二人は、いや、三宅良子を加えて三人[#「三人」に傍点]は、また吉原のマンションの地下室に戻《もど》っていた。
もう夕方で、冷えて来るかと思ったのだが、実際には暖房のパイプが天井を這《は》っていて、そこから出る熱で、結構、あったかいのだった。
良子は、段ボールの箱にもたれて、スヤスヤと眠っていた。
「——どうするったって」
と、ポチが欠伸《あくび》をして、「どうにもなんないだろ、もう捕まっちまったんだぜ」
「分ってるわ。でも、何も解決していないのよ、この子の母親のことだって」
「どうしようってんだい? まさかあの刑事を脱獄させるわけにもいかないし」
「暴力はいけないわ。——私たち、頭と心で事件を解決すればいいのよ」
「甘いこと言ってら」
マリはムッとして、
「あんたに手伝ってくれなんて言わないでしょ」
と、言い返した。「大体、何でいつまでも私にくっついてるの? どこかに行けば?」
「俺《おれ》の勝手だろ。ここは天国じゃないんだからな」
「だったら、おとなしく言うことをききなさいよ。この世界じゃ、犬は人間の言うことをきくものなんだからね」
フン、とポチは不服そうに鼻を鳴らした。
「どうしようってんだよ」
「ともかく、事件について、整理してみるのよ」
「勝手にやってくれ。俺は寝てるよ」
と、ポチが目をつぶる。
「ちょっと、あんた」
「何だよ、腹をけとばすなよ」
「殴っただけよ」
「悪魔を虐待《ぎやくたい》したって、訴えてやるぞ」
「あのね、小説読んだって、名探偵にはいつもくっついて話を聞く馬鹿がいるのよ」
「知るか」
「どうせあんたはマンガしか読んでないんでしょ」
「お前だって少女漫画ばっかり立ち読みしてるくせに」
呑気《のんき》にやり合っていると、良子が、
「うるさいなあ」
と、呟《つぶや》いて、寝返りを打った。
「——そうよ。静かにしましょ。あんたの声は犬が吠《ほ》えているとしか聞こえないんだから」
「そっちだろ、うるさいのは」
「何よ!」
と、言いかけて、マリは、エヘンと咳払《せきばら》いした。「低い声で。——私、あの吉原さんから、詳しい話を聞いたのよ。だから、推理の材料はあるわけだわ」
「何も分るもんか」
「あら。自分の部屋から一歩も出ないで、推理だけで事件を解決する人を、『安楽椅子探偵《あんらくいすたんてい》』っていうのよ」
「そんなもん、どこにあるんだよ」
「——そうね」
と、マリも見回して、安楽椅子がここに見当らないことには同意せざるを得なかった。
「じゃ、いいわ。段ボール探偵」
「パッとしねえな」
「いいのよ!」
マリも、文字通り、段ボールの上に寝転がった。「二人の人が殺されたわ。男と女。まず、その二つの事件が、どんな風に係り合っているのか。共通点は?」
「人口が二人減ったよ」
「まぜっ返さないで。——三宅吉司は、奥さんに殺されたと思われてる」
「本当にやったのかもしれないぜ」
「まさか。だったらどうして彼女が何者かにさらわれたりするの?」
「そりゃそうだけどな」
と、ポチは渋々認めた。
「その現場へ吉原さんは出向いた。刑事としてね。三宅のことは全く知らなかったわけだから」
「嘘《うそ》をついてるのかも」
「人を信じないのね。——いいわ、私、信じてる。目がきれいだわ、あの人」
「甘い甘い」
「何とでも言いなさいよ。その現場を最初に見付けたのが、小川育江という女。本当の名前かどうか分らないけど」
「その女が——」
「待って。その女を、得体《えたい》の知れない男が、父親だと言って連れ去った」
「そしてその女の死体が、刑事の部屋で見付かった」
「そう。——でも、なぜ吉原さんの寝室で? 分らないわ」
「要するに分らないんじゃないか」
「だけど、何が分らないかを考えるのが、第一でしょ」
と、マリは強引な言い方で、「それに、おかしな点は他にもあるわ。三宅の部屋の電話に盗聴装置《とうちようそうち》が仕掛けてあったこと。あんな貧しい家に、盗聴装置なんて、どう考えてもおかしいわ」
「三宅ってのが、意外に大物なのかもしれないぜ」
「そうは見えなかったけどね。あの部屋を見る限り」
「見かけだけで判断しちゃいけないよ」
マリは、ふっと笑って、
「あんたもたまにはいいこと言うじゃない」
と、言ってやった。「——待ってよ」
「何だよ」
「隣の[#「隣の」に傍点]部屋よ!」
「隣がどうした?」
「吉原さんが言ってたわ。小川育江って名乗った女は、警官が行くまで、隣の部屋にいたのよ」
「だから?」
「隣の人は、彼女が小川育江と名乗るのを聞いてるはずだわ。つまり、彼女が吉原さんの恋人なんかじゃないことも分るんだわ」
「何だ。それなら早いとこそう言やいいのに」
「吉原さんも、警官を殴ったり、撃たれたりして、そこまで頭が回らなかったのよ」
「人間ってのも、抜けてるもんだ」
「そうよ。抜けてるから人間よ。だから、人間ってのはあったかいんだからね」
「へえ」
ポチは顔を上げた。「お前、あの刑事が好きなのか」
「馬鹿言わないでよ!」
マリは真赤になった。
「天使は嘘《うそ》つくのが下手《へた》だな」
と、ポチは笑った。
犬が笑うというのも、何となく無気味である。
「でも、警察で事情を話せば、必ず思い出すわ! 行って来る」
「警察へ?」
「違うわよ。あのアパート。隣の家に、必ず刑事が話を聞きに来るわ」
「ふーん。この娘《こ》はどうするんだ?」
「あんたが見てれば?」
「いやだよ。そんな退屈な仕事。——俺《おれ》も行くよ」
と、ポチはウーンと伸びをした。
もちろん、前肢《まえあし》を上げて伸びをしたわけではなく、至って、「犬らしい」伸びの仕方だったのである。
「どうして私について歩くの?」
「悪いか?」
「そういうわけじゃないけど……。ま、いいわ。この子もここで寝てれば大丈夫だろうしね」
「よし。じゃ出かけよう」
と、ポチが言った。
——正直なところ(というのも、悪魔としてはおかしいかもしれないが)、ポチはヒヤリとしたのである。
どうしてついて歩くのか、って? ま、深く考えるなよ、可愛《かわい》い天使さん。
天使ってのは大体がお人好で、すぐ他人を信用する。そうでなきゃ、イメージ上も困るわけだが。
しかしな、人間って奴《やつ》は、そう単純じゃないぜ。尽くしてやっても裏切られる。愛しても苦しめられる。俺にゃ、ちゃんと分ってるんだ。
地獄で、あんまり怠けていたので、こうして追ん出されて来てしまったが、俺が地獄へ戻《もど》るには、天使を一人、地獄へ道連れにして帰らなきゃならないんだ。
ちょうどうまい具合に「地上研修」に来る、この天使と一緒になって、しめた、と思ったのだ。
こいつがもし、人間に失望して、
「人間なんて、信じられない!」
と、叫んだら、それは天使の役目を放棄したことになって、俺はこいつを地獄へ連れて行ける。
そのためにゃ、ピッタリはりついてるしかない。
こうして、殺人事件なんてのに出くわしたのはラッキーだった。一番、人間の醜《みにく》い面を覗《のぞ》けるに違いないからだ。
箱入り娘(?)の天使にとっちゃ、ショックだろう。つい、人間が信じられなくなる可能性だって、高いってもんさ。
——いいとも。名探偵のお供だ。どこまでだって、ついて行ってやる。
その代り……一旦《いつたん》地獄へ落ちたら、永久に、俺《おれ》がお前の主人だぞ。
「何してんの。行くわよ」
「待ってくれ。今、行くよ」
と、ポチはマリの後からついて、トコトコと歩き出した……。
「——失礼」
と、村田が声をかける。「警察の者ですがね。ちょっとお話を」
ドアチェーンをかけたまま、細く開けて覗いていた宮田|昭次《あきつぐ》は、村田の後ろに立っている制服の警官と、吉原の顔を見て、
「ちょっと待って下さい」
と、肯《うなず》いた。
ドアが開くと、村田は、吉原を促して、宮田の部屋へ入った。
「どうも……」
と、吉原は言った。「僕のこと、憶《おぼ》えてますか」
「ええ! もちろん」
と、塾の教師、宮田は即座に答えた。「三宅さんが殺された事件でここへ来た刑事さんでしょ」
「そうです」
吉原はホッとした。「あなたの証言がぜひいただきたくてね」
「知ってることは、あの時、全部、しゃべりましたがね」
「いや——」
「ちょっと待て」
と、村田が吉原を制して、「俺《おれ》が訊《き》く。お前は黙ってろ」
「はあ……」
吉原は、不服そうだったが、おとなしく引っ込んだ。いくら不服でも、手錠こそかけられていないが、警官に両脇《りようわき》をがっちり固められているのだ。
これじゃ、逆らうわけにもいかない。
「三宅さんの奥さんは見付かったんですか?」
と、宮田は訊いた。
「いや。まだです」
と、村田が答える。
「そうですか。しかし、あの奥さんはいい人でしたからね。大した罪にならないといいけどな」
「実は、今夜うかがったのは——」
と、村田が言った。「三宅さんが殺されたのを発見した女性がいましたね」
「ええ。私がここに置いていた人ですね」
「そうです。小川育江と名乗っていたわけですが……。どうもそれは怪しいらしい、ということになったのです」
「怪しい?」
「その女性を、よく憶《おぼ》えていますか?」
「よく、と言われてもねえ」
と、宮田は、眉を寄せた。「そりゃ、写真でも見りゃ思い出せますよ、きっと。しかし、どんな顔か説明してみろ、と言われたら、きっと——」
「いや、そんなことは言いませんよ」
村田は、写真を一枚取り出して、宮田の前に置いた。「これを見て、その女性だと分りますか」
その写真を手に取った宮田は、まじまじと眺めていたが、
「さて……。もう少し若かったんじゃないかな。こんな不細工なおばさんじゃなかったようですがね」
「あ、失礼」
と、村田はその写真を取り戻《もど》して、「これは私の家内の写真でした」
宮田は、さすがに、少し焦《あせ》ったのか、
「いや——しかし、よく見ると、なかなか愛嬌《あいきよう》のある顔ですよ。それに面白くて、見飽きないし」
これじゃ、ますます悪い。
「見ていただきたいのは、こっちの写真でした」
と、村田が差し出した写真を見て、宮田は目を丸くした。
「この女性——死んでるんですか?」
「そうなんです。で、この死体が間違いなくあなたの見た女性だったかどうか、確認していただこうと思いましてね」
「そうですか」
宮田は、まじまじとその写真を見ていた。吉原は、村田の方を、どうです、というように見ていた。——村田はポーカーフェイスのままだ。
宮田は、写真を村田の方へ差し出しながら、
「違いますよ、この女性は」
と、言った。
吉原が、愕然《がくぜん》とした。
「そんな——そんなことはない! よく見て下さいよ」
「確かですか」
と、村田が言った。
「ええ。顔の輪郭《りんかく》、それに眉《まゆ》の形も全然違いますね。そう、髪もこんな風にはしていなかったと思うな。はっきりは憶《おぼ》えていませんが」
「そんな馬鹿な!」
「おい吉原、諦《あきら》めろ。お前の話とは大分違うじゃないか」
「どうかしたんですか?」
と、宮田が不思議そうに言った。
「いや、何でもありません」
と、村田は首を振って、「こちらで、ちょっとした意見の食い違いがあっただけなんです。——失礼しました」
「いやいや」
と、宮田は至って愛想良く、「こんなことぐらい、当然の市民の義務ですからね」
「もう一度、よく考えてみて下さい!」
と、吉原が食い下る。「父親だと名乗った男が迎えに来て、連れて行った、あの女ですよ!」
「ええ、そのことは憶えてますよ。でも、この女《ひと》じゃなかった」
吉原はがっくり来た様子で、ふらっとよろけた。
「おい! しっかりしろ」
と、村田が叱《しか》りつけた。「それでも捜査一課の刑事か」
村田は、もう一度、宮田に、
「どうもお騒がせしましたな」
と言った。
「いや。——しかし、お隣の荷物は、どなたか引き取って行かれたんですか? ずいぶん手早い仕事でしたよ」
宮田の言葉に、村田は眉《まゆ》を寄せて、
「引き取った、ですって?」
「ええ。今日の昼間、ドタバタしてましたからね。男が四、五人来て」
村田は、警官の一人に、
「おい、中を覗《のぞ》いてみろ!」
と、命じた。
「はっ!」
警官は、三宅の部屋へと急いで入って行った。
そして、すぐに出て来ると、
「何もありません」
と、言った。
「何も?」
村田が飛び込んで行く。吉原も、警官に腕を取られながらだが、ついて行った。
「——何だ、こりゃ?」
村田が呆《あき》れたような声を出した。
部屋の中には、何も[#「何も」に傍点]なかった。家具やガスコンロなどはもちろん、押入れも、扉がなくなっている。そして何より——畳がなくなってしまったのだ!
床板がもろにむき出しになってしまっている。
「こりゃ凄《すご》いや」
と、吉原も、一瞬|呆然《ぼうぜん》としていた。
「いくら引越しでも、ここまではやらんぞ。どうなってるんだ?」
「だから言ったじゃないですか」
と、吉原がかみつく。「三宅殺しには裏があるんです。女房のやったことじゃありませんよ」
「それはこっちで調べる」
と、村田は素気なく言った。「お前は、ともかく自分の部屋で死んだ女のことを説明するんだな」
「二つの事件は関係があるんです。分らないんですか」
「俺《おれ》に分ってるのはな、死体が二つあって、犯人を挙げなきゃならんってことだけだ。——行くぞ」
「この部屋は?」
「誰が一切|合財《がつさい》、持って行ったのか、当らせる。ともかくお前には関係ないことだ。パトカーへ戻《もど》るぞ」
吉原は、諦《あきら》めたように肩をすくめた。
警官に腕を取られて、
「痛い! 気を付けろよ。そっちはけがしてる方だ」
と、文句をつける。
「あ、失礼」
と、警官があわてて、吉原の腕を持ちかえる。
その瞬間、吉原はドン、と警官に体当りを食らわした。
「ワッ!」
警官が弾みで引っくり返る。吉原は一気に駆け出した。
「待て!」
と、村田が怒鳴《どな》る。「追いかけろ!」
パトカーのそばに待っていた警官が、吉原の行く手を遮《さえぎ》るように立って、拳銃《けんじゆう》を抜いた。
「止れ!」
その時、黒い塊がパッと宙へ飛んで、警官の頬《ほお》に飛びかかった。
「いてっ!」
警官が泡食って、よろける。同時に銃が火を吹いていた。
「こっちよ!」
マリの声がした。吉原はその暗がりの方へと駆けた。
「これ、乗れる?」
マリが、オートバイを指さした。
「乗れるとも。キーが差してあるな」
「この近くで拝借したの。急いで!」
「後ろに乗れ!」
吉原がまたがってエンジンをかけると、マリはあわてて、後ろに飛び乗った。
「ポチ! 行くわよ!」
タタッと足音がして、黒い犬が、マリの背中に取りつく。
「重いわねえ!」
「我慢《がまん》しろい」
と、ポチは吠《ほ》えた。
オートバイが走り出した。
「待て! 吉原!」
村田の声が、たちまち遠去かる。
「——よし! この分なら大丈夫だ」
吉原は、細い道を選んで、オートバイを走らせた。
「けがの方は?」
「ああ、大丈夫だ」
と、吉原は肯《うなず》いて見せた。
「——どこへ行く?」
「そうだな……。ともかく、人のいない所でないと」
吉原は首を振って、「ぜいたくは言ってられない。——よし、あそこにしよう」
「どこ?」
「高級ホテル、とはいかないがね」
と、吉原は言った。「何だか少し軽くなったみたいだ」
「ええ」
と、マリが言った。「ポチが落っこちたわ」