「——一恵」
そっとドアが開いて、父親の声がした。
返事がないので、林は心配そうに、中へ入って来た。
一恵の部屋は、明りを消したままだった。
「——一恵。大丈夫か?」
少し間があってから、
「何の用?」
と、ベッドから声がした。
「起きてたのか」
林は、ホッとした様子で、「またどこかへ行っちまったのかと思ってな」
「行けっこないわ。私は監獄に閉じこめられてるんだもの」
「そんなことはないよ。ただ、母さんだってお前のことを心配して——」
「放っといて! 出てってよ!」
一恵が、ヒステリックな声を上げた。「お父さんもお母さんも、私、顔なんか見たくないわ!」
林は、後ずさりして、
「分ったよ。いや——お前がどうしてるかと思って、心配だったから、見に来ただけなんだ。出て行くよ。——じゃ、おやすみ」
と、ドアに手をかけた。
「待って」
と、一恵が言った。
パチッと音がして、ベッドサイドの明りが点《つ》く。
ほの暗い中に、一恵が、ベッドに起き上っているのが見えた。
「ごめんなさいね」
と、一恵が、穏《おだ》やかな口調で言った。
「いや……」
林は、ベッドの方へ戻《もど》って来ると、「お前の気持はよく分るよ」
と、言った。
「私のこと、心配してくれてるのね、お父さんは」
「母さんだって、そうさ」
「いいえ!」
と、一恵は強く首を振った。「お母さんはただ世間体を気にしてるのよ。それだけだわ」
「しかし、自分の娘の幸せを——」
「私はもう大人よ。自分のすることは分ってるわ」
「うん。それはお父さんもよく分ってる」
「だったら、私に任せてほしいの。その結果がどうなろうと、責任は自分で取るわ」
「うん……。しかしなあ、今度ばかりは、事情が事情だよ」
「あの人じゃないわ」
と、一恵は言った。「あの人が殺したんじゃない。私には分るの」
「一恵——」
「お父さん、私が人殺しすると思う?」
「まさか」
「そうでしょ? 私だって、お父さんが人を殺すなんて、たとえ誰に言われたって、信じない。だって、お父さんのこと、そんな人じゃないって知ってるから。——吉原さんもそうよ。私、あの人が、女の人を殺すような人じゃないってこと、分ってるの」
「そうか」
林は肯《うなず》いた。「そうかもしれないな。しかし、それならそれで、きっと警察が本当の犯人を見付けてくれるさ。そうしたら、お前は、私や母さんに、ほら見ろ、と言えばいい」
「お父さん……」
一恵は、父の手を軽く握った。
「今、もう彼は警察の手の中だ。——お前にはどうすることもできない」
「分ってるわ」
と、一恵は肯いた。「待ってるつもりよ。必ず、疑いが晴れて、自由の身になるわ」
「そうなるといいな」
林は、娘の肩を軽く叩《たた》いて、「寝なさい。——じゃ、行くよ」
と、立ち上った。
「お父さん」
「うん?」
「一一〇番したのは、お母さん?」
「一恵——」
「電話を聞いてたのね。私の後を尾《つ》けさせるなんて」
「一恵。もう済んだことだ」
と、林は、言い聞かせるように、「済んだことだ。そうだろう?」
「ええ」
一恵は、息をついて、「お父さん、どうしてお母さんと結婚したの?」
と、訊《き》いた。
「さあ、どうしてかな」
林は、苦笑した。「出世の見込みに目がくらんだか」
「お父さんが?」
「みんなはそう思っているさ。少なくとも会社では」
「——辛《つら》いね、お父さん」
「その分、給料をもらってる」
と、林は言って、「さあ、もう眠るんだ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
父がドアを閉めた。——一恵は、ベッドに横になって、しかししっかりと目を見開いたまま、暗い天井を見上げていた。
もう涙は出尽くしたのかしら?
一恵は、そう長く泣いたわけじゃなかった。
父や母を恨んで泣いたのではなかったのだから。
それはむしろ、尾行されたことに気付かなかった自分への腹立たしさと、吉原に、裏切ったと思われたことへの悔しさだった。
何とかして、吉原に会いたいと思った。そして、自分が裏切ったんじゃないことを、知ってほしい!
しかし、面会に行ったとしても、果して、会わせてもらえるだろうか? 手紙を出せば届くかもしれない。
でも、だめだ! 手紙じゃ、とてもこの気持は言い表せない。
何とかして、会って直接、言いたい……。
——コツン、と何か窓の方で音がした。
何かしら?
また、コツン、とはっきりした音だ。
一恵は起き上った。明りを点《つ》けて、窓の方へ歩いて行く。カーテンを細く開けると、一恵は目を疑った。
塀の向う、道に立って、手を振っているのは、あの女の子だった!
一恵は、カーテンを大きく開けると、窓を開けた。
「——しっ!」
と、一恵は、身ぶりで言って、それから、マリが大きく口だけを開けて、声を出さずに言う言葉を、読み取ろうとした。
よしはら……吉原さん?——逃げたんだって?
一恵は、飛び上らんばかりにして、手を振って見せた。
すぐ行くわ!
無言の対話は、すぐに通じたのである。
吉原は、体を縮めるようにして、古ぼけたマットレスの上に、小さくなって座っていた。
やはり、ここじゃ寒すぎるかな。
といって、ホテルに泊るわけにもいかないだろう。大体、金がない。
財布《さいふ》も何も、全部警察である。——全く、皮肉なもんだ。
吉原は、身に覚えのない罪で逮捕されるということの悔しさを、初めて味わった。
現実にも、そんな事件はいくらもあった。もちろん、とんでもないことには違いないが、それは、一種の「必要悪」だ、と思っていた。
そんなことに気をつかって、却《かえ》って本当の犯人を取り逃すことの方が危険だ、ぐらいに考えていたのだ。
しかし、こうして自分が疑いをかけられてみると、息苦しいほどの圧迫感が、周囲から自分を圧し潰《つぶ》すように感じられる。
逃げたから、怪しい。身に覚えがなければ、嘘《うそ》をつくわけがない。やっていなければ自白するはずがない……。
そんな理屈が、今の吉原には、いかにも虚《むな》しいものに思えた……。
警官は、みんな、一度は逮捕されてみるべきかもしれないな、と吉原は思った。
——ここは、無人のビルである。
取り壊す寸前になって、持主が脱税などの容疑で逮捕され、結局、このビルも宙に浮いてしまっていた。
たまたま、この前を通りかかった時、一緒にいた刑事がその事件の担当で、教えてくれたのである。
ここなら何日かは安全だろう。——ま、凍え死にさえしなければ、であるが。
タッタッタ、と足音が聞こえて来た。
あの子だな。——不思議な女の子だ。
足音が、もう一つ、聞こえる。吉原は立ち上って、非常階段への出口へ、いつでも駆け出せるように身構えた。
「——吉原さん、いる?」
と、マリの声。
「ああ。誰か一緒か?」
「そうよ」
マリが、毛布やら何やらを両手にかかえて現われた。
ビルの中は、もちろん電気も通っていないが、表の通りの街灯や、ネオンの光、それに通る車のライトなどで、この五階にいても、結構明るいのである。
「ほら、これだけあれば、あったかいわ!」
と、マリがドサッと毛布を置く。「それと、食べる物もね。途中のお弁当屋さんで……」
吉原は、おずおずとこっちを覗《のぞ》いている一恵の顔を見て、唖然《あぜん》とした。
「君……」
「吉原さん……。私、あなたのこと、密告したりしないわ。本当よ。信じて!」
と、一恵は駆け寄って、吉原に抱きついた。
落っこちそうになったお弁当の包みを、マリはあわてて受け止めた。
「——分ってるよ。おい、泣くなよ」
「だって……あなたがきっと私のことを恨んでるだろうと思って——」
「僕がそんな男だと思ってるのか?」
と、吉原が笑った。
「大好き!」
一恵が吉原をギュッと抱きしめてキスした。
「痛い!——傷が——」
「ごめんなさい!」
「いや——大丈夫。捕まったおかげで、至ってていねいな治療をしてくれたからね」
「今度は絶対に尾《つ》けられてないわ。大丈夫よ!」
「しかし——大変なことになるよ、見付かったら」
「いいの。そうなったら、私も刑務所へ入ればいいんでしょ?」
「君——」
「夫婦で同居できる刑務所ってないの?」
「ないだろうな」
吉原は笑って、「嬉《うれ》しいよ、君が信じてくれて」
「ごめんなさいね。今まで、ずいぶん、あなたのこと、じらしたり、からかったりしたわね」
「それも楽しいさ」
一恵は、空っぽの部屋を見回して、
「ここ、オフィスだったの?」
「うん。何もないだろ?」
「いいわ、せいせいして」
「少しここに隠れて、犯人を見付けてやろうと思ってるんだ」
「私も手伝う。——帰れなんて、言わないでね」
吉原は、一恵の頬《ほお》に、そっと手を当てた。
エヘン、とマリが咳払《せきばら》いする。
「——あの、私、それじゃ失礼します」
「君、どこに行くんだ?」
「あの地下室。良子ちゃんも残したままだし、あそこの方があったかいんだもの」
マリは、お弁当の包みを二つに分けると、
「じゃ、私たちの分、持って行きます。明日お昼ごろにでも来てみるわ。もちろん、人目に充分気を付けてね」
「そうか。——すまないね」
「いいえ。それじゃ。——あんまり早く来すぎないようにしなきゃ」
マリはそう言って笑うと、「おやすみなさい!」
と、一声、階段をタタタッと駆け下りて行った。
吉原は首を振って、
「不思議な子だ」
と、言った。
「あなたのことが好きなのよ」
と一恵は言った。
「そうかな。しかし——」
「可愛《かわい》い子じゃないの」
「人間とは恋ができないんだよ。あの子は天使だからな、何しろ」
一恵がフフ、と笑って、
「じゃ、私と恋をするしかないわね」
「そうだな。——毛布は何枚?」
「二枚よ。それだけしかなかったの」
「下に一枚敷いて、上に一枚か」
「充分よ」
と、一恵は言った。「きっと、熱いくらいだわ」
地下の倉庫へマリが入って行くと、
「帰ったのか」
と、ポチが頭を上げた。「人のことを放り出しやがって」
「そう怒らないの。——ほら、お弁当」
「ありがたい! 腹ペコだったんだ」
と、起きて来る。
マリは、良子が眠っているのを確かめて、
「この一つは、取っとく分、と」
段ボールの上に置いて、「——けが、しなかった?」
「身は軽いんだぜ」
「そうね」
「あいつは?」
「隠れ場よ。今度は大丈夫だわ。一恵さんもいるし」
「また引張り出したのか」
と、ポチが呆《あき》れたように言って、「——お前どうかしたのか」
「何が?」
「いやに元気ないぞ」
「そんなことないよ」
「そうか……。じゃ、吉原って奴《やつ》、恋人と二人なんだ」
「そうよ。——結構じゃないの」
「無理すんなよ。やきもちやいてんだろ」
「黙って食べなさいよ」
と、マリはにらんだ。「——私はね、天使なの。人間の男に恋するわけないでしょ」
「理屈じゃね。だけど——」
「それ以上しつこく言うと、ぶっ飛ばすわよ」
「天使が暴力振っていいのかよ」
マリは取りあわず、自分の弁当を食べ始めた。
「——ねえ、一つ、手がかりができたわ」
「何だ?」
「あの、宮田って男よ。嘘《うそ》をついたんだわ。殺された女のことで」
「それがどうかしたかい?」
「なぜ嘘をついたのか、理由があるはずだわ。それを調べるの。きっと、何か分って来るわ」
「物好きだな。吉原に任せとけば?」
「ここまで来て? いやよ、私。最後まで見届けないと」
と、マリは言った。
「どうしようっていうんだろ」
「それを考えるんじゃないの。あんたも考えなさいよ」
「人づかいの荒い奴《やつ》だ」
と、ポチはブツブツ言った。
「——どうしたの?」
いつの間にか、良子が起き上っている。
「あら、起きちゃった? ごめんなさいね。この馬鹿な犬がうるさいもんだから。いやねえ」
「ワン」
と、ポチは文句を言った。
「良子も食べようっと。お腹空《なかす》いちゃったもん」
「そう? じゃ、ここにいらっしゃいよ。一緒に食べましょ」
「うん」
良子も加わって、倉庫での夜食会、ということになった。
「——ママ、ちゃんとご飯食べてるかなあ」
と、ふと手を休めて、良子が言った。
「そうね」
マリはちょっと迷ったが、気休めを言っても始まらない。「ねえ、ママがお腹一杯《なかいつぱい》食べてるかどうか分らないけど、ママが良子ちゃんに一杯食べてほしいと思ってることは確かよ」
「うん。——そうだわ。残してもママにあげられるわけじゃないし」
良子は、また食べ始めた。
しかし、不思議だ、とマリは思った。なぜこの子の母親をさらって行ったりしたのだろう?
三宅照子をさらって行って、何の得ることがあるのか。マリには分らなかった。
誘拐《ゆうかい》して金をゆすり取るという、ひどい人間もいることは、マリも承知している。しかし、三宅は失業中で、しかも殺されてしまっているのだ。
三宅照子が、夫を殺したので、自分で逃げているというのなら、まだ分るのだが、他の誰かにさらわれたというのは、よく分らない。
それとも——お金以外に、三宅は何か[#「何か」に傍点]持っていたのだろうか?
そう。電話に盗聴装置《とうちようそうち》が仕掛けられていたことが、それを暗示している。
「——ねえ、良子ちゃん」
と、マリは言った。「あなたのパパ、何のお仕事をしてたの?」
「色々」
と、良子は口をモグモグやりながら、答えた。「——でも、ずっと働いてなかったんだよ」
「そう。でも、それじゃ、お金がなくて困ったでしょ」
「ママはね。いつも泣いてたもん」
「でも、パパの方は?」
「お酒飲んだり、女の人の所へ行ったりして遊んでた」
よく見ているのである。
「じゃ、パパはお金、持ってたんだ」
「うん。持ってたよ」
「どこからお金が入ったのかなあ?」
「知らない」
ま、そこまで七つの子に期待するのは、無理というものだろう。
「でも、いつか、パパが言ってたよ」
「何て?」
「私が寝てると思って、二人でケンカしてたの。ママが、『まじめに働いて下さい』って言ったら、パパがね、『金はちゃんと毎月入って来るんだから、文句ねえだろう』って、怒鳴《どな》ったの」
「毎月入って来る……」
まるで月給取りね。でも——どこから?
マリは首をかしげた。
ふと、ポチが首を上げる。マリはポチを見た。
「なにっ?——あ、そう。ちょっといらっしゃい」
「どうしたの、ポチ?」
「ううん、ちょっとトイレですって」
マリはポチと一緒に倉庫を出た。
「——誰もそんなこと言わねえぞ」
と、ポチが文句を言う。
「何か言いたいこと、あったんでしょ」
「いや、もしかしたら、と思ったのさ」
「何なのよ?」
「毎月、何もしないで金が入って来るってのは、まともじゃないぜ。大体、金ってのは、働かないと入って来ないもんだぜ」
「だから何だっての?」
「うん。そいつはきっと、ゆすりじゃないかな」
「ゆすり?」
「ああ。人の弱味を握って、金を出さないとばらすぞ、って——」
「それぐらい、私だって知ってるわよ」
と、マリは言った。「でも、そんなひどいことする人が、本当にいるのね」
「おめでたい奴《やつ》だな」
と、ポチがため息をついた。