「わざとじゃないってば!」
「俺《おれ》を狙《ねら》って落ちたんだろう」
「そんなこと、できると思う? あんな時に!」
「分るもんか、天使なんて、悪魔のことを人と思ってないんだから」
「変なの」
「ともかく、俺は重傷だぞ」
「どこもけがしてないわ。ただの打ち身よ」
「全く、ひどい目に遭《あ》った……」
——マリとポチがやり合っていると、病院の前にタクシーが停って、林一恵と、良子が下りて来た。
「良子ちゃん!」
と、マリは駆けて行った。「ママは無事よ!」
「どこにいるの?」
「少し具合が悪いから、お医者さんが診てるわ。でも、大丈夫。すぐ元気になるわよ」
「良かったわ」
と、一恵が言った。「あの人は?」
「病室です。きっと何もかも分りますよ」
マリは、良子の手を取って、病院へ入って行った。ポチも入ろうとしたが、
「犬はだめですよ」
と、受付の人に言われて、渋々、
「差別だ……」
と、文句を言いながら、入口の階段に、ふてくされて座り込んだ。
——病室へ入って行くと、吉原、そして村田警視が立っている。ベッドの照子は、良子を見て、
「良子!」
と、両手を差し出した。
良子はトットッと歩いて行くと、
「お帰り、ママ」
と、言って、照子の頬《ほお》にチュッとキスした。
「——奥さん」
と、村田が、口を開いた。「ご主人のことですが……。ご主人は誰かを脅迫《きようはく》していたんですな」
「そうです」
照子は良子を抱き寄せながら、肯《うなず》いて、「殺されたのも、自分のせいですわ。あんなもののために、長く苦しんだ人も、気の毒です」
「それは何だったんです?」
「写真です。ホテルでの盗み撮りの。中年の男と、若い女の人……。女の人の方は、主人が殺された時、アパートへやって来たんです」
「知っていたんですか、その女を?」
「いいえ」
と、照子は首を振った。「写真を見たことがありましたから。——それに主人は、男の人からは毎月お金を送らせ、女の人には、自分も手を出していたんです」
「なるほど。それで、あのアパートへやって来たわけか。女の身許《みもと》を、やっとつかめました。小川育江というのは本当の名だった。ただ、独り暮しで、身よりも東京にはいないので、なかなか分らなかった。それに身許の分る物は持っていなかったし」
「主人は、電話が盗聴《とうちよう》されているのに気付いて、ひどく怒《おこ》ったんです。当然、そんなことをしたのは、相手の男しかいませんから」
「何かの拍子に、その写真のある場所をしゃべるかもしれない、と思ったんでしょうな。しかし、見付かってしまって、その男も追い詰められた」
「主人は、危険を感じたんでしょう。あの女を呼び寄せて、三人で話をつけようとしたんだと思います」
「しかし、小川育江が着くのが遅れ、男の方が先に来てしまった……」
村田は、首を振って、「その男は何者です?」
「分りません。顔は写真で見ましたけれども……」
「あなたをさらった二人の男は、そいつに雇われていたんですね」
「そうだと思います。何とかして、フィルムを見付けたかったんでしょう」
「小川育江が、刑事に訊問《じんもん》されているのを、犯人はどこかで見ていたんだな。そこで、あのうちの一人を、父親と称して、強引に連れて行かせた」
「彼女も、助かったと思ったんでしょう」
と、吉原は言った。「何といっても、刑事の前から逃げ出したかったでしょうからね」
「だから、話を合わせてついて行った。——しかし、なぜ、お前のマンションへ行ったんだ?」
「それは、僕と課長の話を聞いて、あそこにこの母子がいると思ったからですよ。もっとも、本当にいるなんて、僕は思わなかったんだけど」
「あんたが例の二人に連れ去られた時、小川育江はもう殺されていたのかね」
と、村田が訊《き》いた。
「いいえ。あの時、あの女の人は見かけませんでした」
と、照子は答えた。
「それが妙だな」
と、吉原は首をかしげた。「じゃ、なぜ小川育江は僕のマンションに?」
「お前の愛人だったからじゃないのか?」
「課長——」
「冗談《じようだん》だ。お前がやったとは、初めから、思っとらん」
「どうですかね」
と、吉原は言い返した。「ともかく、その相手の男が分ればいいんだ。問題のフィルムはどこにあるんだろう?」
照子は、少し間を置いて、言った。
「私が持っています」
誰もが顔を見合わせた。
「いえ、今は持っていません。でも、あそこを出た時、持っていたんです」
「しかし——どうして隠し場所を?」
「女は家の中を一番良く知ってますわ。主人は用心していたつもりでしょうけど、少し前から、私には分っていました。主人はお茶の缶の中へ入れたり、トイレの水槽《すいそう》の中へビニールにくるんで隠したりしてました」
「なるほど」
と、村田は肯《うなず》いた。「では、それをどこへやったんです?」
「持ち出したのは、それがあれば、主人を殺したのが私でない、と信じてもらえると思ったからですわ。でも、疲れ切って、あのマンションで眠っている所へ、あの連中がやって来て……。私、この子をベランダの外へ出して、ぶら下げてやりました。その時、フィルムも」
「ベランダに?」
「ベランダの下です。裏側に、ガムテープで貼《は》りつけてあります」
吉原は、ホッと息をついた。
「これで犯人が分るわね」
と、一恵が言って、吉原の腕を取った。
「すぐ行ってみましょう」
と、マリが言った。「良子ちゃんは、ママのこと、看病してあげてね」
良子が、ポン、と胸を叩《たた》いて、
「任しといて!」
と、言った。
みんなが一斉《いつせい》に笑った。
「何だか——」
と、マリが言った。
「何だよ?」
ポチが頭を上げる。
二人はパトカーの座席に座っていた。吉原たちはもう一台のパトカーに乗っている。
二台のパトカーは、吉原のマンションに向っていた。
「いやな気分」
と、マリは首を振って、「どうしてだろう?」
「事件が解決すりゃ、あの刑事とあの女が、めでたしめでたし、だからだろ」
「よして。そんなんじゃないわよ」
と、マリはポチをにらんだ。
「しかし、大した奴《やつ》だな」
と、ポチが言った。「三宅って奴を殺してそれから女も殺した。ついでに、家捜しさせるために雇った男たちも、あの宮田ってのと一緒に片付けた」
「火を点《つ》けたのね、あの家に。——ひどいことするわ。私と、照子さんも、死ぬところだったのよ」
「俺《おれ》だって、死ぬところだったぜ」
「まだ言ってるの」
「ま、ともかく、こいつは地獄へ落ちるのに資格充分だよ」
「変なこと請け合わないで。——何だか、いやな予感がするの」
「どうして?」
「だって……。なぜ、小川育江は吉原さんのマンションで殺されてたの?」
「そりゃあ、あそこが……」
「吉原さんに罪を着せるため? でも、見も知らない人間に、罪を着せようなんて、誰が考えるかしら?」
「ふーん」
ポチは、鼻を鳴らして、「じゃ、犯人は吉原の知ってる奴だってことかい?」
「そうとしか思えないじゃない。でも——あの人を誰が恨んでるかしら?」
「分った」
「本当?」
「振られた天使だ」
「けとばすわよ」
と、マリは言った——。
パトカーがマンションに着いた。
村田、吉原、そして、一恵と、マリ、ポチの五人[#「五人」に傍点]は、エレベーターで三階へ上った。
「運動にならないわね」
と、一恵は言った。
「ま、いいさ。事件が解決する時っていうのは、早く知りたいし、また先にのびてもほしいもんだ」
と、吉原は言った。「課長」
「何だ?」
「僕と彼女の仲人《なこうど》をやって下さいよ」
「おい……」
村田は渋い顔で、「俺《おれ》はそういうことは苦手なんだ」
「だめです。僕を犯人扱いしたんですから。償っていただかないとね」
村田は、顔をしかめて、
「上司を脅迫《きようはく》するのか」
と、言った。
——部屋へ入ると、吉原は明りを点《つ》けた。
「じゃあ、早速ベランダを見てみましょう」
「ああ。やってみろ。俺は高所|恐怖症《きようふしよう》なんだ!」
と、村田はずっと手前に立っていた。
吉原がベランダに腹這《はらば》いになって、手を外へ出す。
「——どう?」
と、一恵が訊《き》いた。
「待てよ……。何かある! これだ」
頑丈《がんじよう》に貼《は》りつけたテープをはがすのに、苦労はしたが、ネガフィルムを手に握って、吉原は、顔を真赤にして起き上った。
「やった!」
と、居間へ入って来ると、「これで、犯人が分る」
「早く焼付けてみたいわね」
と、一恵は言って——。「お父さん!」
驚いて、目を見開いた。
林が、コートに手を突っ込んで、居間の入口の所に立っていたのだ。
「お前がここにいるんじゃないかと思ってた……」
と、林は言った。「捜しに来たんだ」
「お父さん……。心配かけてごめんなさい。でも、私、もう吉原さんと一緒になるって決めたのよ」
一恵は、しっかりと吉原の腕をつかんだ。けがをした左腕だったので、吉原が目をむいた。
「そうか……」
「私の気持、変らないわ。もう家には帰りません。お母さんにも、そう言って」
林は、しばらく、不思議な表情で一恵を見ていたが、やがて口を開いた。
「——私からは言えない。お前が、自分で言ってくれ」
「ええ。それなら自分で言います」
と、一恵は肯《うなず》いた。
「さて、それじゃ、フィルムは俺《おれ》が預かって帰ろう」
と、村田が言った。「吉原、どうせ何日か休暇を取るんだろう?」
「それは、こいつを焼付けてからですよ」
と、吉原は、フィルムを見て、言った。
「その必要はないよ」
と、林が[#「林が」に傍点]言った。「そこに写っているのは、私と、小川育江だ」
——しばらく、誰も動かなかった。
マリは、自分が恐れていたものを、はっきり見たような気がしていた……。
「——お父さん」
一恵が、一歩前へ出る。「今、何て言ったの?」
「小川育江の愛人は、この私だ」
林は、いつもと同じように、穏《おだ》やかな口調で言った。「あの三宅という男に、その写真を撮られて以来、どれだけ苦しんだか……。毎月毎月、妻の目をかすめて何十万かのお金を工面しなくてはならなかった……。どんなに辛《つら》かったか、誰にも分るまい」
「では……三宅を殺したんですか」
と、吉原が言った。
「うん」
と、林が肯《うなず》く。「育江もだ」
一恵が、よろけて、ソファにもたれかかった。
「三宅と育江は、もう何度も寝ていた。——初めのうちは、きっと育江も三宅におどされていやいや相手になったんだろう。しかし、そのうち、三宅との仲を楽しみ始める。私から絞り取った金で、二人して遊んでいたんだ」
林は、首を振った。「あの時、育江は三宅の身を心配して、アパートへ駆けつけて来たんだ。私はそれを外で見ていた。そして、彼女を憎いと思ったんだ」
「でも、なぜここで——」
「それはね、君があの現場へやって来るのを見て、初めて思い付いたんだ。どこかで見たことがある、と思って、考えた。そして——思い出した。一恵の恋人だった刑事だ! しかしね、やはり、このまま発覚しないとしても、義理の息子が刑事というのは、どうも……。それに、私にとって一恵は何より大切だった。私に同情してくれるのは、一恵だけだ。一恵を失いたくなかった……」
「お父さん」
一恵が、力なく床に座り込んでしまった。「何と、三宅の女房も、この君のマンションに隠れているという。好都合だと思ったよ。そこで育江が殺されれば、当然、君は三宅殺しにも関り合いがあると思われるだろう」
「それで小川育江をここへ——」
「あの二人が、ここへ連れて来たんだ。私は後から来た。育江は、薬で眠らされて、寝室にいた。——私は、ためらわなかった」
村田が、ため息をついた。
「その殺しが、結局、隣の宮田や、例の男たちの殺しにつながったんですな」
「宮田はね、私の顔を見ていたんです」
と、林は言った。「口止め料を払えと言った。やっと三宅を殺したのにね。とんでもないことだ! 殺そうとすぐ決心しました。ただ、吉原君に疑いをかけるために、でたらめの証言をさせた。それが済めば、もうあいつの仕事は終っていたんですよ」
「あの二人も?」
「ああいう連中だ。当然、払った金だけでは満足しないだろう。——覚悟はしていました。何もかもうまく行くと思ったのに……。そんな所にフィルムがあったとはね」
林は、微笑《ほほえ》んだ。「私はやっぱり負け犬だな」
「——行きましょうか」
村田が促す。「表にパトカーもいる」
「待って下さい。娘に……」
林は、一恵の方へと歩み寄ると、「一恵、母さんを頼む」
と、言った。
林の体が、風のように、居間を駆け抜けたと思うと、扉が開いたままのベランダへと出て、そしてそのまま、宙へと飛び出した。
一恵が息をのんだ。
「——お父さん!」
マリは、目をつぶった。——いやな予感が、こんなにも当ってしまうなんて!
下で騒ぎが起きても、部屋の中の誰もが、動こうとはしなかった……。