「いてて……」
純一が呻《うめ》き声を上げる。
「しっかりしてよ、本当に」
と、マリは呆《あき》れて、「これだから、坊っちゃんには困るのよ」
「痛い! 頼むからそっと……」
——別にマリが純一をいじめているわけではない。
純一が、ゆうべ、あのコンビニエンスでの「初仕事」で、すっかり腰を痛めてしまったのである。
マリは、ベッドにうつ伏せになった純一の背中を、指でギュウギュウ押しているところだった。
「あんな重いもん……持ったことないよ」
と、純一は息も絶え絶え。
「重いって、何を持ったのよ?」
「カップラーメンの箱」
「あんな軽いもん、他にないわよ!」
マリは、純一の腰をギュッと押した。
「いてっ!」
と、悲鳴が上る。
「——大丈夫ですか、坊っちゃん?」
田崎がドアを開ける。
「いいんです。可愛《かわい》がってますから、私が」
と、マリは肯《うなず》いた。
「よろしく」
田崎はドアを閉めた。
「——立ちっ放しって、疲れるものなんだねえ」
と仰向けになった純一は、大きく息を吐き出した。
「でしょ? これからは、コンビニエンスへ入っても、働いてる人に共感が持てるわね。お金稼ぐって、楽じゃないのよ」
「うん……」
と、純一は肯いた。「君は偉い」
「そりゃ、天使ですもん」
と、マリは言って笑った。「今夜から、また私が行くわ」
「どうして?」
「だって、このままやったら、あなた、死んじゃうでしょ」
同じ仕事をした、という気持ですっかり気安くしゃべれるようになったマリである。ともかく、先輩顔できるのが嬉《うれ》しいのだ。
「いや、やるよ。こんなことでやめられるか!」
「へえ、無理しちゃって」
マリは笑って、「おやつの時間じゃないの、坊っちゃん?」
と、純一の上にかがみ込む。
純一が手を伸して——マリの肩をつかむと、引き寄せて、キスした。マリは真赤になって、
「何するのよ!」
と、あわててベッドから離れ、「そんな元気あったら……鉄の塊でも運んだら?」
言い捨てて、廊下へ飛び出す。
目の前に立っていた田崎とぶつかりそうになる。
「田崎さん!——立ち聞き?」
「いえ、物思いにふけっておりまして」
田崎は一礼して行ってしまった。
「全くもう! 金持なんて、考えることは一緒!——金さえありゃ、女の子は、みんな寄って来ると思ってるんだから!」
やたらせかせかと歩いている内に、庭へ出てしまった。
雨が、午後になって上り、青空が出ている。
マリは、何度か深呼吸して、気持を落ちつかせた。
あの「ドラ息子」ったら! 私にキスなんかして……。
マリは少々動揺したことを、認めなくてはならなかった。——そりゃ、キスされて何も感じないんじゃ困るしね。
でも……。どうせ私は天使で、あの人は人間なんだもん。
どう頑張《がんば》っても、実るはずのない恋なんだからね……。
時々、マリは、どうしてこんな若い女の子になったんだろう、と思うことがある。まあ天使が「おばさん」になるというのも、イメージとしては合わないが、でも、もう少し何でもやりやすかったかもしれない。
女の子の体と心を持っているおかげで、こうして時には乱れる胸で、やたら庭の中を歩き回って——。ボン。
何? 今、何かけっとばしたような……。
足を止めて振り向くと、ポチが上を向いて気絶していた……。
「わざとやったな!」
「違うってば!」
と、マリは両手を合せて、「ごめん! つい、ね……。キスされちゃったもんだから」
「お前が? 物好きもいるもんだ」
「もう一回けられたい?」
「よせ!」
ポチは、マリが持って来てくれたデザートを、庭先で食べていた。
「——仕事、仕事だわ」
と、マリは階段に腰をかけて、「ねえ、もう一人の方はどこにいるのかしら?」
「あの現場の家にゃ、姿を見せてないらしいじゃないか」
と、ポチは言った。
「あんだけ、TVやら新聞やらが騒いだらね……。誰《だれ》かが張り込んでるだろうし」
「あの二人は?」
「勇治さんと三崎伸子さん? 常市の立ち回りそうな所を当ってみるって。出かけてるわよ」
「ふーん。みられても大丈夫なのか」
「変装してるわ、勇治さん」
「もし見付けたとして……。どうなるかな」
「約束してくれてるの。私に先に知らせるからって。——用心しないと、やられることもあるんだものね」
「お前は人を信じるんだな、すぐ」
と、ポチは首を振った。
「なあに、まだ、あれが常市の方だっていうの?」
「もし[#「もし」に傍点]、そうだったら?」
「だったら、とっくに逃げてるでしょ」
「どうかな」
「どういう意味?」
「いいか。もし、あれが常市なら、弟の方を見付けたら、即座に殺すさ。それを常市だと思い込ませときゃ、自分は勇治として生きてられる」
マリは、ちょっと顔をしかめた。
「そりゃそうだけど……」
「その時はどうする? 一緒にいる三崎伸子も——」
マリは青くなった。
「殺すっていうの?」
「常市が死ぬ間際にやった、ってことにすりゃいいわけだ。そうだろ?」
「そうすれば……自分を狙《ねら》う人間はいなくなる、か」
「人間は[#「人間は」に傍点]、な。しかし、天使[#「天使」に傍点]がここにいる」
「私?」
「お前だってそうだ。奴《やつ》をあの世へ送り返そうとしている。奴から見りゃ、狙われてるのと同じさ」
「私を……殺す?」
「それしかないだろ? 自分が生きのびるためには。せっかく『生き返った』んだ。戻るもんか、と思っても不思議はない」
「そうね……」
マリは、呟《つぶや》くように言った。あの勇治を信じたいのは山々だが、ポチの言い分にも一理ある、と認めないわけにはいかない。
「二人で行かせたのは、まずかったかしら?」
と、マリは言った。
「もう遅いぜ」
ポチは欠伸《あくび》をした。
「冷たいのね」
と、マリが口を尖《とが》らしていると——。
「ここにいたんですか!」
と、田崎が飛び出して来る。
「どうかしたんですか?」
マリはパッと立ち上った。
「今、あのお化け[#「お化け」に傍点]から電話で」
「勇治さん? 何ですって?」
「見付けた、と。すぐ来てほしいそうです」
「やった!」
マリは飛び上った。「ポチ! 行くよ」
「分ったよ」
ポチが渋々ついて行く。「何で俺《おれ》が天使の仕事を手伝うんだ?」
——田崎が車を出してくれる。
マリとポチが乗り込むと、車は猛然と走り出した。
「どの辺です?」
と、マリが訊《き》いた。
「常市の昔の女の所だそうですよ」
「女の——」
「早くいかないと、また逃げられる心配がありますからね」
田崎は、巧みな運転で、どんどん車を追い越して行った。
何とも凄《すご》い場所だった。
「隠れ家って感じね、いかにも」
と、マリは言った。
半ば潰《つぶ》れかけたような家——というより「店」なのだが——の並ぶ、狭い小路。
夕方になって、辺りは薄暗くなっているが、人の気配はなかった。
「何なの、ここ?」
と、マリは言った。
「小さなバーだの飲み屋が固まっていた所ですよ」
と、田崎が言った。「しかし、今はもうみんな店じまいしてるんですが」
「田崎さん、来てたんですか、こんな所」
「若いころは、ですね」
田崎は、いささか感傷的な口調で、「しかし、見かけはボロでも、住んでる人間には、暖かみというか、人情がありましたがね」
「懐しがってる場合じゃないぜ」
と、ポチが言った。
「しっ! あんたが吠《ほ》えたら用心するかもしれないでしょ」
もちろん、車はずっと手前までしか入れない。——マリは、勇治たちの姿を探した。
「こっちです」
と、低く囁《ささや》く声。
「あ、伸子さんだ」
三崎伸子が、顔を出した。
「どこなんですか?」
「この奥の二階家だそうです。——たぶん今は空家なんでしょうけど、誰《だれ》かいるみたいだと……」
「勇治さんは?」
「一人で、見張っています」
「本当にいるのかい?」
と、ポチが言って、マリにコン、と頭を叩《たた》かれる。
「いてえな」
「勇治さんが言ってました。感じるんだ、と。——きっと兄が近くにいる、って」
伸子も、心もち青ざめている。
マリは、ここまでやって来てから、どうしたものか、迷っていた。
三崎伸子は、宮尾常市を殺す気だ。その気持は分るが、マリとしては、それを黙って見ているわけにはいかないのである。
それに——マリの役目は常市を見付ける[#「見付ける」に傍点]ことで、殺すことじゃない。といって、説得しておとなしくあの世へ帰る常市とも思えない。
そんなことより、下手に常市が暴れたら、こっちの方も、けが人が出るかもしれないのだ。
仕方ない。——ともかく、本当に[#「本当に」に傍点]いるのかどうか、確かめるのが先決である。
「じゃ、用心して近くへ行ってみましょう」
と、マリは言った。
刑事の真似事《まねごと》をするのが好きというわけじゃないが、何だかよくやってるような気がする……。
細い小路の、その裏側へ出ると、何だかビルののっぺりした壁と何十センチかの隙間《すきま》ができている。そこを、
「こっちです」
と、先に立って伸子が進んで行く。
勇治が、薄暗い中で、しゃがみ込んでいるのが目に入った。マリたちに気付くと、手で止れと合図をして、自分も足音を殺してやって来た。
「——どうですか?」
と、マリは訊《き》いた。
「時々、かすかに人の声がするんだけど。——誰《だれ》の声かまでは分らないんだ」
「じゃ、全然別の……」
「そうかもしれない」
と、勇治は肯《うなず》いた。「でも、何だかね、そばにいる、っていう気がするんだ」
「勇治さん。もし、お兄さんがいるんだったら、危険ですよ」
「分ってる。しかし——生き返って、兄も少しは人間が変ってるかもしれない。そうだろう?」
「でも、変ってなかったら?」
勇治は肩をすくめて、
「もう一回殺されるかな」
と、苦笑した。
「私が——」
と、伸子が勢い込んで身をのり出す。
「いや、だめだ。あなたまで殺させるわけにはいかない」
と、勇治は首を振った。「ともかく、まず僕が話をする。すべてはその後で」
「私も行きます」
マリがポチの首を叩《たた》いて、「あんたはここにいな」
「しかし……」
と、勇治がためらう。
「これ、私の役目ですもの。お巡りさんと同じ。仕事なんです」
「分った。じゃ、用心して」
勇治が、そっと歩いて行く。マリは、その後からついて行った。
「気を付けな」
と、ポチが言った。「——優等生め」
天使の仕事だ、と思っているから、あえてポチを連れて行かないのである。
変なところに気をつかいやがって、とポチは首を振って……それから、三崎伸子と田崎が息を殺してマリたちの行った方を見守っている、その後ろに回って、別の隙間《すきま》から出て行った。
——マリは、その空家を見上げた。
「あそこに?」
「うん」
勇治は、肯《うなず》いて、「今は静かだよ。しかし、出て来りゃいやでも分るんだ。あのボロ家だろ。階段一つとってもきしんで音をたてるからね」
「そうでしょうね。——じゃ、どうします?」
「僕はこっちの正面から、上って行く。声をかけるよ。——僕のことは、いきなり撃ったりしないと思う。それに銃は持ってないと思うんだ」
「希望的観測っていうんですよ、そういうのを」
「全くだ」
と、勇治は笑った。「——もし、兄が逃げるとしたら、裏側のベランダからだろう。君、そっちへ回って、見ててくれるかい?」
「分りました。もし、穏やかに話ができるようなら、呼んで下さい」
勇治は微笑《ほほえ》んで、
「そう願ってるけどね」
と、言った。「じゃ、行くよ」
「待って。私が裏へ回るまで」
と、マリは言った。
「分った。じゃ、少し間を置いてから、行くよ」
マリは、その空家のわきを回って、裏へ出た。しかし——裏はガラクタが山のように積んである。
身を隠すにはいいけど……。これじゃ、誰《だれ》が出て来ても、止められない!
ベランダが頭上にはり出している。鉄の支えなんか錆《さ》び切って、人がのったら、落ちてしまいそうである。
ギイ、ギイ、と音がした。——勇治が階段を上って行く音だ。
マリは、ガラクタの山のかげに身をひそめて、様子をうかがった。——暗くなる。
ちょうどビルの影が伸びているせいもあるのか、急激に暗くなった。ベランダの辺りも、ぼんやり見えているだけ。
何か、ライトを持って来るんだったわ、とマリは思った。
「兄さん」
と、勇治が呼ぶ声が聞こえた。「兄さん、いるのか?」
ガタン、と音がした。マリはギクリとして、身が縮まった。
出て来る[#「出て来る」に傍点]!
ベランダへ出る窓がガタッと音をたてて外れ、人影が——ぼんやりとしか見えない。
ベランダがギーッときしんだ。
黒い人影は、パッと宙へ身を躍らせると、マリの数メートル先に飛び降りた。間には、壊れたTVだの机だのが積んであって、隠れてしまっている。
逃げられる!——マリは、先に大天使を呼んどけば良かった、と思った。逃げられたら、また大変だ。
「待って!」
マリは、声をかけた。「警察じゃないのよ。逃げないで!」
ガラクタの山を押しのけて、マリは進み出た。——誰《だれ》もいない。
そんな……。逃げたのかしら。でも、どこへ?
マリは、突っ立っていた。
そのとき、ポチが吠《ほ》えた。
「危ないぞ! 馬鹿《ばか》!」
え?
左右へ目をやる。人影は、いつの間にかマリの斜め後ろに回っていた。
「おい! 伏せろ!」
ポチが駆けて来る。が、ガラクタの山が邪魔になった。
マリが振り返ったのと、銃声がしたのは同時だった。銃弾はマリの脇腹《わきばら》を貫いた。
アッ、と声を上げたのかどうか——。火を当てられたような痛みに目がくらんだ。
ポチ!——危いよ! 来ちゃいけない……。
マリは地面に倒れた。逃げて行く足音を聞いたような気もしたが、はっきりしない。
そして、苦痛は消えた。気を失ったのである。
「私が行けば良かったんだわ」
と、三崎伸子は呟《つぶや》くように言った。
「いや、すべては僕のせいです」
宮尾勇治は、首を振って、「僕の話ぐらいは聞くだろうと思っていたのが甘かった。あの子に何て詫《わ》びていいか……」
「まあまあ」
田崎が二人をなだめて、「みんなで落ち込んでいても、あの子が回復するわけではありません」
——病院を出たところで、ポチが待っている。やはり見かけが犬では、中に入れてくれないのである。
「おい、どうだった、あいつの具合?」
と、訊《き》いてみたものの、田崎たちには、ただ「ワン」と吠《ほ》えているとしか聞こえない。
「心配してるんだわ、きっと」
と、伸子はポチの方へかがみ込んで、「利口な犬ね、お前は。ご主人のことが、心配なんでしょ」
「ご主人[#「ご主人」に傍点]はやめてくれよ」
と、ポチは渋い顔(?)をした。
ポチのご主人は悪魔そのもの。マリはあくまで「臨時の相棒」である。
「そんなことより、けがの方はどうだ、って訊いてんだよ」
「犬でも、こんなに胸を痛めてるのね……」
と、伸子は涙ぐんだりしている。
「全く、言葉が通じねえってのは、困ったもんだな!」
ポチはため息をついた。
「しかし、弾丸《たま》が貫通して、却《かえ》って良かったと医者も言ってましたよ」
と、田崎が言った。「半月もすれば退院できるだろうし、一か月ぐらいで完全に良くなるだろう、と。不幸中の幸いというべきですよ」
「やれやれ……」
と、ポチが言った。「すると、何とか死なずにすんだんだな。運のいい奴《やつ》だよ」
天使が助かって、悪魔がホッとするってのも妙なもんだが、やはりずっと一緒に旅をしているのと、あの野犬狩りに引っかかった時に、助けてもらったのを、ポチは少々気にしていたのである。
「いけねえな。——俺《おれ》もあいつのおかげで、少し堕落[#「堕落」に傍点]したらしいや」
と、ポチは独り言を言った……。
「——ともかく、あの子には最高の治療を受けさせるように手配しました。後は私ができるだけ様子を見に来るようにしますよ」
と、田崎は言った。「今日は一旦《いつたん》屋敷へ戻りましょう」
三崎伸子は無言のまま、田崎の車に乗り込んだ。宮尾勇治が助手席に、ポチは後部席で伸子と並んで寝そべった。
車が走り出して、十分ほどすると、
「そうだわ」
と、伸子が顔を上げた。「すみません。田崎さん、私、一旦家へ戻りたいんです」
「お宅へ?」
「というか——一時的に借りたアパートになんですけど。息子のお葬式も出さなくてはなりませんし、夫も、戻ってくるかもしれませんから」
「分りました。どの辺ですか?」
伸子が説明すると、田崎はちょっと考えて、
「すると、その先から左折した方が近いな。——分りました。三十分もすれば着くでしょう」
「勝手を言って、すみません」
「今夜はそこへ泊られますか」
「たぶん……。後でご連絡します」
と、伸子は言った。
田崎の計算より十分ほど早く、車は伸子の借りているアパートの近くに着いた。
伸子が車を降りると、勇治が窓から顔を出して、
「奥さん。僕もお邪魔して構いませんか」
と、言った。
「勇治さん——」
「いや、もしご主人がおられたら、引きあげます。もし、おられなかったら、せめてお線香の一本でも。やったのは僕の兄なんですから」
伸子は、勇治の言葉に胸を打たれた。
「そうしていただけると……」
「じゃ、田崎さん、僕はタクシーでも拾って帰ります。先に戻っていて下さい」
と言って、勇治が車を降りる。
「助かったぜ」
と、ポチが独り言[#「独り言」に傍点]を言った。「これ以上晩飯が遅れたら、こっちが死んじまう」
——田崎の車が行ってしまうと、伸子と勇治は、夜の道を歩き出した。
「おっと」
勇治は空を見上げた。「雨か。——すぐですか?」
「ええ、その先」
「走りましょう」
雨足は一気に強くなったが、二人はアパートへ駆け込んで、何とかそれほど濡《ぬ》れずにすんだ。
「本降りだな」
と、勇治はアパートの入口から表へ目をやって、息を弾《はず》ませた。
「傘があったかしら。——憶《おぼ》えてないわ」
「大丈夫ですよ。雨に濡れて冷たいと感じるのも今の内だ。せいぜい楽しみますから」
勇治が微笑《ほほえ》んで言った。——伸子が胸をつかれる。
そう、この人は一旦《いつたん》死んだのだ。そして、間もなく、また死の世界へと帰って行かなくてはならない。
伸子の胸がキュッと痛んだ。こんないい人が……。なぜずっと生きていてはいけないのだろう。
「——どの部屋ですか?」
勇治に訊《き》かれて我に返る。
「あ——あの、奥の部屋ですの。たぶん……主人は戻ってないと思います。外から見た時、明りが点《つ》いていませんでしたから」
先に立って、表札もないそのドアの鍵《かぎ》をあける。ドアを開け、明りをカチッとつけて、
「何もないんですけど——」
と、言いかけ、上ろうとして……。「あなた……」
上ってすぐの六畳間に布団が敷かれ、そこで起き上ったのは、夫だった。
「帰ったのか」
と、伸子をジロッとにらんで、「誰《だれ》か一緒なのか」
勇治は、伸子の後ろに、隠れるように立っていた。
「俊男の写真に、お線香を上げて下さるって……。あなたが帰ってるって、知らなかったから、私——」
伸子は言葉を切った。
奥の浴室のドアを開いて、女が——湯上りの、バスタオルを体に巻きつけただけの女が、出て来たからである。
「のぼせちゃった」
と、女は赤い顔で息をついて、「あなたも入ったら?——あら」
伸子に気付く。伸子も、やっと思い出した。
そんな格好なのですぐには分らなかった。夫の下で働いている二十四、五の女の子で、前に伸子が世話して見合いさせたことがあった。
女も伸子を思い出したらしく、ちょっと気まずそうに目をそらして、
「奥さん、帰ったじゃない」
と、三崎の方へ言った。
「うむ」
「あなた……」
伸子は、やっと目の前の光景の意味[#「意味」に傍点]を理解して青ざめた。しかも、二人はすでに「終った」後だったのだ。
「俊男の前で……何てことを!」
伸子の声は震えた。
「何か文句があるのか」
三崎は、少しアルコールも入っている様子だった。「俺《おれ》はお前みたいに俊男を見殺しにしたわけじゃないぞ。それに、どこへ行ってやがった? その男は何なんだ?」
多少は後ろめたいのだろう。上ずりがちな声で伸子へ言葉を叩《たた》きつけて来る。
「私は——私は俊男の敵を討つんです!」
と、伸子は叫ぶように言った。「あなたはもう一度[#「もう一度」に傍点]、俊男を殺したんだわ!」
「何だと、こいつ——」
三崎がよろけながら立ち上りかけた時には、伸子は玄関から走り出ていた。
そして雨の中へ、夢中で駆け出す。——吐き気がした。あんな男と夫婦でいたのかと思うと、やり切れなかった。
ぐい、と腕をつかまれて、思わず、
「はなして!」
と、振り払おうとした。
「奥さん! しっかりして下さい!」
——宮尾勇治だった。
伸子は肩で息をしながら、雨に打たれていた。もちろん勇治も。
「すみません、私……」
「忘れるんです」
と、勇治は言った。「赤の他人だと思うことですよ」
伸子は、頬《ほお》を伝い落ちて行くのが涙なのか、それとも雨なのか、分らなかった。ただ、誰かを身近に感じていたい、と切実に思った。
そして——伸子は勇治の胸に顔を埋めていた。流れ落ちる雨も、二人の間へ忍《しの》び込むことは、できないようだった……。