「水谷さん」
そう呼ばれても、邦子はそれが自分の名だということに、なかなか気付かなかった。
「水谷さん。——工藤です」
邦子は、やっと顔を上げた。
もう何時間、この調理場の椅子《いす》に座っていたのだろう?
「工藤さん……。今、何時かしら」
「もうじき十一時です」
「夜の?——まあ、大変」
邦子は頭を振った。「子供たち、もう寝たかしら?」
「大丈夫ですよ。あなたは少し休まなくちゃ」
工藤は、椅子を引いて腰をおろすと、「駆けつけられなくて、すみません。お役所の仕事は、融通がきかなくてね。出張先でTVを見て、飛んで帰りたかったんですが……」
「いいえ、そんなこと」
邦子は、ゆっくりと椅子の背にもたれて、息をついた。「——そうだった。私、もうここにはいられないんだわ」
工藤は戸惑ったように、
「何を言ってるんです?」
「だって——私の不注意で、あんな騒ぎを起こして。しかも人が二人も——いえ、三人も死んだのよ」
「あなたの責任じゃない。誰も、そんなこと言っていませんよ」
「他の人は言わなくても、私にとっては、同じ。——それに、私は嘘《うそ》をついていたし」
「あの男のことですか。宮尾という……」
「それと、幸江ちゃんの父親だと言ってた今井のことでも」
邦子は、ふと、どうしてここに座っていたのか分ったような気がした。——この調理場で、宮尾勇治と出会ったのだ。それに、二人で話をし、ほんの一瞬だが、心が触れ合うような気がしたのはやはりこの調理場だった。
私のことを分ってくれた、たった一人の人……。そう。それが宮尾勇治だった。
でも、出会った時、彼はもう死んでいた[#「死んでいた」に傍点]のだ。何て皮肉な人生!
「全く不思議な出来事でしたね」
と、工藤は首を振って、「死人が生き返るなんてこと、あるのかな。——しかし、ともかく何もかも終ったんですよ。あの兄弟は、いるべき場所へ戻ったし、幸江ちゃんも無事だった。今井は、たとえ本当の父親だったとしても、娘を道連れにして死ぬつもりだったんですから。幸江ちゃんを渡さなかったのは、当然のことだったんです。あなたが自分を責める必要はありません」
工藤の理屈は、邦子にもよく分った。ありがたいという気持にもなる。
しかし、それは邦子の心に鉛のように重くたまっている物を、少しも溶かしてはくれなかった。
「ありがとう、工藤さん」
と、邦子は立ち上った。「でも、これは私自身の[#「私自身の」に傍点]問題なの。私が考えて、結論を出さなきゃいけないことなの」
そして、振り向いた邦子は、そこに立っているパジャマ姿の幸江を見て、ドキッとした。
「どうしたの、幸江ちゃん?」
幸江は半分眠りかけで、機嫌が悪そうだった。
「お姉ちゃんが来てくれないんだもん」
と、口を尖《とが》らす。「約束でしょ。ちゃんとそばにいる、って」
邦子は、少し間を置いてから、笑った。
この厄介でわがままで身勝手な生きものたちと、自分は付合っていかなくてはならない。その付合いは、始まったばかりなのだ。
そう。——子供たちにとっては、邦子の失恋も傷心も、何の関係もない。子供たちにとっては、「自分たちだけのお姉ちゃん」なのだから。
叱《しか》ってやることもできる。もうあなたは大きいのよ、一人で寝られるでしょ、と。
だが、この子は「愛される」ことに、飢えているのだ。自分を抱き寄せ、受け止めてくれる人を求めている。
私も[#「私も」に傍点]ね、と邦子は心の中で呟《つぶや》くと、
「——はいはい」
と、幸江の手をつかんだ。「じゃ、ちゃんと寝るのよ。一緒にいてあげるから」
幸江がコクン、と肯《うなず》く。邦子は、廊下の床が、あまりきしんで大きな音をたてないように気を付けながら、歩き出した。
——夜は、まだ長い。
「おい。——いい加減に目を開けろ」
何よ、うるさいなあ……。
マリは、ブツブツ言った。——せっかく人がいい気持で眠ってるのに……。
「何をムニャムニャ言っとるんだ」
え? 誰《だれ》だろう? どこかで聞いた声だけど……。TVタレント?
目を開けると——白い天井が目に入った。
病院か。そうだった。私、ひどく痛い思いをしてね。本当にひどい目にあったんだ。
あの大天使様のおかげで、さ。
「何か言ったか?」
ヌッと大天使の顔が出て、マリは目が覚めた!
「大天使様。——聞こえました?」
「何が?」
「いえ、いいんです」
と、あわてて言った。「あの——それで、どうなりました?」
「うむ。ご苦労だった。無事に決着がついたぞ」
「良かった!——痛い思いしたかいがあった」
「大変だったな」
と、大天使が肯く。
「本当に! でも、大天使様……」
「何だ?」
「あの二人……。やっぱり天国と地獄へ別れて行ったんですか?」
と、マリは訊いた。
返事は、しばらくなかった。
「大天使様——」
「それはお前が知らなくてもいいことだ」
「でも——」
「天国へ戻ったら、自分の目で確かめるといい」
マリは口を尖《とが》らせて、
「教えてくれてもいいじゃないですか! ケチ!」
「何だ、大天使をケチ呼ばわりして」
「だって……。こんなに痛い思いまでして——。あれ?」
マリは、そっと手で、包帯の上から触《さわ》ってみた。「——痛くないわ」
「それが今度の仕事のほうび[#「ほうび」に傍点]だ。特別な計らいだぞ」
「ありがとうございます! やっぱり大天使様ってすてき」
「コロコロ変るな。——ま、ともかく良くやった」
「でしょ? 今度は何か下さいね」
「馬鹿《ばか》め」
マリは、ウーンと伸びをした。
病室のドアが開いて、マリはあわててパッと元通りの格好になった。大天使の姿が消える。
「やあ、気がついたの」
山倉純一が花を持って入って来た。「良かった。——花より食べるものの方が良かったかな」
「でもいいわ、花で。退屈しそうだから、入院生活なんて」
「医者の話じゃ、無茶したから、一か月は退院できないって」
「何だか嬉《うれ》しそうね」
と、マリはにらんでやった。
「そうじゃないけど、その間に君が僕と結婚する気になるかもしれないだろ」
マリは苦笑いして、
「どうかしら。——コンビニエンスの方は?」
「ちゃんと働いてるぜ。もう体も痛くなくなったよ」
「せいぜい頑張って」
と、マリは笑った。「——ね、純一さん」
「何だい?」
「あの人——三崎伸子さん、大丈夫だった?」
純一は肯《うなず》いて、
「子供さんのお葬式がすんで、ご主人と別れたよ。一人で働きながらやっていくって」
「そう。——良かった」
「宮尾のことを言ってたよ。憎いけど、最後に、あの女の子を助けて死んだのを見て、ホッとしたって」
「良かったね」
と、マリはもう一度言った。「安心したら、お腹が空いたわ」
「じゃ、うんとおいしいものを食べて、元気をつけてくれよ」
純一は、花を花びんに入れると、「夕ご飯、田崎に何か買いに行かせるよ。——ちょっと電話して来る」
「ありがとう」
と、マリは言った。
純一は出て行くと、入れかわりに、ポチが顔を出した。
「あんた、来たの。ちょうど良かった」
「何だい?——おい、大丈夫なのか?」
マリがベッドから出るのを見て、ポチが目を丸くする。
「もう治ったの」
「何だって?」
「ほら、向う向いて。レディが服を着るんだから!」
マリは包帯を外し、傷がきれいになくなっているのを見た。——急いで服を着る。
「どうするんだ?」
「行くのよ」
「また[#「また」に傍点]、出てくのか?——少しはのんびりしようぜ」
ポチがうんざりしたように言った。
「何でもね、潮時ってもんがあるのよ。今がそれなの」
マリはコートをはおった。
「あの坊っちゃんに惚《ほ》れそうなんだろ」
「やめてよ」
と、マリは少し赤くなって、「私は天使よ。——さ、人目につかないように、こっそりとね」
「分ったよ……」
ポチは首を振って、マリの後について、病院を出た。
幸い、誰とも出会わずに病院を出られた。
「——もうじき夕飯時だぜ」
と、ポチが歩きながら言った。「どうせなら、食ってから出て来りゃ良かった」
マリはポケットに手を入れて、
「コンビニエンスでもらった日当があるわ。何食べる?」
「そう来なくっちゃな!」
ポチが鼻歌気分でスキップして行くのを、すれ違ったブルドッグが、不思議そうに見送っているのだった……。