「だからやめとけって言ったじゃないか」
と布団の上に引っくり返って、野《の》口《ぐち》がタバコをふかしながら言った。「相手にしちゃもらえねえよ」
「このまま諦《あきら》めてたまるかい!」
阿部ユリエは、腹立ちをぶつけるようにぐいとお茶を飲み干して、「まずいお茶出して、全く!」
「八つ当りすんなよ」
野口は笑った。「ま、こんな所までやって来たんだ。せめて交通費ぐらいは出してほしいな」
「そんな弱腰でどうすんのよ」
阿部ユリエもタバコに火をつけた。窓側の椅《い》子《す》に腰かけて、表を眺めている。
いかにも古風な日本旅館で、二人とも、湯上りだった。
「ちょっと」
と、ユリエは野口に言った。「寝タバコはやめて。布団でもこがしたら弁償だよ」
「ああ」
野口は起き上って、灰皿にタバコを押し潰《つぶ》した。機《き》嫌《げん》の悪い時のユリエには逆らわない方がいいのだ。
「だけど、確かに加奈子だったのかい?」
「あんたね、私は母親よ」
と、ユリエはムッとしたように、「いくらだめな母親でも、娘の顔ぐらい憶《おぼ》えているよ。まだ一年しかたっちゃいないんだからね」
「しかし、向うは知らないって——」
「そう言い含められてんのさ。少しやせたけど、間違いなく加奈子だよ」
野口が肩をすくめて、
「そうだとしても、相手にしてくれなきゃ、どうしようもあるまい?」
「何か手を考えるさ」
ユリエは苛《いら》々《いら》している様子で「あんたも何か考えなよ!」
と、かみついた。
やれやれ。——かなわねえな、と野口は内心ため息をついた。
野口はユリエの愛人である。ユリエは今四十だが、野口は三十一歳。もう二年近い付合いで、ユリエの方が完全に野口を引張っている、という関係だ。
野口はもともと遊び人で、女から女へと、泊り歩いている男だった。一見したところ、やさ男で、ちょっと二枚目風なのが、ユリエの気に入ったらしい。
ユリエがバーで働いて食わしてくれていたので、野口ものんびりとやっていた。
ところが——二、三か月前になるか。TVをぼんやりと見ていたユリエが、パッとはね起きて、
「加奈子だ!」
と大声を上げたのである。
野口も、加奈子がほんの短い間だが同じ家にいたから、少しは憶えている。その時TVに映っていたのは、このところ急激に信者をふやしているという、何とかいう新興宗教のドキュメントで、〈教祖は何と十八歳の少女!〉という副題がついていたのである。
確かに、野口もそれが加奈子に似ていることは認めた。しかし、本当に同一人物か、ということになると……。
しかし、ユリエは絶対に間違いない、と言い張るし、実の母親が言うんだから、確かだろう。それに、加奈子が家出をした(のかどうか分らなかったが、ともかくいなくなった)のと、その少女が教祖として信者の前に姿を現わしたのは同じころだったらしい。
それが加奈子だという可能性は決して低くなかった。
ユリエは仕事そっちのけで、この新しい宗教のことを調べ歩いた。
その結果、今、この教団の有力な信者には、一流の企業人が大勢加わっていること、そのせいで、この教団はえらく金持だということ、山の中に、超豪《ごう》華《か》な本山が建てられ、教祖はそこにいること、などが分った。
野口は、だからといって、どうしようというわけではなかったが、ユリエは、すっかり「娘が偉くなった」ことで、自分まで偉くなった気でいたらしかった。
娘が行方不明になっても、捜索願さえ出さなかったくせに、とさすがの野口も苦笑したものである。
そして——突然、ユリエは旅仕度をして、店をやめた、と言ったのだ。これから、加奈子に会いに行くわよ!
何億円もの金がうなってる所で、娘がトップの座におさまってるのに、何も母親が遠《えん》慮《りよ》するこたあない、と——ユリエらしい勝手な理屈である。
そして、この旅館に昨日やって来て、ユリエはここからバスで三十分ほどかかる、教団の総本山へと出かけて行った。その結果はまあ、こんなものなのである。
ユリエは、不満そうに鼻を鳴らして、
「ビール、ある?」
「ここにゃ冷蔵庫はないぜ。下の自動販売機で、缶ビールを買うんだって、旅館の奴《やつ》が言ってたじゃねえか」
「そうか。——じゃ、買って来るわ。あんた、飲む?」
「いや、もう風《ふ》呂《ろ》へ入っちまったしな。もういい」
ユリエが出て行くと、野口は代りにユリエの腰かけていた椅《い》子《す》に座った。
——そろそろユリエとも、潮時かもしれないな、と野口は思った。
もちろん、例の〈教祖様〉ってのが、本当に加奈子で、いくらかでも金を引き出せるのなら、まだユリエにくっついている値打はあるだろう。
しかし、ともかく相手がでかすぎる。押売りや契約詐《さ》欺《ぎ》とはスケールが違うのだ。
ひところ、暴力団にも出入りしていて、組織というものの怖《こわ》さを知っている野口は、本能的に、大きな相手とはケンカしない、というやり方に決めているのだった。そして、それは一度ならず野口の身を救っているのだ。
「やめといた方がいいぜ」
どうせ、じかに言っても聞きやしないだろうから、野口は独り言を言った。
相手がでかすぎるよ。全くの話が……。
野口は、遠い山の頂上近くに、大げさな照明に浮かび上る、あの総本山の丸屋根を見やった。こんな所からも見えるのだ。
えらいもんを作りやがったな、と野口は首を振った。
あんなものにケンカを売って、勝てるとは思えない。——やっぱり、俺《おれ》はもうユリエとおしまいにするべきかもしれないな、と野口は思った……。
ユリエは、一階へ下りて、身震いした。玄関の方から、冷たい風が入って来るのである。
しかし、ビールの自動販売機は、玄関の正面のホールにあった。
ほとんど駆け足で自動販売機まで行き、生ビールを二缶買って、それをかかえて廊下を戻る。——早く部屋へ入って、布団に飛び込もう。
このところ野口は面倒くさがって抱いてくれない。ユリエが苛《いら》立《だ》っているのは、そのせいもあった。
今日は旅先だし、少しは気分も出て、いいムードになるかと思ったのだが、加奈子のあの態度、それに、応接に出た女に、押売り同然に追い帰されたことで、頭に来てしまっていた。
野口に当っても仕方ない。部屋に戻ったら、
「ごめんね、八つ当りして……」
と、謝ってやろう。
甘えてやれば、あの人だって喜ぶ。——そう、私のこの体だって、充分に魅《み》力《りよく》があるのよ……。
「おっと」
「あ、ごめんなさい」
廊下の角で、危うくぶつかりそうになった。
その男は、そのまま行きかけたが——。
「ユリエ」
と、振り向いて、「ユリエじゃないか」
ユリエも、振り返る前に、思い当っていた。我ながら意外だった。ろくに顔も思い出せないと思っていたのに……。
「あんた。——何してんの、こんな所で」
元《ヽ》亭主の阿部哲《てつ》夫《お》だ。いや、今も法律的には夫である。
「お前も……。いや、びっくりしたな」
何となく、二人は顔を見合せていた。思いがけない出会いで、どういう態度を取ったものやら、決めかねているのだ。
「何でここに?」
と、ユリエがくり返すと、
「うん……。ちょっとビールを買おうと思って」
と、的外れな返事。「お前もか」
「そう……。あんた、一人なの?」
「ああ。お前は——」
と、ユリエがかかえている二缶のビールへ目をやって、「二人か」
「二人だけど、これは一人で飲むのよ」
何の話をしてるんだか……。缶ビールのこと以外にも、何か言うことはあるだろうに。
「——一つ、飲む?」
と、ユリエは言った。
「いいのか?」
すぐ受け取ったのを見ても、夫の方もあまり金の持合せはないらしい。
「——話もあるでしょ」
と、ユリエは言った。「あんたの部屋はどこ?」
「この奥さ。押入れの広いようなやつだ」
と、阿部は苦笑した。
「そこで話しましょ」
と、ユリエは言った。
——行ってみると、確かに、かけ値なしの「押入れ」である。二人して向い合って座ると、膝《ひざ》がくっつきそうになる。
「色々悪かったなあ」
と、阿部はビールを開けて、言った。「いや、いつか謝らなきゃ、と——」
「よしてよして」
ユリエは顔をしかめた。「私は男を引張り込んでるし、お互い様よ。怒っちゃいないわ」
「そうか」
阿部が、拍子抜けの様子で、言った。「しかし、加奈子は?」
ユリエは、缶ビールをぐっとあおると、息をついて、
「あんた、TVで加奈子のこと見て、会いに来たの?」
と、訊《き》いた。
「じゃ、やっぱりあれは加奈子か?」
と、阿部は目を見開いた。「あんまり似てるんで……。一度、本物を見たいと思ったんだ」
「加奈子はあんたがいなくなってから、少しして家を出たのよ。全然連絡もないしさ、心配してたんだけど」
と、ユリエは平然と言って、「TV見てびっくり! あれ、間違いなく加奈子だわ」
「そうか。それにしても、何だって加奈子があんなことをやってるんだ?」
「金か男か。——ともかく表向きはお姫様扱い。今日会ったけどね」
「会った? 加奈子に会ったのか!」
と、阿部が身を乗り出す。
「ちょっと! ぶつかるでしょ。——でも、向うは知らん顔。ま、恨んでるんでしょ。無理ないけどね」
「そうか……。まあ、あの子が幸せならいいがな」
と、阿部は肯《うなず》いた。「じゃ、俺《おれ》が何もわざわざ会いに行くこともない。こんな部屋でも余計に泊っちゃもったいない。明日、帰るかな、東京へ」
ユリエは、ちょっと笑って、
「だめよ、抜けがけしようったって」
「抜けがけって何だ?」
「分ってるわ。あの子に会って、少々困ってるんだ、お金を少し都合してくれ……」
「おい」
と、阿部は顔をしかめた。「やめてくれ。俺は何も——」
そう言いかけて、言葉を切ると、
「お前……。そう言ったのか」
「悪い? あっちは凄《すご》い金持なのよ」
「加奈子が金持ってるわけじゃあるまい」
「でも、教祖様よ。たとえ名目だけでも、あそこで一番上に立ってるのよ。その親に少しぐらいのお金を都合してくれたって、尊い教えには背かないと思うけど」
阿部は苦笑した。
「お前らしい理屈だよ。それじゃあ知らん顔されても仕方ないだろう」
「あら、あんた、それじゃ加奈子に会って、何て言うつもりだったの?」
「別に……。ただ、詫《わ》びを言って、元気かどうか見て帰って来るつもりだった。——それより、ともかくあれが本当に加奈子かどうか、確かめたかったんだ」
「そう……」
ユリエは、何やら思い付いた様子で、「あんた一人で行っても、会わせちゃくれないと思うけどね」
「そうだろうな。何しろ教祖様だ。奥の奥に大切にされてるんだろう」
「今のああいう宗教屋ってのは儲《もう》かるのよ。いい商売だわ」
と、ユリエは言って、「あんたなら……。そうね、加奈子本人は、あんたの方になら会うかもしれないわ」
「どうして?」
「あの子は父親っ子よ。知ってるでしょ」
「それにしたって……。蒸発した父親だぜ」
「それでも、男を家へ引張り込んでる母親よりはま《ヽ》し《ヽ》よ。——ねえ、あんた」
「何だ?」
「協力しましょうよ。うまくお金をせしめられたら、あんたにも回すから」
阿部も、「金」と聞くと、気にかかる様子で、
「いくら、せびるつもりだ?」
「二千万って言ったんだけどね。でも、私が言うより、あんたの方が——。そうだ!」
と、ユリエは声を上げた。「こうしましょう……」
ユリエの話を聞いて、阿部は渋い顔をした。
「そんな……。お前、それじゃあの子を騙《だま》すことになるぜ」
「あっちは何万人——何十万人の信者を騙してんのよ。構やしないわ。こっちの方が、よっぽど罪が軽いわよ」
ユリエは常に、自分の都合のいい理屈を見付けて来るのである。
「うまく行くかな」
「だめでもともと、って覚悟でやらなくちゃ。別に損はしないんだから、こっちは。ね?」
「分ったよ」
と、阿部は肯《うなず》いた。「お前の連れはどうするんだ?」
「あの人は私の言うなりよ。何か手伝わせるわ。任しといて」
ユリエは、いつも自信たっぷりなのである。
「このビール、おごってもらっといていいのか?」
「いいわよ、それくらい」
「すまんな」
と、阿部は言って、「じゃ、ともかく、俺は寝るよ。この狭苦しい所でな」
ユリエは、ふっと気《き》紛《まぐ》れな笑みを浮かべると、
「もっと狭くしてあげようか?」
と言った。
「え?」
ユリエが帯を解く。——呆《あつ》気《け》に取られている阿部を、ユリエは押し倒した。
結局、襖《ふすま》には、けとばした穴が二つもあいてしまった。——二人で寝るには、やはり狭すぎたのである……。