ヘリコプターがフワリと浮かび上ると、中から首相が手を振るのが見えた。
中山が一礼する。水科尚子、他の幹部たちも一《いつ》斉《せい》に頭を下げた。
マリは迷った。どうしたらいいんだろう?
頭を下げるのは簡単だ。しかし、ここは宗教の総本山であって、ここでは首相よりも誰よりも「教祖」の方が上に立つはずだ。たとえ、少々妙な宗教で、代役の教祖であっても……。
とっさの判断ではあったが、マリは頭を下げずに、向う同様、手を振って見送ることにした。
ヘリコプターは、たちまち高く舞い上って、小さくなってしまう。
「——寒い」
と、マリは身震いした。
総本山の屋上に作られたヘリポートである。風が吹きつけて寒いこと。
ふと気が付くと、中山と水科尚子が、目を丸くしてこっちを見ている。マリは、もしかして服を後ろ前に着てたかしら、と見下ろしたが——大丈夫だった。
「君」
と、中山が言った。「今、どうして頭を下げなかったんだ?」
「あ……。すみません。まずかったですか?」
マリは、ペロッと舌を出して、「いえ——ちょっと自分なりに考えて、ここじゃ、教祖の方が偉いんだから、頭は下げない方が、って……。すみません、勝手なことして」
「いや……それでいいんだ」
と、中山は言った。「今、見送る時になってハッとしてね。君にそのことを言っていなかったから。つい、うっかりしていたんだ。君もきっと僕らにならって頭を下げるだろうと思って……。いや、びっくりしたよ」
「じゃあ——良かったんですか、あれで?」
と、マリは面食らって訊《き》き返した。
「そうさ。君は大した女の子だ」
中山がポンとマリの肩を叩《たた》く。マリは、この仕事そのものの是非は別として、賞《ほ》められた嬉《うれ》しさに、ちょっと顔を赤らめた。
そして、
「ハクション」
と、派手にクシャミをしたのだった。
「やれやれ」
中山が、私室へ入って、息をついた。「くたびれたよ、全く! 突然やって来られたんじゃ、かなわない」
「偉い人は気《き》紛《まぐ》れだわ」
と、水科尚子が微《ほほ》笑《え》んで、「何か飲む?」
「ああ。ウイスキーを。水割りでいい」
中山はネクタイをむしり取るように外すと、水科尚子の後ろ姿を眺めた。
「でも、首相、ご機《き》嫌《げん》でお帰りだったじゃないの」
と、水科尚子は言って「私もいただいていい?」
「もちろん。酒なら不自由しないさ。何しろN社の会長がうちの信者だからね」
「じゃ、各社、とり揃《そろ》えたら?」
と、水科尚子は笑った。
「それも夢じゃない。いつか、そうなるさ。思ってるより、ずっと早くね」
「そうだと、いいけど。——はい、どうぞ」
「ああ……。君もここへ座れよ」
「私は立っていた方がいいの、体のためにもね」
「尚子……。君は——」
と言いかける中山に気付かないふりをして、水科尚子は、
「あの代役のマリって子、よくやってるじゃないの」
と言った。
「そうだろう? 僕の見る目は確かだ」
と言って、中山はちょっと笑った。「いや、あそこまでやるとは、こっちも思っていなかったがね」
「それに、とても真《ま》面《じ》目《め》そうな子。あの犬を連れてるところが変ってるけど」
「加奈子とよく似てるだろ? 充分に通用するよ」
中山は、真顔になった。「なあ、尚子……。君は——」
「いけないわ」
と、尚子は首を振った。「前にも言ったでしょ。申し訳ないけど、私、男の人には興味が持てない女なの」
中山は、少しオーバーにため息をついて、
「君みたいな女性がね! 全く、惜しいとしか言いようがない」
「お賞めの言葉と受け取っておくわ」
と、尚子は椅《い》子《す》の一つに腰をおろした。
「しかし……。今は恋《ヽ》人《ヽ》なしなんだろ?」
「二年も同《どう》棲《せい》してた女の子に逃げられて。——当分、男も女もいらないわ。仕事が大いに楽しいし」
と、尚子は言ってから、「——中山さん」
「何だ?」
「あのマリって子はだめよ。あの子は加奈子さんと見た目は似ていても、全然違うタイプの子よ。適当に遊べる相手じゃないわ」
「おいおい」
中山は苦笑して、「それじゃまるで僕が誰にでも手を出すプレイボーイみたいじゃないか。あんな子供に手を出すほど、飢えちゃいないぜ」
「でも、加奈子さんと——」
「加奈子の場合は、あっちから飛び込んで来たんだ。こっちはただの苛《いら》々《いら》解消機にすぎないんだよ」
「アメリカでは大丈夫なのかしら?」
中山は、グラスを空にすると、
「ちょっと不安な報告が入ってる」
「というと?」
「向うで探偵を雇って、加奈子を見張らせてるんだ。——どうやら向うでも、夜中にホテルを抜け出しちゃ、男を見付けてホテルへ引張って来てるらしい」
尚子は、ちょっと眉《まゆ》をひそめて、
「困ったわね。教祖は、TVでもインタビューを受けてるのよ。もしマスコミに見付かったら……」
「用心はしてるが、危険はある」
と、中山は肯《うなず》いた。「しかし、アメリカにでもやらないと、こっちもや《ヽ》り《ヽ》に《ヽ》く《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》しな」
「そりゃそうだけど」
と、尚子は手の中でグラスを揺らしながら、「うちの教団そのものに火がついたら、それこそ、計《ヽ》画《ヽ》どころじゃなくなるわ」
「考えてるさ」
中山は、立ち上ると、眠気を覚まそうとでもするように、頭を左右へかしげながら、ゆっくりと部屋の中を歩いた。
「加奈子は、厄介な存在になった。そう思わないか?」
と、中山は、足を止めて、言った。
「でも、どうしようもないでしょう。あの子が今は『教祖』なのよ」
と、尚子は言った。「それに、あの子だって可《か》哀《わい》そう。あの忙しさ! 少しは考えてあげなくちゃ」
「その代り、豪《ごう》華《か》な生活をさせてる」
「いくらいいベッドがあっても、寝る時間がなきゃ意味ないわ」
「それにあいつは満足してるさ。『教祖』って地位の魅《み》力《りよく》は、他の何ともかえがたいはずだ」
「私たちは芸能プロダクションでアイドルを育ててるわけじゃないのよ。本人が満足すれば、それでいい、ってものじゃないでしょう」
「いいとも。ともかく——」
と、中山は少しむきになって言いかけてから、「ともかく、彼女の管理は君に任せる」
「楽じゃないわ、この仕事は」
と、尚子はグラスをあけて、「ともかく、今夜はもう休むわ。——おやすみなさい」
と、ドアの方へ歩き出した。
「尚子」
と、中山が言った。
「何?」
「もし……あのマリって子がず《ヽ》っ《ヽ》と《ヽ》代役をつとめたとしたら?」
「ずっと?」
「そうだ。あの子がいつしか本《ヽ》当《ヽ》の《ヽ》教祖になるかもしれない。そうじゃないか?」
尚子は戸《と》惑《まど》って、
「本当の? じゃ、加奈子さんはどうなるの?」
「金で話がつくかもしれない。あの母親を憶《おぼ》えてるだろう」
「あの女ね? 本当に加奈子さんの母親かどうか……」
「本当だ」
と、中山は肯いた。
「じゃあ……」
「間違いなく母親さ。金には目がない。若いヒ《ヽ》モ《ヽ》もついている。まあ、あれじゃ諦《あきら》めやしないだろうな」
「どうするの、それじゃ」
「ますます、加奈子は厄介なことになるってことさ。やはり手を打たなきゃいけないかもしれない」
「でも——」
「あの母親は何でも金次第だ。ということは、こっちにとって、危険な存在にもなるし、逆に利用することもできる」
「利用……」
尚子は眉《まゆ》を寄せて、「どんな風に?」
「君も考えてくれ。俺《おれ》も考える。——じゃ、おやすみ」
中山はニヤリと笑って、言った。表では決して見せない顔だった。
尚子はただ微《ほほ》笑《え》んで見せただけで、ドアを開けて廊下へ出た。
後ろ手にドアを閉めると、ふと誰かがすぐそばにいるのに気付いて、飛び上るほどびっくりした。
「何だ……。あの子の犬ね?」
ポチが廊下に座っていたのだ。
「あんたたちの部屋はあっち。——あっちなのよ」
と、尚子は指さした。「あんたって何となく気味が悪いわね。人の話を聞いて分るみたいに見えるわよ」
ポチは、知らん顔で座っている。
「そういう態度も、何となくごまかしてるみたいで。——もちろん考えすぎでしょうけどね」
ポチは黙って尚子を見ているだけだった。
「——あ、すみません」
と、そこへマリがあわてた様子でやって来た。「こんな所にいたのね。勝手に歩き回っちゃだめって言ったのに。ほら、部屋へ戻《もど》りましょ」
マリに促されて、ポチは渋々歩き出したが……。
尚子はびっくりして、あわてて目をこすった。ポチが行きかけてチラッと振り向き、片目をつぶった——どう見てもウインクしたように見えたからである。
「まさか……」
と、尚子は呟《つぶや》いて、「疲れてるのね、きっと」
と、自分に納得させようとするかのように、言った。
そして、足早に、自分の私室の方へと歩いて行った……。
一方、マリはポチを部屋へ連れて戻って、
「——もう寝る時間よ」
と、言った。
「TVで見るもんがあるんだ」
と、ポチは言った。
「目が悪くなるわよ」
「悪魔は近眼にゃならないんだ」
「へえ。どうして?」
「メガネ屋がないからさ」
「あんたって、どこまで本気なの?」
と、マリは呆《あき》れ顔で言って、「いいわ。ともかく私はお風《ふ》呂《ろ》に入るから、TVでも何でも、好きにしてなさい」
「お前の入浴シーンを覗《のぞ》いててもいいか?」
「熱湯ぶっかけて、シャンプーにつけて、真白にしてやるからね」
と、マリは言ってやった。
バスルームに入り、しっかりドアを閉めてから、マリは服を脱いだ。
広々とした(というのが実感である)浴《よく》槽《そう》につかっていると、マリは少しウトウトしそうになる。いい気分だ。
そして、マリは、何だか今日はとてもすてきなことをしたような気がしていた。
代役として、ではあるが、一国の総理大臣に会い、そしてあくまで向うがこっちに敬意を払ってくれたのだ!
いや、もちろんマリは「偉い人」と会えたから感激した、っていうわけじゃない。むしろ、貧乏暮しをして歩いていると、世の中には、「忘れられた人たち」がどんなに沢山いるか、よく見える。そして、一体、政治をやってる人ってのは、どうしてこんなひどいことを放っとくんだろう、と腹の立つこともしょっちゅうだった。
だから、どっちかというと、総理大臣に会えて光栄なんて、ちっとも思わない方で、本当なら正面切って、色々文句でも言ってやりたいくらいだ。
ただ、マリの知っている「神」とは大分違うが、ここの中での「神」の前に、総理大臣みたいな、いつも「日本で一番偉い」ような顔をしている人でさえ、へりくだって、頭を下げる、ということ——そのことに、感激したのだ。
もちろん、私は神様じゃない。でも、みんなが何《ヽ》か《ヽ》形のないものに敬意を払う、っていうのは、意味のあることかもしれないわ……。
何をしゃべっていいのか、まるで教えてもらう暇がなかったけれど、その割にはうまくやったわ。首相も、目の前にいるのが、まさか「別人」だとは思いもしなかったようだ。
これはアルバイト。いつまでもやるもんじゃないのよ、と、マリは自分へ言い聞かせた。
そう。自分は人間世界の「研修」のために来ているのだ。
一つの場所に長く留《とど》まっていたら、ちっとも研修にならないのだから、決して長居はしない。——それが、マリの主義だった。
でも、ここでの「仕事」は、皿洗いとか、お掃除の手伝いとかに比べると、天使としての役割に合っている(?)ような気がする。
マリは、何だかしばらくここから離れられないような気がして来た……。
長《なが》風《ぶ》呂《ろ》だな、全く。
ポチは、マリの入っているバスルームの方をチラッと見ながら思った。TVはちょうどCMになっている。
おっ、俺《おれ》の好みのタレントが出てる! うん、あの足の白さが、何とも言えない!
ま、そんなことどうでもいいんだけど。
ポチは、中山の部屋で、中山とあの水科尚子って女が話しているのを、立ち聞きしたのだった。
この巨大教団。——もちろん、こんな凄《すご》い建物を建てちまうくらいだから、大変な金持なのは確かだ。
そして金のある所、必ず人間の欲ってやつが浮き出して来る。水の面に、汚《よご》れた油が浮くようにね。
あの話の中身から察しても、こいつには何か裏がある。汚《きた》なく、ドロドロしたものが、隠れている。
あの中山って奴《やつ》からして、うさんくさいじゃないか。マリも、全く甘ちゃんだよ、すぐコロッと騙《だま》されて(悪魔が天使のことを心配するのは妙なものだが)。
マリが、中山を信じて、この仕事を大《おお》真《ま》面《じ》目《め》にやってればやってるほど、裏切られたと知った時のショックは大きいだろう。
そう。——チャンスだ!
マリは、
「もう人間なんて信じられない!」
と、叫ぶかもしれない。
それまで、こっちは何もしないで、旨《うま》いもの食って寝てりゃいいのか。——こりゃ楽な仕事だぜ。
ポチはニヤリと笑った。
——バスルームからマリが出て来た。
「ああ、いいお風呂だった! あんたも入る?」
「遠《えん》慮《りよ》するよ」
「洗ったげようか? シャワーとシャンプーで。スッキリするわよ」
「いいよ、俺は」
「遠慮することないじゃない。——ほら」
「よせ!——おい、やめろってば!」
ポチは、マリにバスルームの方へ引きずって行かれ、「助けて! 犬殺し!」
と、悲鳴を上げたのだった……。