「みなさん!」
と、独特の甲高い声で、白い衣を着た男が、信者たちに呼びかけた。「みなさんは本当に運のいい方々です。——今、ちょうど教祖様がこの通路をお通りになります」
〈小集会場〉と呼んでいる、小さなホールぐらいの広さの部屋には、百人ほどの人が集まっていた。
どれも、全国各地から、この総本山に参りにやって来た信者たちだ。老若男女、あらゆるタイプの人々。
その小集会場の天井くらいの高さの所を、回廊が通っていて、ここを教祖が通る、というのだ。
集まった人たちはどよめき、中には興奮して、飛びはねている女性もいる。
「お静かに。決して教祖様の神経を乱さないようにして下さい。教祖様は、日々、厳しい精神の試練と闘っておいでです。どうか、そっと、静かにお迎えして下さい」
白い衣の男が、芝居がかった調子で言うと、「——おいでになります」
と、おごそかに続けた。
信者たちはごく自然にひざまずき、その通路の方を見上げた。
教祖が——もちろんマ《ヽ》リ《ヽ》だが——静かに進んで来る。
マリも、この歩き方、少し疲れを感じさせるように、うつ向き加減にしておく目の伏せ方など、大分自然にこなせるようになって来た。
そして進んで行くと、百人近い人たちが一《いつ》斉《せい》に自分の方を向いて拝む。——最初は何だかきまり悪かったし、照れくさかったが、今はマリの方まで胸が熱くなったりする。
中には感極まって涙を流している人さえいる……。善し悪《あ》しはともかく、マリはそういう気持の純《じゆん》粋《すい》なことは疑っていなかった。
ゆっくりと通り過ぎながら、できるだけ一人一人の顔に目をやって、微《ほほ》笑《え》んで見せる。
これも、ただニコニコとやってるだけじゃハンバーガーショップと同じになっちゃうので、「神秘的な」笑みでなくてはいけないのである。
突然「神秘的に笑え」なんて言われたってね。——一番苦労したのが、この「笑み」なのである。
——何だろう?
コトン、と音がして、何かが足下に飛んで来た。小石を紙でくるんである。
見ると、信者の中の一人、三十ぐらいかと思える男が、意味ありげにマリを見ていた。信者ではないらしい。
マリは素早くそれを拾い上げて、手の中に握った。
そして、軽く会《え》釈《しやく》をして、その〈小集会場〉を後にしたのだ。
まだ、このような集会場を、十箇所以上も回らなくてはならないのである。
「——ご苦労様」
と、途中の小部屋に待っていたのは、水科尚子だった。「疲れた? 少し休んだら?」
「いいですか? じゃ、ちょっと」
と、マリは息をついて、椅《い》子《す》にかけた。「歩くだけなのに、くたびれちゃって……」
「そりゃそうよ。一日中やってりゃくたびれるわ。——コーヒーでも飲む?」
「お願いします」
と、マリは言って、体を楽にした。「中山さんは、お出かけですか」
「ええ。教祖が明日アメリカから帰るでしょ。だから、成《なり》田《た》へお迎えに。ついでに東京で色々用事もあるからって」
——熱いコーヒーが来て、それをゆっくり味わうと、マリは疲れがとれて来た。
「おいしい!」
「もう少し休んでて。この先、どれくらい回るか、見て来るから」
と、水科尚子が出て行き、一人になると、マリはさっきの小石を取り出した。
包んである紙を開くと、走り書きの文字が書きつけてあった。
〈お父さんが具合悪いの。一目会って詫《わ》びたいって。ふもとの旅館で待っています。一度だけ、会ってやって。——母より〉
マリは戸《と》惑《まど》った。
母というのは、たぶんこの間の女だろう。父親は蒸発したとか、あの加東晃男が言ってたけど……。
マリは、あのラーメン屋で、最初にマリのことを、「加奈子」と呼んだ男を、思い出していた。
あれが、もしかしたら父親だったのだろうか? 大分薄《うす》汚《よご》れてはいたが、そんなに具合悪いようには見えなかった。
それに母親の方だって、この間があの調子で、突然こんな手紙をよこしても、信用されないだろうってことが、分らないんだろうか?
きっと、これは娘を呼び寄せるための作り話だろう。
そうは思っても……。完全に嘘《うそ》だと決めつけられないのが、天使の辛いところだ。もし、本当に父親が病気で娘に謝りたいと思っているんだったら、それを拒むのは、間違ってる……。
「でも、どうせ私の親じゃないのよね」
と、マリは呟《つぶや》いた。
中山にこれを渡して、その教祖様に伝えてもらおう。それが一番だ。
マリは手紙をたたんだ。すると、ドアが開いて——。当然、水科尚子だと思ったマリは、
「もう大丈夫ですから、行きます」
と、立ち上ったが……。
「どこに行くの?」
マリと全く同じ白い服を着た少女が、目の前に立っていた。
「あ……。加奈子さんですね」
本当だ、とマリは思った。よく似てるわ、私と。
「私はここの教祖よ!」
と、少女は叩《たた》きつけるように言った。
「あの……。私、マリです」
と、あわてて頭を下げて、「中山さんに雇われて、代役を——」
その少女は、ジロジロとマリを眺め回して、
「よく仕立てたもんね」
と、言った。
「アメリカに行ってらっしゃったんじゃないんですか? 中山さんがお迎えに——」
「帰って来たのよ、一日早くね。何かまずいことでも?」
「いえ、別に……」
マリは、どう見ても、相手が友好的な態度でないと知った。
「そううまくはいかないわよ」
と、少女は言った。「私を追い出して、身代りになろうったってね。こっちはお見通しよ」
「追い出すなんて——」
「ここの教祖はね、一《ヽ》人《ヽ》で沢山なのよ!」
と、少女は叫び声を浴びせた。「とっとと出て行きなさい! 裸にして放り出してやるからね!」
「あの——でも、中山さんが——」
「ここの教祖は私! 中山が何よ! あいつは、私の決めたことをやるだけの人間なのよ」
少女は、マリをにらんでいた。憎しみがこもっている。マリはゾッとした。
「さあ、どうするの? 自分で出ていくか、それとも叩き出されるか」
マリは、ゆっくり息を吐き出した。
「出て行きます。ただ——」
「お金は払うわよ。バイト料をね。それ以上よこせと言ったって、むだだからね」
「そんなんじゃありません!」
マリもさすがにムッとして、「これ。——あなたあてでしょ」
と、手紙を少女に押し付けると、
「失礼します」
と、部屋から駆け出して行ったのだった……。
「——何だよ。儚《はかな》い夢だったな」
と、ポチがぼやいた。「また放浪生活に逆戻《もど》りか」
「仕方ないでしょ。本《ヽ》物《ヽ》に出てけって言われりゃ」
マリは、肩をすくめた。
「だけど、一銭ももらわないで出て来るってのはないぜ。ちゃんと働いた分はもらって来いよ」
「そりゃあ……。確かに、私もカッとしてたから」
多少、マリも気がひける。「でも、あそこで豪《ごう》勢《せい》な暮し、させてもらったんじゃないの。あれだけだって、相当なお金よ」
「お前のお人《ひと》好《よ》しにゃ呆《あき》れるよ」
「仕方ないでしょ。人の悪い天使がいたんじゃ困るわ」
二人はバスに乗っていた。ガタゴト揺れるバスは、雪道をのろのろと、ほとんど歩くのと変らないスピードで下って行く。
「これから、どうするんだよ?」
と、ポチが言った。
バスがガラ空きなので、二《ヽ》人《ヽ》で《ヽ》話していても平気なのだ。
「そうねえ……」
と、マリも、突然のことだけに、考えあぐねている。
「——そうだ。いいことがある」
と、ポチが顔を上げた。
「何?」
「お前が教祖になって、新しく宗教を作ろうぜ。あんなに儲《もう》かるんだからな」
「馬鹿」
マリは、バスの窓から外を眺めた。
バスはやがて山のふもとへ下りて来た。
「——あの旅館だわ」
と、マリが言った。
「何が?」
「加奈子さんのお母さんの手紙にあった旅館よ」
「へえ。——まだいるのか?」
「そりゃそうでしょ。来てくれって手紙をよこしたぐらいだから」
「じゃ、訪ねてみようぜ」
「また、加奈子さんと間違えられるわよ」
「この格好を見りゃ、納得するさ」
「そう……かもね」
「ついでに、同情して、飯ぐらいおごってくれるかも」
「無理だと思うよ」
「——そうだな」
ポチも、あまり期待はしていないようだった。
「でも、いいわ。ともかく行ってみましょ。加奈子さんのことを聞きたいし、もし旅館に皿洗いのお仕事でもあれば……」
「ぐっと落ちるな」
「ぜいたく言わないの」
と、マリはポチの頭をポンと叩《たた》いた……。
——かなり、建物自体、年代ものの旅館である。
玄関へ入って行ったマリが、
「あの——どなたかいませんか」
と、声をかけたが、一向に返事がない。「すみません。誰か——」
「こんな時間は人手が少ないのさ」
と、男の声がした。「夕方来な。そうした方がいいと思うぜ」
と、やって来た男を見て、マリは、アッと声を上げた。
「あなた——手紙を投げた人ね」
「ええ?」
「あの本山で、小石をくるんだ手紙、投げたじゃないの」
男は面食らった様子で、
「どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「当然でしょ。あなた、私に向って投げたんだから」
男はキョトンとして、マリを見ていたが……やがて目をむいて、
「本当だ! お前——」
「じっくり話した方がいいみたい」
と、マリは言った。
「へえ!」
野口は、呆《あき》れ顔で、「じゃ、お前が、その教祖様の代りをやってたのか」
「野口さんっていうのね」
と、マリは言った。「加奈子さんのお母さんの——」
「まあ……恋人ってとこかな」
と、野口は立て膝《ひざ》をして、「金とか、情とか、色々絡んでるけど」
「あんまり人に賞《ほ》められたことはないんでしょうね」
マリの言葉に、野口は笑い出した。
「——はっきり言う奴《やつ》だな。ま、確かにその通りだけど」
マリは、野口が阿部ユリエと泊っている部屋へ上って来ていた。ポチは表で待たされることになって、文句を言っていたが……。
「あの手紙に書いてあったことは本当なの?」
と、マリは訊《き》いた。
「え? ああ——あれか。あれはユリエが書いたんだよ」
「じゃ、嘘《うそ》なのね」
「いや……。父親が一緒にいるのは、本当なんだ」
と、野口は言った。「ここでバッタリ会って。で、何とか娘に会おうってんで、あの手紙を俺《おれ》に——」
「じゃ、病気ってのはでたらめ?」
「病気とは書いてないだろ。『具合が悪い』ってだけで」
「同じじゃないの」
「いや、確かに、親父さんの方は金がなくて、懐の具合が悪かったんだ」
マリは呆れて、
「そんなのこじつけじゃない。——あれが加奈子さんだとしても、会っちゃくれないわよ、そんなことばっかりやってちゃ」
「しかし、会う、って言って来たぜ」
マリはびっくりした。
「何ですって?」
「今、出かけてるよ、二人で。あ《ヽ》そ《ヽ》こ《ヽ》から迎えの車が来て」
「待って。いつの話? だって、私、あの手紙をもらって、すぐにあそこを出されて来たのよ」
と、マリは言った。
「お前たちが来る……そうだな、五、六分前かな。この旅館の正面に、でかい車が着いてさ、ユリエとあの亭主を迎えに来たって。——ユリエの奴《やつ》、大喜びで、出かけて行ったぜ」
マリには意外な話だった。きっと加奈子はあんなもの、無視するだろう、と思っていたのだ。
手紙を見て、すぐに使いをよこしたことになるが……。そんなに、親の身を心配していたのだろうか。
「しかし、お前も大変だったんだな」
と、野口は言った。「どうだ、ユリエたちが帰って来るまで待ってちゃ。うまく金でもせしめて来たら、何かおごってくれるかもしれないぜ」
「私、そんなことを期待しないの」
と、マリは堂々と(?)言った。「ちゃんと皿洗いをして、お金を稼ぐわ」
「へえ。——お前いくつなんだ?」
「天使には年齢なんてないの」
「何だって?」
「別に」
と、マリはあわてて首を振ると、「いつまでも気を若くもつことにしてるのよ」
「へえ……」
野口はポカンとして、「じゃ——本当は、結構いってるんだ。もしかして、三十ぐらい?」
いくらなんでもマリにとって、これはショックな質問だった!