「今日は」
結城江美《ゆうきえみ》は、そっとドアを開けて、声をかけた。「あら——」
ポータブルの、ずいぶん古いTVが、つけっ放しになっている。元は[#「元は」に傍点]カラーだったのだろうが、今やほとんど色らしいものは見えなくなってしまっている。
そのTVを見ながら眠《ねむ》ってしまったらしい。中年の、髪《かみ》の少し白くなりかけた男が、作業服姿で、長椅子《ながいす》に横になったまま、いびきをかいていた。
江美は、ちょっと微笑《びしよう》して、その様子を眺《なが》めていた。——ここに来ると、ホッとするのだ。本当に。
どうしてなのか、自分でも良く分らなかったのだが。
男が、ふっと目を開いた。
「——何だ、江美ちゃんか」
池上浩三《いけがみこうぞう》は、笑って、「——おやおや、居眠りしちゃった」
と、欠伸《あくび》をした。
「ごめんなさい、お昼寝の邪魔《じやま》して」
「いや、寝てるわけにゃいかないんだ。駐車場《ちゆうしやじよう》の掃除《そうじ》をしなきゃいけないからね。——やれやれ」
起き上って、池上は頭をブルブルッと振《ふ》ると、「江美ちゃん、お昼休みかね」
「ええ」
いささか時代|遅《おく》れと評判の悪い事務服を着た結城江美は、紙包みをテーブルの上に置いて、「これ、ドラ焼き。一緒《いつしよ》に食べようかと思って」
「そりゃありがたい。甘《あま》いものが欲しかったところなんだよ。——座っててくれ。お茶をいれるよ」
「私、やるわよ。おじさん、座ってて」
「そうか。悪いね。じゃ、頼《たの》むよ。江美ちゃんのいれてくれたお茶はおいしい」
「そんなこと言ってくれるの、おじさんだけよ」
と、江美は笑った。
「湯はそのポットに。——少しぬるいかもしれないな」
「沸《わ》かすわ。まだ時間あるから」
江美は、小さな、汚《よご》れたガステーブルに、ヤカンをかけた。
——ここは、オフィスの雑居するビルの一階。管理人室である。
池上浩三は、ここの管理人。そろそろ五十に手が届《とど》く、という年齢《ねんれい》である。
髪が白くなりかけて、少し老《ふ》けて見えるが、まだまだしっかりした体つきの、優しい目をした男である。
このビルには、十以上の会社が同居しているので、管理人の仕事も、結構|忙《いそが》しい。しかし、その点、池上は実にこまめに動くし、手先も器用で、重宝《ちようほう》されていた。——独《ひと》り者で、気ままな身らしい。
女子社員たちは、特に、「おじさん」と呼んで、池上に優しかった。何となく、気楽に話せる雰囲気《ふんいき》があったのだ。
その点、江美も同様で、今日のように、お昼の時間に受付の当番をやった日は、たいてい池上の所で、おしゃべりして行く。昼休みが一時からになるので、一人でここに来られるからだった。
結城江美は二十二歳。このビルの三階にある貿易会社で、事務をやっている。短大を出ているので、今、OL二年生というところである。
「すぐに沸《わ》くわ」
と、江美は言った。
「——何か話があるんだね」
と、池上が言うと、江美はドキッとした。
「どうして?」
「そう訊《き》き返すのが、当りって証拠《しようこ》さ」
と、池上は言った。「どうしたんだね」
「うん……」
江美はお茶をいれた。「——そういえば、おじさん、風邪《かぜ》、どうしたの?」
「ああ、もう何ともない」
と池上は肯いて、「いつもの江美ちゃんなら、真先にそう訊いてくれるだろうからね。それを、何も言わないから、きっと何か悩《なや》みごとでもあって、相談しに来たのかな、と思ったんだよ」
「まあ」
と、江美は笑顔を作って、「おじさんって、まるでシャーロック・ホームズね」
ごまかしたものの、事実その通りなのだ。——時々、江美は池上の言葉にハッとさせられることがあった。
今は管理人で、のんびりとやっているが、以前は何をやっていた人なんだろう? 江美に限らず、会社の女の子たちは、たいてい一度は不思議に思うのだ。
しかし、池上は何も話さないし、正面切って訊《き》いたところで、適当にごまかされてしまうのがオチだ。江美も、あえて深く訊いてみたいとは思わなかった。
人間、誰《だれ》しも話したくない過去を持っているものである。
「彼氏《かれし》のことかい?」
と、またしても、池上はズバリと言い当てる。
「ええ、そうなの。でも、喧嘩《けんか》したとか、そんなんじゃないのよ」
「そうか。二人の気持がしっかりしてりゃ、何があったって、やっていけるさ」
池上は、熱いお茶をゆっくりとすすって、
「——旨《うま》い! やっぱり江美ちゃんのいれたお茶は旨いよ」
江美は少々照れくさかったが、それでも嬉《うれ》しかったし、気持が軽くなった。池上の言葉には、うつむいた人の顔を持ち上げる効果があるのだ。
「江美ちゃんの彼氏は、刑事《けいじ》さんだったっけね」
「そうなの。——でもね、全然向いてないの。当人もそう思ってるらしいんだけど」
「じゃ、仕事を変えれば?」
「そうもいかないの。彼のお父さんが、ベテランの刑事さんで、大きな事件をいくつも解決した人なんですって。で、息子《むすこ》も絶対に刑事になる、と小さいころから決めていて、彼も言われた通りに——」
「ほう。今どき珍《めずら》しい若者だね」
「だけど、亡くなったお母さんに似たらしくて、彼はだめなの。人がいいし、いやなことを、はっきりいやと言えない性格なんだから」
「今、いくつなんだい?」
「二十七|歳《さい》」
「二十七か。その年齢《ねんれい》で、まだ、自分に向かない仕事から脱《ぬ》け出せないんじゃ、困ったもんだね」
「一生|懸命《けんめい》、やってはいるのよ。でも——」
と、言いかけて、ため息をつくと、「ともかく、大失敗をやってしまったらしくて、今は謹慎中《きんしんちゆう》。お父さんもカンカンで、とてもじゃないけど、結婚《けつこん》のことなんて、口に出せる雰囲気《ふんいき》じゃないって」
「なるほどね」
と、池上は肯《うなず》いた。「それで、江美ちゃんとしては、やきもきしてるわけか」
「当然でしょ。そりゃ、私は二十二だし、まだ結婚を急ぐ年齢でもないわ。でも、彼は二十七で、もう私たち三年越しの付合いよ。あんまり落ち込《こ》んでばかりいる彼を見てると、こっちも苛々《いらいら》して来ちゃう」
プーッとふくれてから、江美は赤くなって、「ごめんなさい。おじさんにこんなこと話したって仕方ないのに」
「いやいや」
と、池上は真顔で首を振《ふ》った。「江美ちゃんの悩《なや》みは深刻さ。そりゃ、こんな年寄りから見りゃ、可愛《かわい》い悩みだと思えるがね。しかし、その当人にとっちゃ、人生の大問題だよ」
江美は思わず微笑《ほほえ》んで、
「おじさんの話、聞いてるだけで、何だか楽しくなるの」
と、言った。
「それで、俺《おれ》に何かしてくれっていうのかい?」
「うん……。迷惑《めいわく》だとは思ったんだけど」
「言ってごらんよ」
「特別のことじゃないの。ただ、私の彼に会ってほしくて」
「へえ。俺がその彼氏と見合いするのかい?」
「少し元気付けてやってほしいの。何しろ、シュンとなっちゃって、まるで死にそうなんだもの」
池上は笑って、
「江美ちゃんで元気にならないのに、俺が出てってもなあ。——まあいいよ。ともかく会うぐらいは構わないが」
「そう? 嬉《うれ》しい!」
と、江美は飛び上りそうにして、「じゃ、明日の夜でどうかしら?」
「いいとも。どうせ夜はヒマだからね」
「じゃ、何と言っても引張って来るわ」
と、江美はすっかり張り切っている。
「彼氏はどんな人だい?」
と、池上が言った。
「そうね……。目が二つ。鼻が一つで、口も一つ」
当り前だ。——江美は、
「そうだわ」
と、ポケットから定期入れを出して、「ここに写真がある」
「ほう。見せてくれよ」
「私、よくとれてないの」
と、言いながら、池上に写真を取り出して渡した。
どんな写真も、その女性から見れば、「よくとれていない」ものなのである。
池上は、どこか湖のほとりらしい所で、肩《かた》を寄せ合って、フレームにおさまっているカップルを眺《なが》めた。——江美の方は楽しさ一杯《いつぱい》に屈託《くつたく》なく笑っているが、男の方は、何だか照れくさそうにして、笑顔も引きつっている。
「——どう?」
池上が、長いこと黙《だま》っているので、江美はちょっと心配になって、訊《き》いた。
「うん」
池上は、ふと我に返った様子で、「いや——なかなかいい男じゃないか」
「そう? ちょっと頼《たよ》りないけど、そこがいいのよね」
何のことはない。のろけている。
「何というんだね。彼の名は?」
と、池上は訊いた。
「畑《はた》。一文字でね。畑|健吾《けんご》」
「畑か。畑健吾、ね」
池上は肯《うなず》いた。「——立派な名じゃないか」
「そうね。健康[#「健康」に傍点]なのは間違《まちが》いないわ」
と、江美は少し照れたように言って、写真をポケットへ戻《もど》した。
それから、ちょっと息をつくと、立ち止って、
「じゃ、私、行くわ。——明日、お昼休みの時に、時間と場所を」
「分った。楽しみにしてるよ」
「ごめんなさいね。お邪魔《じやま》して」
——結城江美が出て行って、池上は、しばらくぼんやりと古くなった長椅子《ながいす》に座っていたが、やがて急に立ち上ると、狭《せま》い管理人室の中をやたら早足で歩き回り始めた。不安に駆《か》り立てられてでもいるような、そんな様子だった。
ピタリ、と足を止めると、息を少し弾《はず》ませている。
その目は宙を見据《みす》えて、
「何てことだ」
という言葉が洩《も》れた。「何てことだ……」
「おい!」
玄関《げんかん》に出ようとした畑健吾の背中へ、ハンマーのような言葉が叩《たた》きつけられて来た。
「——お父さん」
と、健吾は振《ふ》り向いた。「もう起きたの?」
「当り前だ」
畑健吾の父、畑|健一郎《けんいちろう》は、たった今、目が覚めたばかりだったが、その目はいつもの鋭い光を放っていた。——五十二|歳《さい》。ベテラン刑事《けいじ》として、上司でも彼の言葉には従わざるを得ないことがある。
その代り、上の方の覚えはめでたくないので、出世とは一切無縁だった。当人も、負け惜《お》しみでなく、現場の緊張感が何より好きな男だったから、それを喜んでいたのである。
「まだスーパーの強盗《ごうとう》殺人犯は逮捕《たいほ》されていないんだ。ゆっくり寝《ね》ていられるか。——お前はどこへ行くんだ?」
「うん……。ちょっと」
父とは対照的に、ヒョロッと長身の健吾は、曖昧《あいまい》に言った。
「また女と会うのか? お前は謹慎中《きんしんちゆう》なんだぞ」
と、父親は言った。
「違《ちが》うよ! 僕は——僕に、重要な情報があるって連絡が入ったんだ。だから、それを聞いてみようと思って……」
「そうか」
父親は半信|半疑《はんぎ》の様子だったが、そこはいくらやかましくても、親である。肯《うなず》いて、
「じゃ、行って来い。——いいか。安く仕入れようと思うなよ。いいネタには金がかかるもんだ。だからこそ、向うも命がけで売ろうとするんだ」
「うん。分ってるよ」
「よし。本当かどうか、確かめもせずに買うなよ。いいか」
「分ってるよ」
と、畑健吾は、ため息をついて、「じゃ、行って来る」
——表に出ると、健吾は、やれやれと肩《かた》をすくめた。
いつまでもああだ。
「やり切れないよな、全く!」
と、呟《つぶや》いて歩き出す。
しかし、本当に[#「本当に」に傍点]やり切れないのは、父がガミガミ言うのも無理はない、と健吾自身が分っていたせいだったのかもしれない……。