「まだかしら」
結城江美は、レストランの入口の方を気にしていた。
「まだ、約束の時間に二、三分あるよ」
と畑健吾は腕時計《うでどけい》を見て、言った。
「そうね。——いつものくせで早く着いちゃったから」
江美はかなりせっかちな性格である。
その点、健吾は完全に江美に引張られる立場と言ってもいい。
「——お父さん、ここへあなたが来たの知ってるの?」
と、江美は言った。
「いや、何も言ってないよ」
と、健吾は首を振《ふ》って、「いちいち親父《おやじ》に断らなきゃ外出できないってことはないさ。もう二十七なんだから、僕《ぼく》は!」
つい、むき[#「むき」に傍点]になるところが、健吾の気の弱さなのである。江美にもそれはよく分っていたが、もちろん、それをあえてつつくほど馬鹿《ばか》でもない。
「私は良かったわ。父親なんてうるさいものがいなくて」
と、江美は冗談《じようだん》めかして言った。
江美の両親は、まだ江美がずいぶん小さいころに亡くなっていた。今は結城家の養女ということになっているが、これも名前ばかりで、実際には、高校生のころから、江美は一人で暮《くら》していたのである。
遠縁《とおえん》に当る結城家には、江美と同じ年齢《ねんれい》の娘がいて、とても一緒《いつしよ》に暮せるような仲《なか》ではなかった。一人で家を出て暮し始めた時には、本当にホッとしたものだ。
江美が年齢の割にしっかりしているのは、そんな生活をして来たせいもあっただろう。
「だけど——」
と、健吾は、少し不安そうに言った。「そのおっさんも、やたら怖《こわ》い人じゃないのかい?」
「心配しないで。本当にいい人なのよ。会ってるだけで心が落ちつくの」
「ふーん」
健吾は肯《うなず》いて、「僕と会っても、落ちつかない?」
江美は吹き出して、
「あなたと会うと、胸がときめくわ」
と、言った。
「僕もだよ」
健吾が、とたんにしまらない顔になる。——これがいけないのよね、と江美はため息をついた。
約束の時間を少し過ぎた。
江美は、時々、レストランの入口の方を見やりながら、こんな店にしたのは間違《まちが》いだったかしら、と思っていた。
もう少し気楽な所にした方が……。何といっても、池上さんはこんな場所、慣《な》れていないだろう。
江美としては、わざわざ出て来てもらうのだから、ごちそうでもしてあげなきゃ、という気持だったのだが。——このレストランも入るのは初めてで、ノーネクタイでは入れないのだと知って、心配だった。
おじさん、ネクタイなんか持ってないんじゃないかしら? ノーネクタイの客には、一応、店の方でネクタイを貸してくれるのだが……。
そんな窮屈《きゆうくつ》な格好は、あのおじさんにはふさわしくない……。
「いらっしゃいませ」
マネージャーの声で、江美はまた入口の方を見た。——違うわ。
渋い三つ揃《ぞろ》いの、いかにも気品のある紳士《しんし》が、入って来て、レストランの中を見回している。マネージャーが、そばへ行くと、何か二言三言、言葉を交わし、マネージャーはすぐにその紳士を案内して行った。いや——こっちへ[#「こっちへ」に傍点]来る。
他のテーブルと間違えているんだわ。よく似た名前の人が予約していて——。
「お待たせしたね」
マネージャーが引いた椅子《いす》に、その紳士[#「その紳士」に傍点]は腰《こし》をおろした。
江美は、しばらく口もきけなかった。
これが、あの管理人の「おじさん」? この紳士が?
「どうしたんだい」
と、その紳士が、「おじさん」の声で言った。
「おじさん……。ごめんなさい、あの——」
「遅《おく》れて悪かったね。ちょっと病院へ寄っていて手間取ったものだから」
と、池上は言った。「これが君のすてきな彼氏《かれし》だね」
「は、初めまして!」
すっかり、池上の貫禄《かんろく》に押されていた健吾は、あわてて背筋《せすじ》を伸《の》ばし、「畑健吾と申します!」
「ね、大きな声出さないで」
と、あわてて江美は言った。
そのおかげで、江美の方は我に返ったといったところ。——ともかく、池上の変身ぶりに、言葉も出ないほど驚《おどろ》いたのである。
「よろしく」
と、池上はおっとりと微笑《ほほえ》んで、「私は池上浩三。君のことは、江美ちゃんから、いつも聞いてるよ」
「は。恐縮《きようしゆく》です」
すっかり固くなっている。
「——お飲物のご注文は」
と、ウェイターがやって来ると、池上は、
「私は水でいい。メニューを」
「かしこまりました」
「——待たせてすまなかったね」
と、池上は江美に言った。
「いいえ……。でも——すごくすてき」
と、江美は言った。
「これはありがたい。馬子《まご》にも衣裳《いしよう》ってやつだね」
と、池上は笑った。
しかし、食事を始めると、池上がこういう店に慣《な》れているに違《ちが》いないということが、江美にもよく分った。ウェイターと交わす言葉や、マナーの一つ一つまで、いかにも自然で、しかもチャーミングと言ってもいいくらいの、洗練が感じられたのである。
江美は、何のためにここへ来たのか、しばし忘れそうになった。
——メインの食事がすんで、デザートのオーダーを終えると、池上が言った。
「ところで、畑君は父子《おやこ》二代の刑事《けいじ》さんだそうだね」
「ええ。——そうなんです」
と、健吾は言った。
大分、ほぐれて来ているのは、ワインの力も加わってのことらしい。
「お父さんは畑健一郎さんだったかな」
「そうです。ご存知なんですか?」
「いや。しかし、警察関係に知り合いがいてね。その名前を聞いたことがあるよ」
と、池上は言った。「今も元気で?」
「ええ。若い刑事がへばっても平気で頑張《がんば》ってます」
「それは大したもんだ」
と、池上は笑った。「で、君にも当然、自分の後を継《つ》いでもらいたい、と」
「そうなんです。ところが——僕は、何をやってもだめで」
と、健吾がため息をつく。
「とんでもない。君はこんなすてきな娘さんを恋人《こいびと》にしているじゃないか」
「ええ……。そりゃそうですが」
「じゃ、少なくとも恋にかけては、立派な成果を上げたわけだ」
「まあ——そうかもしれません」
健吾は、目をパチクリさせた。
「それで、何か失敗をやらかした、とか聞いたが」
「そうなんです。お話しするのも恥《は》ずかしいんですが」
と、健吾は咳払《せきばら》いして、「僕は、強盗《ごうとう》殺人犯の愛人のアパートを見張っていました。逃走中の犯人が、必ずいつかそこへ現われる、と分ってたんです」
「危い仕事だね」
「でも、張り切ってました。——もちろん、下手《へた》をすれば命にかかわる仕事ですが」
「一人ではなかったんだろう?」
「相棒は、ベテランの先輩《せんぱい》で、二人して三日間、交替《こうたい》で仮眠《かみん》しながら、車の中で頑張《がんば》っていたんです」
「ふむ。それで?」
「三日目の夕方です。——相棒は、食事に行きました。ほんの十分くらいで戻《もど》るんですが、もちろん交替で、アパートからは目を離しません。僕は一人で残って、車から見張っていたんです。すると——」
「すると?」
「女の子が……。七つか八つぐらいの女の子です。補助つきの自転車でコトコトやって来ると、すぐ目の前で、引っくり返ってしまったんです。——もちろん、女の子は泣き出すし……」
健吾は両手を広げて、「膝《ひざ》をすりむいて血が出ています。——困ってしまいました。車から出て、例の愛人の目に止ったら、刑事と知れてしまうでしょう。でも、女の子は泣き続けて、しかも具合の悪いことに、誰《だれ》も通りかからないんです」
「なるほど」
と池上は肯《うなず》いた。
「その時——笑われそうですが——僕は小さいころのことを思い出してたんです」
「どんなことかね?」
「同じように、自転車で転んだ時のことです。僕は不器用で、自転車にもなかなか乗れなくて、よく転びました。そして——父は、僕が転んで、膝《ひざ》から血を出して泣いていても、決して抱《だ》き起こしたりしてくれませんでした。もちろん、それはそれで、父の愛情だったんでしょうが……」
健吾は、ちょっと肩《かた》をすくめて、「しかし、そんなことが理解できるようになるのは、ずっとずっと後のことです。長いこと、僕は、父に嫌《きら》われていると思い込んで、寂《さび》しい思いをしたものでした……」
「分るよ」
「その女の子を見て、ふっと、昔の自分を思い出してたんです。その子も、僕が車の中から自分を見ているのを知っている。でも、車から出て、声もかけてくれない。——大人《おとな》って、何てひどいんだろう、と。きっとその子は、それを長いこと忘れないだろう、と……。そう思うとじっとしていられなくて、僕は車を出て、女の子に駆《か》け寄っていたんです」
「それは間違《まちが》ってないと思うわ」
と、江美が言った。「運が悪かっただけよ」
「しかしね……。ともかく、僕はその子の膝《ひざ》にハンカチを巻いてやり、家はどこなのか訊《き》きました。女の子が『その向う』と、指さして——てっきり、僕はすぐそこだと思ったんです。女の子をおぶって、自転車を片手で引いて……。何と、女の子の家は、そこから十分も歩いた所だったんです」
健吾は首を振《ふ》って、「途中で、どうしようかと青くなりました。でも、まさかそこで女の子を放《ほう》り出してしまうわけにもいきません。もう少し、もう少し、のくり返しで、とうとう十分も歩かされてしまったわけです」
「それで急いで戻《もど》ったんだね」
「相棒が当然、食事から戻ってるはずです。どう言いわけしようかと思いながら、駆けつけると——。車も相棒も見当りません。僕は、てっきり、相棒が、犯人を追跡《ついせき》したんだと思って、あわてて本部へ電話を入れました。すると……」
「すると——?」
「何とも……。相棒が戻った時、もう車はなかったんです。つまり、僕がいなくなって、車だけが置いてあった間に、犯人がそのアパートへやって来て、警察の車を盗《ぬす》んで逃げちまったんです」
「なるほど。戻って来た相棒の方は、てっきり君が——」
「ええ。僕が車で犯人を追跡していると思って……。何とも、言いわけのしようがない話です」
——コーヒーが来た。
池上は、ゆっくりとブラックでコーヒーを飲んだ。
「確かにね」
と、言った。「君の仲間からみれば、君の失敗は、まあちょっと前例のないものかもしれないね」
「後例[#「後例」に傍点]もないと思いますね」
池上は、ちょっと笑って、
「しかしね、君。刑事《けいじ》というのは、犯人を捕まえることだけが目的じゃないよ。むしろそれは手段[#「手段」に傍点]だ。——分るかい? 警官の仕事は、犯罪から、市民を守ることだ。それが目的[#「目的」に傍点]だ。そこを間違えている警官が多いのは残念だがね」
健吾は、戸惑《とまど》ったように池上を見た。
「君は、ちゃんと分ってるんだ。自分のしたことの意味をね。さっき、自分自身で説明したじゃないか」
「僕が……ですか」
「そう、君はその女の子が、人を信用しなくなるかもしれなかったのを、救ったんだ。その意味では、君は立派に役目を果したんだよ」
「はあ……」
健吾は、分ったような分らないような顔で肯《うなず》いた。
「ね、元気出してよ」
と、江美が、健吾の腕《うで》をつかんで、言った。「お父さんだって、そういつまでも怒《おこ》っちゃいないわ」
「どうかな」
と、健吾は絶望的な表情になり、「親父《おやじ》に僕のことを見直させるのは、容易なことじゃないよ」
と、首を振《ふ》った。
「そう難しくもないと思うがね」
と、池上が言ったので、健吾と江美は面食らった様子。
「——おじさん、何かいい方法がある?」
と、江美は身を乗り出した。
「まあね」
と、池上は肯いた。「名の知れた、有名な泥棒《どろぼう》でも捕《つか》まえてみせれば、君のお父さんも君にかぶと[#「かぶと」に傍点]を脱《ぬ》ぐさ」
健吾と江美は、またまた呆然《ぼうぜん》として、池上を見たのだった。