「江美さん、電話よ」
お使いから戻《もど》った江美が席につくと、すぐに向いの席の同僚《どうりよう》が、受話器を差し出した。
「あ、ごめんなさい」
「男性からよ」
「あら。どの人かしら? 何しろ多すぎてね」
江美はそう言って笑った。「——もしもし、お待たせしました。結城です」
「やあ。江美ちゃんか」
「おじさん!」
江美はふっと息をついて、「——どうしたの? 心配してたのよ」
「そうか、悪かったね」
「当り前でしょ。だって急にいなくなって、連絡もないっていうし……」
あのレストランで、畑健吾も交えて三人で会ってから、一週間たつ。あの翌日、江美は池上が急に管理人を辞めてしまったことを聞いたのである。
もちろん、自分のことと関係があるわけではなかったろうが、しかし、江美には気になっていた。あまりに突然のことだ。
「いや、ごめんごめん」
池上は、いつもののんびりした調子に戻《もど》っていた。「急に用事ができてね。一日や二日じゃ片付きそうもないし、長い休みを取るのは、どっちにしろ難しいと思ったから、すっぱり辞めちまったのさ」
「私——気になってたの」
江美は、向いの席の女の子が、コピー室へと立って行くのを見て、少し声を低くすると、「この間のこと……。あのレストランで、私、びっくりしちゃって、気が付かなかったのよ」
「何のことだね」
「ほら、おじさん、あの時、『病院へ寄って手間取って』って言ったじゃない。どこか悪かったのかな、って思って。——あの時には全然気が付かなかったの。ごめんなさいね」
「何だ、江美ちゃんも気を使いすぎるよ」
と、池上は笑って、「いつも、月に一回、血圧とか色々みてもらいに行くのさ。あの日がちょうどそれでね。いつもより混《こ》んでて手間取ったんだ。それだけだよ」
「そう。それならいいんだけど……」
「心配性だね。あの健吾君のことを心配してやりなさい」
「おじさんたら——」
江美は、少し頬《ほお》を赤らめた。「でも、びっくりした。おじさん、前は何をしていた人なの?」
「俺《おれ》かい? 俺はね——」
と、池上は声をひそめて、「前は有名な大|泥棒《どろぼう》だったのさ」
江美は吹き出してしまった。
「おじさんが言うと、何となく本当みたいに聞こえるわ」
「そうかな」
と、池上は笑って、「ともかく、君の彼氏《かれし》に、元気出せと伝えといてくれ」
「ありがとう。ね、おじさん、今どこから電話してるの?」
「うん、出先からね。——俺も、あの彼氏のために多少は役に立てると思うよ」
「ありがとう。でも、無理しないで」
「いやいや、江美ちゃんのためならね」
「まあ、お上手《じようず》ね」
——江美は、電話で話しているだけで、心が和むのを感じた。不思議な人だ。本当に……。
「で、健吾君の謹慎《きんしん》はとけたのかい?」
「いいえ」
と、江美は、ちょっとため息をついた。「クビになるかどうか、ってところらしいわ」
「おやおや、そりゃひどいね」
「でも、それでもいいの。却《かえ》って、あの人に合った他の仕事を見付けるかもしれないわ。あの人のためにはプラスになるかも」
「本人がそう思えば、問題ないがね」
「そうなのよ」
と、江美は、またため息。「本人、ひたすら、落ち込《こ》んでるから。——もう、どうにもなんないわ」
「希望は捨てないことさ」
と、池上は言って、「おっと、長話になっちまうね。仕事中に、すまない」
「いいえ。良かったわ、声が聞けて。ねえ、おじさん」
「何だね?」
「もう——この会社へ来ることないの?」
「たぶんね」
「そう……」
お別れするのなら、ちゃんとさよならを言いたかったのに。——江美は、寂《さび》しい気がした。
「しかし、また会うことはあると思うよ」
「そう?」
「意外と近い内にね。じゃ」
「おじさん——」
江美は、電話が切れてしまったことに気付いた。
意外と近い内に? どういうことなのかしら? 江美は戸惑《とまど》っていた。
「ねえ」
と、向いの席に戻って来ていた同僚《どうりよう》の女の子が、「『おじさん』って、どういうおじさんなの? 毎月お手当もらって遊んであげてるとか?」
「ええ。元大|泥棒《どろぼう》の大金持なのよ」
と、江美は言ってやった。
「何てすばらしいのかしら、労働って!」
満員電車に揺《ゆ》られているサラリーマンが聞いたらムッとするようなことを、声高らかに言っているのは、マリである。「働く喜び! この汗《あせ》の快さ!」
「ミュージカルじゃねえんだぞ」
と、ポチがうんざりしたように言った。「歌うな」
「歌ってなんかいないでしょ」
「そうか。お前、天使のくせに音痴《おんち》だからな。歌っててもしゃべってても、あんまり変りがないぜ」
「大きなお世話よ」
マリは細川加津子の屋敷《やしき》の門を開けて、その表の道をはいていた。——ここに住み込《こ》んで、掃除《そうじ》や買物、雑用をするのも大分|慣《な》れて来た。
「天使って、やっぱり人間に奉仕するようにできてんのよね」
「悪魔《あくま》はな、さぼるようにできてるんだ」
「どうせ何もしないんだから、いいでしょ」
「腹は減《へ》るぜ」
「もう、食べることばっかり! 働かざる者、食うべからずよ」
マリは、腕時計《うでどけい》を見て、「十一時半。あと三十分すりゃお昼よ」
「俺《おれ》の腹時計じゃ十二時半だい」
と、ポチが言い返した。
「ほら、どいてどいて。水をまくわよ。濡《ぬ》れたって知らないからね!——よいしょ」
あ、いけない、と思った時は、もう手が止らなかった。——ちょうど通りかかった男のズボンの裾《すそ》を濡《ぬ》らしてしまったのだ。
「あ、ごめんなさい——」
と、顔を上げると……。
「なかなか可愛《かわい》い顔してんじゃねえか」
サングラス、白いスーツ。どう見たってヤクザである。
「あ、あの——すみません。冷たいですか? ドライヤー持って来ましょうか」
と、マリは焦《あせ》って言った。
いかに天使は人間の良心を信じているからといって、その真心が即座《そくざ》に通じるかどうかは別問題である。ヤクザは怖《こわ》い、ということぐらい、マリだって知っていた。
「謝《あやま》りたいのかい?」
と、ヤクザは、ニヤニヤ笑いながら、「それなら、そこに俺の車があるからさ。ちょっとホテルまで付合ってもらえば、それでいいんだよ」
「あ——いえ、あの、私、仕事中ですからして——」
「すると——」
ガラッと口調が変って、「詫《わ》びる気はねえんだな!」
「そ、そうじゃないんですけど」
「だったら、ホテルのベッドでゆっくり詫びてもらおうじゃねえか」
「でも——その——まだ昼間ですし」
「夜まで可愛がってやるぜ」
「その——あの——」
ちょっと! あんた、ワンとか吠《ほ》えるぐらいのことしなさいよ!
と、マリがポチの方を見ると——ポチはいつの間にやら門の中へ入ってしまって、こっそりこっちを覗《のぞ》いている。
全く、頼《たよ》りになんない奴《やつ》!
「おとなしくついて来りゃ、痛い思いをしなくて済むぜ」
ぐっと腕をつかまれて、マリは顔をしかめた。——天使ったって、普通の女の子である。パッと翼《つばさ》が生えて飛んで行くとか、煙《けむり》になって消えちゃうとか、そんな超能力《ちようのうりよく》は持っていない。
「もう痛いです」
「もっと痛くしてほしいか?」
「いえ、別に——」
「じゃ、素直に言うことを聞きな」
「分ったから、放して」
「分ったのか? おとなしくついて来るのか?」
「ええ。でも、このほうき[#「ほうき」に傍点]を片付けないと」
と、マリは文句を言った。「そうしないと、職場放棄[#「放棄」に傍点]になりますから」
こんな時に駄洒落《だじやれ》を言っていられるのも大したものだ。
「そんなもん、放り込《こ》んどけ」
「分りました」
マリは、ヤクザが手を放してくれたので、ほうきとチリ取りを、門の方へ持って行った。そして——エイッ、と振《ふ》り向きざま、ヤクザに向って投げつけた。
ほうきとチリ取りはみごとに——外れて、まるで関係ない方向へ飛んで行った。
「ほう。面白《おもしろ》い片付け方をするんだな」
「そ、そうですね……」
マリは、駆《か》け出そうとした。屋敷《やしき》の玄関《げんかん》まで突っ走って中へ入っちまえばこっちのもんだ!
サンダルばきで走る、というのは、かなり難しいことを、マリは研究していなかった。駆け出したとたんに、ドテッとこけてしまったのである。
「一人で何やってんだ?」
と、ヤクザが笑って、「ほれ。スカートがまくれてるぜ」
と、靴《くつ》の先でマリの太腿《ふともも》をくすぐった。
「何すんのよ!」
マリは喚《わめ》いた。神も仏もないのかしら。
天使にしちゃ、妙な発想だ。
すると——石が一つ、飛んで来て、コツンと、ヤクザの頭の後ろの辺りに当った。いい音がした。きっと中が大分空いているのに違《ちが》いない。
「誰《だれ》だ?」
ヤクザが振り向くと、何となくパッとしない中年の男が、歩いて来る。荷物の配達でもしているようなジャンパー姿。
「や、失礼。ちょっと石をけったら、そっちへ飛んで行ってね」
とその男は言った。
「ふざけやがって——」
ヤクザがその男の胸ぐらをつかむと——何がどうなったのか、マリにはさっぱり分らなかった。
二、三秒ののちには、ヤクザがヘナヘナと地面に座り込んだ。それから大の字になって引っくり返ってしまったのだ。
「——大丈夫《だいじようぶ》かい?」
と、その男がマリの手を取って立たせた。「こんなのは、大した奴《やつ》じゃない。そう怖《こわ》がることもないよ」
「はあ……。どうも、ありがとうございました」
マリは、ポカンとして、「あの——」
「すばらしい屋敷だねえ」
と、男は、門から奥《おく》を見ながら、感心している様子だった。
「私のじゃないんです」
と、マリは、ごく当り前のことを言った。
「中へ入って門を閉めた方がいいよ」
と、男は言った。「このヤクザが息を吹《ふ》き返すとまずいだろ」
「あ、そうですね」
マリは、あわてて、ほうきとチリ取りを取って来た。「あの——お茶でもいかがですか?」
「いいの?」
「ええ。みんな留守で。どうぞ中へ」
「すまないね。ちょうど喉《のど》が渇《かわ》いてたんだよ」
マリは、男を中へ入れて、門を閉めた。
ヤクザが、呻《うめ》きながら、起き上りかけていた。
「——この役たたず」
と、マリは、ポチをにらんで、言ってやった。
「俺《おれ》はボディガードじゃねえぞ」
「番犬でしょ」
「お前があいつに水をひっかけたんじゃないか。この家の番犬としては、そこまで面倒《めんどう》みられねえよ」
「ちゃんと食べるものをやってるじゃないのよ」
「それより、お前、勝手に他人を入れていいのか?」
「恩人《おんじん》よ。それぐらいしなきゃ」
「フン、叱《しか》られたって知らねえぞ」
と、ポチは鼻を鳴らした……。
ところで——ポチも、大分|抜《ぬ》けたところはあるにせよ、一応、悪魔《あくま》の一人(?)である。悪いことには敏感に反応するのだ。
そして、今、マリが案内しているこの男——見たところはごく普通の職人風だが、その身辺には、どこかただならぬ雰囲気《ふんいんき》が漂《ただよ》っているのを、ポチは感じとった。
「——へえ、立派な屋敷だねえ」
と、言いながら、男の目は塀《へい》の上に設置された赤外線の防犯装置とか、窓と、下の庭との位置関係とかを、素早く見ていた。
——こりゃ面白くなりそうだ。
ポチは、マリとその男の後からついて歩きながら、内心ひそかにほくそ笑んでいたのである……。