マリは目を覚ました。
天使が夜ふかしかどうかは、色々議論のあるところだろうが、少なくともマリは、人間界へやって来てから、地上の他の女の子たち同様、結構夜ふかしの習慣になってしまっていた。
だから、この細川家のメイドルームでも、床につくのは大体夜中の十二時過ぎ。——今どき十二時なんて、高校生なんか一番の「遊び時」かもしれないが。
もっとも、マリは一応ここで働いているわけで、朝は七時に起きることになっていたから、一時ごろには必ず寝《ね》るようにしていた。
同室に寝泊《ねとま》りしていた、もう一人のメイドは、この三日ほど休みを取っている。——もう一人、ベテランのメイド、大山和代《おおやまかずよ》がいて、もう五十代の半ば。
マリたちは、すべて大山和代の命令で動くのである。——和代は、通いなので、夜八時に帰って行く。
従って今夜は、この広い屋敷《やしき》にマリ一人というわけだった。——主人の細川加津子はアメリカへ行っていて、明日にならないと戻《もど》らない。
そうそう。マリの他にもう一人——いや、一匹、ポチがいた。
庭に、中古の(?)犬小屋をもらって、少々不服そうながらも、そこで眠《ねむ》っている。
しかしマリは、少しも心細いとか思ってはいなかった。何といっても、この屋敷は最新の防犯設備が取り入れてあるのだから。
一度なんか、マリがはたきをかけていて、ついうっかり赤外線の装置に引っかけたことがある。五分としない内にサイレン鳴らしてパトカーが三台|駆《か》けつけて来たし、私服の刑事《けいじ》に消防車まで(どうしてなのか、マリは首をかしげたが)来て、マリは目を丸くしたのだった。
だから……。そう、夜だって、安心して眠っていていいわけなのである。
「どうして目が覚めたんだろ」
と、マリは呟《つぶや》いた。
今日は別に昼寝したわけでもないし、のんびりしていたわけでもない。むしろ、一人休んでいるので、細かい仕事が全部マリへ回って来て、かなり忙《いそが》しかったのだ。
それなのに、こんな風に夜中に目が覚めるなんて……。しかも、寝入って一時間。普通なら、一番眠りの深い時間である。
マリは、ともかくベッドに起き上って、しばらく耳を澄《す》ましていた。——何も聞こえない。
パジャマ姿でベッドから出ると、マリは、スリッパをはいて、メイドルームのドアを開けた。
ヒヤッと空気が冷たい。——マリは思い当った。どことなく、冷たい風が吹いて来たのだ。
それで目が覚めたのである。
晩秋という季節柄、夜風は冷たいものがあった。しかし、風がなぜ、こんな所へ流れ込《こ》んで来るのだろう?
その廊下《ろうか》を突き当りまで行くと、常夜灯《じようやとう》のほの白い光の下に、庭へ出るドアがある。
チェーンも鍵《かぎ》もしっかりかかっている。
少しためらってから、マリはそのドアを開けてみることにした。そのすぐ外に、ポチがいるからである。
「——ちょっと。ポチ」
と、マリは低い声で呼んだ。「——ポチ。起きてよ」
犬小屋の中で、ポチは仰向《あおむ》けになって、人間みたいにガーガーいびきをかいて寝ていた。
「番犬になんないでしょ、それじゃ!」
マリは頭に来て、よほどけっとばしてやろうかと思ったが、まあ、そこは何とか思い止《とど》まった。やはり天使というのは人がいい(?)のである。
「おお寒い」
パジャマ姿で外へ出りゃ、寒いのも当然である。マリは、中へ入って、鍵とチェーンをちゃんとかけた。
「喉渇《のどかわ》いたわ……」
台所へ行って、何か飲もう。——こんな時には、大きい屋敷というのはいい。大体、どんな飲物でも、常時|揃《そろ》っているからだ。
ま、その内の一つや二つ、いただいても、分りゃしない。
マリとしては、やはり天使という立場上あんまりそういうことをしてはいけないのであるが、人間の世界に生きている以上、やはり多少の妥協《だきよう》はしなくては……。
冷蔵庫のジュースを飲むのに、あれこれ理屈《りくつ》をつけるまでのこともないが、マリも多少は気がとがめているのである。
「だけど……。あの人も忙《いそが》しいことね」
と、マリは、冷たいジュースを飲みながら、台所の椅子《いす》に腰《こし》をおろして、呟《つぶや》いた。
しばらくここにいる内に——というより、一緒《いつしよ》のメイドルームで寝るようになったとたんに——もう一人のメイドから聞いたのだが……。細川加津子は四十二|歳《さい》で、独身《どくしん》。何しろ大きな会社の社長で、世界中飛び回るビジネスマンで、ともかくエネルギッシュである。
その類《たぐい》の人間に多いように、細川加津子も「恋《こい》多き女」で、年中若い男と恋をしているとか。今度のアメリカ行きも、もちろんビジネスだが、一人ではない。一緒に行くのは、いつも秘書の市川和也。けれど今回は、もう一人、若い男がついているのだという。
加津子がどこだかのプールで出会った男らしい。タダでアメリカ旅行をさせてもらえて、思い切りぜいたくができて……。
それに加津子は確かに、若いとは言えなくても、充分《じゆうぶん》に女としての魅力《みりよく》を具《そな》えている。
「どうせ長続きはしないんだけどね」
と、仲間のメイドは言って笑った。
「あの市川さんって秘書の人は?」
と、マリは訊《き》いてみた。
「あれはだめ」
「だめ?」
「あの人、男にしか興味ないの」
「へえ」
マリは、面食らったものだ。
加津子自身は、遊ぶという感覚でなく、その都度、結構本気になるらしい。
「失恋《しつれん》して、そこから立ち直るために、夢中《むちゆう》で働くのよ」
と、仲間のメイドは、恋愛心理の説明をしてくれた。「だから私なんか見なさい。失恋なんか絶対しないから、働きもしないでしょ」
このメイド、太《ふと》った、面白い女の子なのだ。
その説明によると、細川加津子が、今なお「恋《こい》の巡礼《じゆんれい》」の旅を続けているのは(この言い方が気に入っているらしい)、若いころ、熱烈《ねつれつ》な恋をして破れたのが、いまだに燃え残った火となってくすぶっているからだ、ということになる。
若いころの恋《こい》のことは、まあ事実だったらしいが、マリなど、そんなに何十年も恋が続くことってあるのかしら、と首をかしげている。
人間を信じないわけじゃないとしても、そういつまでも忘れずにいたら、人間なんて生きていけないんじゃないかしら、と思っているのである。——忘れる、ってことは、ある意味では、大切なことなのだ……。
その音[#「その音」に傍点]に気付いてから、マリが、ハッと息を呑《の》むまで、多少の時間が必要だった。
足音……。頭の上で、はっきり、足音が聞こえたのだ。
ぼんやりとジュースを飲んでいたので、ああ、加津子さんが歩いてるんだな、と思っただけだった。
そんなはずがないこと——今、この屋敷《やしき》には、自分一人しかいないということを、思い出すまでに、少し間があった。
マリは、半ば飲みかけたコップをテーブルに置いた。——空耳かしら?
そうであってほしい、と願ったが、すぐにまた、足音が耳に入って来た。
誰《だれ》だろう?——加津子さんが早く帰って来たのか。それとも、市川さんか……。
市川さんもここの鍵《かぎ》を持っているが、加津子さんについて行っているはずだ。
マリは、台所を出た。
廊下《ろうか》は、いくつか小さな明りが灯《とも》っているので、歩くのには困らない。階段の下まで来て、そっと二階の方を見上げると、どこかの部屋の明りが点《つ》いているのが分った。
誰かいる。——どうしよう?
マリは、一一〇番しようかと思ったが、もし加津子さんが帰っているのだったら、と思うと、ためらってしまうのだった。
ともかく……。当って砕《くだ》けろ!
天使にしては少々|無鉄砲《むてつぽう》なマリは、階段を上って行った。
二階へ上ると、廊下に光が射しているのは、加津子の寝室《しんしつ》の明りだと分る。ドアが開いたままだ。
やはりおかしい。——もし加津子さんが帰られたのなら、あちこち明りが点けてあるはずだわ。
マリは、廊下に置かれた大きな壺《つぼ》に目を止めると、両手でしっかりと持った。
いざとなったら、これでぶん殴《なぐ》ってやろう、というわけである。
もっとも、この壺が壊れたら、その方が、よほど被害としては大きいかもしれない。
寝室の中を、恐る恐る覗《のぞ》き込んで、マリは目をみはった。部屋着やらスーツ、ドレス、毛皮の類《たぐい》まで、床中《ゆかじゆう》に投げ出してある。
これ片付けるの、大仕事だわ、などとつい考えていると——。
「やあ」
と、突然声がして、マリは飛び上った。
いつの間にか、すぐ後ろに男が立っていたのだ。
「動くなよ。——その重そうな壺を、そっと下へ置いて」
拳銃《けんじゆう》を突きつけられて、マリは仕方なく、言われた通りにした。
何となく、怖《こわ》いという実感が湧《わ》かない。映画の一場面みたいである。
「中へ入れ」
マリは、明るい寝室の中へ入った。——びっくりするほど大きなベッドが置いてある。
「あの——お金なんかないわよ」
と、マリは言った。
「そうだろうな」
男が、マリに続いて入って来た。——マリは、冗談《じようだん》かしら、これ、と思った。
男は、たった今、パーティから脱《ぬ》け出して来た、というような、タキシード姿だった。蝶《ちよう》ネクタイ、真白なシャツ。銀色のカフスボタン。
「その節は、お茶をありがとう」
と、男が言った。
マリは、唖然《あぜん》とした。——ヤクザから助けてくれた、あのパッとしない男だ。
まるで見違《みちが》えるように、フォーマルなスタイルがぴったり合っている。ただ——その手に小型の拳銃があるということだけが、「普通でない」ことだった。
「あの……」
「君が色々教えてくれたんでね。入るのも簡単だったよ」
「私が?」
「ああ。いつも君がどこで寝《ね》るとか、出入口はどことどことか、ここの主人がいつからアメリカへ出かけるとか」
そんなこと、しゃべっただろうか?
マリは、全く憶《おぼ》えていなかった。
「あなた——泥棒《どろぼう》だったの?」
「そう。君は知らんだろうが、キャリアは長いんだよ」
男は、いとものんびりした口調で言った。
「まさか……。でも、ここ、防犯装置が——」
「そんなもの、本当のプロには役に立たないよ」
と、男は笑った。
「あの……。乱暴なことしないで。何か持って行くのなら——」
「値打のあるものはないな」
と、男は首を振《ふ》った。「現金は、こんな家にはほとんど置かないし」
「そうよ。こんな家の人は、カードでしか買物しないわ」
「宝石類は?」
「加津子さんが、持って行ってると思うわ。残りは宝石商の所に……」
「なるほど」
男は肯《うなず》いた。
「——あの時、ここへ忍《しの》び込《こ》むつもりで?」
「下見さ。君の協力に、感謝してるよ」
「協力なんてしてないわ」
と、マリはムッとして言った。
相手は一向に気にしない様子で、
「細川加津子か。——財産も相当なもんだろうな」
「知らないわ」
「現金が、月に一度、ここへ入る日があるんだ」
「え?」
「ちゃんと調べはついてるんだよ」
と、男はニヤリと笑った。
「そんなこと知らないわ」
「株の取引きや、表立ってやりにくい商談を、月に一回、この屋敷《やしき》で開く。市川という秘書がお膳立《ぜんだ》てするんだ」
「そう……」
「もうそろそろ——たぶん、この一週間ぐらいの間に、あるはずだ」
「だから?」
「その日になったら、私に知らせてくれないかな」
と、男は言った。
「何ですって?」
「自己|紹介《しようかい》が遅《おく》れたね」
男は、左手でポケットから、白い手袋《てぶくろ》を取り出した。それをベッドの上にポンと投げ出すと、
「私の名は、〈夜の紳士《しんし》〉だ」
と、言った。