「どうしたんだよ、おい」
と、ポチが言った。
マリは答えない。ただうつむいて、ショッピングカートを引いて歩いているだけである。
「おい——」
「うるさいわね。放っといてよ」
と、マリが言った。
「フン」
と、ポチが鼻を鳴らした。
また少し行って、ポチが言った。
「なあ——」
「黙《だま》ってて、って言ったでしょ」
「道が違《ちが》うぜ」
マリは顔を上げて、
「いけない! そこの角、曲るんだった」
と、あわてて、戻《もど》って行った。
「だから言ったじゃねえか」
「もっとはっきり言ってよ」
「何を苛々《いらいら》してんだよ」
「あんたの責任もあるんだからね」
「あの泥棒《どろぼう》のことか。——だけど、考えてくれよ。俺は悪魔《あくま》だぜ。人がせっかく悪いことをしようとしているのに、邪魔《じやま》できないじゃないか」
「あんた、あそこでご飯をもらってるのよ。ちっとは恩を感じなさいよ」
——マリは、もちろん、泥棒に入られてしまったことで、責任を感じていた。
しかし、こんなにも悩《なや》んでいるのは、そのためではないのである。
「何を気にしてんだ?」
と、ポチが言った。「あのことか? お前が気絶している間に——」
「やめて、やめて!」
と、マリは急いで言った。「もう忘れたいの」
「何も憶《おぼ》えてないのに、どうやって忘れるんだよ?」
「うるさいわね」
「気になるのなら、ちゃんと診察《しんさつ》してもらやあ良かったんだ」
「いやよ」
と、マリはふくれた。「私——もう天国へ戻《もど》れないわ、そんなことになってたら」
ポチは、一人で(?)忍《しの》び笑いをしている。
——全く、何も知らないんだからな。このガキは。
天使とはいっても、今は生身《なまみ》の女の子だ。もちろん、男なんか知ってるわけはないが、もし[#「もし」に傍点]あの泥棒に乱暴されたというのなら、それが自分で分らないわけはない。つまり、そんなことも、マリには分らないのである。
ただ、——ポチとしては、そんなことをマリに言ってやる気はさらさらない。何といっても、ポチにはある目的[#「目的」に傍点]があるのだ。
マリは知らないが、ポチは、「堕《お》ちた天使」を一人、道連れにしないと、ずっと地獄《じこく》へは帰れない。そのためには、このマリにくっついているのが一番。
マリが、「人間なんて信じられない」と言うのを、ポチは待っている。天使がそんなことを言うのは、天使失格だから、ポチはマリを今度は自分の「家来」にして、永遠に地獄でこき使ってやれる、というわけなのである。
それには、マリが、あの泥棒に乱暴されたと思い込《こ》んでいた方がいい。人を恨《うら》めば、信じることもできなくなるだろうし、やけになって、何か罪を犯すかもしれない。
そうなりゃ、大いばりで地獄へ帰って行ける! もう「落ちこぼれ」じゃなくなるんだ。
ま、今の内はおとなしく、言うことを聞いていてやろう。——その内には、きっと……。
見てろよ、今に……。
「——ま、天国だって分ってくれるさ」
と、ポチは気休めを言ってやった。「何も好きで男にものにされたわけじゃないんだしな」
「言うな!」
マリにけとばされそうになって、ポチはあわてて逃《に》げた。
「おいおい。物騒《ぶつそう》だな。八つ当りはやめてくれよ」
と、ポチは文句を言った。
「——それだけじゃないのよ、私の心配は」
「へえ。他にも何かあるのかい?」
「だめ、あんたにゃ言わないわ」
「俺《おれ》に言ったって、別に誰《だれ》にもしゃべれないんだぜ」
そりゃ確かだ。——マリは、ため息をつくと、
「私ね——」
と、言いかけて、「あ、もうスーパーだ、あんたここで待ってて」
チェッ、犬があんな所にも入れないなんて! 人間だって、よほど汚《きた》ねえのがいくらもいるのに……。
ブツブツ言ってから、ポチは、木の陰《かげ》に入って、マリがスーパーへ入って行くのを眺《なが》めていた。
すると——。
「何だ、買物か」
と、呟《つぶや》く声がした。
見上げると、さっき、細川|邸《てい》へ来ていた若い方の刑事《けいじ》である。
ポチのいることには全く気付かない様子で、スーパーの入口の見える辺りに、ちょっと身を隠《かく》している。
「こりゃ面白いや」
と、ポチは呟いた。
あの刑事、どう見ても、マリを尾行《びこう》して来たのだ。天使が刑事に尾行されるってのも、なかなか珍《めずら》しい光景であろう。
すると、警察はマリのことを「怪《あや》しい」と思っている。——なるほど。
ポチには、マリが一人で考えている理由が、少し分って来た……。
「——お豆腐《とうふ》。——バターと牛乳」
メモを見ながら、マリは、店内用のかごを引いて歩いていた。「大体すんだみたいだわね……」
和代さんは、牛乳の日付とかにうるさい。よく見て、一日でも新しいものを、としつこく言われているのだ。
細かいし、口うるさいが、悪い人じゃない。マリは、頼《たよ》りになるので、むしろ好きだったのだ。
でも……。この私が、泥棒の手引きをしたなんて分ったら、今は優しいあの加津子さんも、和代さんも、口もきいてくれなくなるだろう。
もちろんマリは捕《つか》まって刑務所《けいむしよ》……。
年齢《ねんれい》が若いと、鑑別所《かんべつしよ》とかいう所へ入れられるらしい。TVでやってたわ。
でも——本当に、そんなつもりはなかったのに!
マリは、あの〈夜の紳士《しんし》〉に殴《なぐ》られた。
もちろん、それもショックだったが、むしろ気にしていたのは、〈夜の紳士〉の言ったことの方だった。
「——分るかい?」
と、拳銃《けんじゆう》を突きつけながら、あの男は言ったものだ。「もう君は私の共犯者なんだからね」
「そんなのないわ」
「いや、本当さ。もし捕まって、どうやって入ったか、と訊《き》かれたら、君が色々教えてくれた、と話す」
「そんな!」
「嘘《うそ》じゃない。そうだろ? しゃべらなかった、って言うのかい?」
マリも、正直なところ、憶《おぼ》えていなかったのだ。しかし、絶対にしゃべらなかった、とは言えない。
相手の巧《たく》みな話術のせいもあるだろうが、色々とおしゃべりをした。それは憶えている。ただ、その中身となると……。
「君が、いくら否定しても、事実、しゃべっているんだからね。君は共犯ってことになる。なに、うまく行ったら、ちゃんと分け前をあげるよ」
「いらないわ」
と、マリは言い返した。
「例の大金の入る日が分ったら、知らせてくれるね」
「そんなこと——できるわけないわ」
「できるさ、君はもう私の共犯者なんだからね」
と、〈夜の紳士〉は笑った。
「違《ちが》うわ! 違う! 私は共犯者なんかじゃない!」
違うわ、違う! 私は——私は——。
マリは、レジの行列に並《なら》んだ。
この辺、あまり家はないが、それでも、スーパーも少ないのだろう、車で買物に来る客が多くて、結構|混《こ》み合うのである。
——私が捕《つか》まらないように祈《いの》るんだな。もし捕まったら、君も一緒《いつしよ》だよ。
あの男は、そう言った……。
マリは、もう、刑事《けいじ》に嘘《うそ》をついてしまっている。あの男の顔、当然のことながらよく憶えているのだ。しかし、マリは、「分らない」と答えた……。
あの男の捕まるのが怖《こわ》いのである。
マリのこともしゃべるだろう。それに、マリに乱暴したことも。
それが、世間に知れ渡ってしまう。——そう思うと、マリは言えなかったのである。
レジの列はのろのろと進んで、やっとあと一人で、マリの番になった。大体の値段は分っている。財布《さいふ》を取り出して、マリは中のお金を確かめた。
すると、
「これを一つ追加だ」
ポン、とかごの中へ、缶詰《かんづめ》が一つ入れられた。マリはびっくりして、
「あの、間違えないで下さい」
と振《ふ》り向いた。
スポーツシャツにカーディガンをはおった〈夜の紳士〉が、立っていた。
マリが呆然《ぼうぜん》としている間に、前の客は精算を終えていた。
「ほら、早くしろよ」
と、男は、マリのかごを、レジのカウンターへのせてやった。「向うで待ってるよ」
マリは、集計されている間に、あの男の方を、チラチラと見た。——なんて図々しい男だろう!
支払いをすませる。かごと、大きな紙袋《かみぶくろ》を手に、マリは、空いた台の所へ行った。
「手伝おうか」
と、男がやって来る。
「結構よ」
「周囲の目があるよ」
男は、低い声で言った。「ショッピングカートはどれ?」
マリは、少しためらってから、
「左から三番目の大きいの」
と、言った。
男がそのショッピングカートを引いて来る。
「かばってくれてありがとう」
と、男が言った。
「私が?」
「人相も何もニュースに出ていないからね」
「それは——」
と、言いかけて、マリは詰《つま》った。
「まあ、私の言う通りにしておけば、間違いないよ」
「今日も別の刑事さんが来たわよ」
「知ってる」
「逃《に》げられっこないわ」
「君を殴ったのは悪かった」
と、男が言ったので、マリはドキッとした。
「やめて、人が聞いてるわ」
「いいじゃないか。——あれが、君を疑わせない一番いい方法なのさ」
マリは、男を見つめて、
「あなたは——」
と、言いかけて、やめた。
「まあ、聞き耳を立てといてくれ」
と、男は包みの中の缶詰《かんづめ》を取り出して、「この分は、ちゃんと払うよ」
マリの手に缶詰代を、一円玉までまぜてぴったり置くと、
「例の日が分ったら、知らせてくれるね」
と、言った。
「そんなこと……。私なんかに話してくれないわ」
「分るさ。いつになく、人が集まる。珍《めずら》しい客がね。当然、もてなす用意、それは君の仕事だ」
「だからって、ただのお客かもしれないでしょ」
「それはこっちで判断するよ、知らせてくれれば、それでいい」
「無理よ」
と言ってから、マリは、「あなたにどうやって連絡すればいいの?」
と、訊《き》いた。
「訪ねて来てくれても構わないよ」
男は、ポケットから、カードを取り出した。「このホテルだ」
「ホテル?」
「ビジネスホテル。フロントが無人で、支払いもクレジットカード。全く人に会わずに出入りできる。こういう仕事には便利だよ」
「ここにずっと?」
「この二、三日はここにいる。ちゃんとビジネスマン風の格好でね」
「——分ったわ」
マリは、そのカードを持って、「もらっておいていい?」
「ああ。昼間はたいてい部屋にいるよ」
と、男は言った。「じゃ、待ってるよ」
マリは黙《だま》っていた。
男は行きかけて、
「——別に、その情報がなくても、来て構わないんだよ」
と、言った。「ビジネスホテルでも、ベッドはあるからな」
マリは、真赤になって、男がスーパーを出て行くのを、見送っていた。
——外へ出ると、ポチが退屈《たいくつ》そうに歩いている。
「帰るわよ」
「遅《おそ》かったな」
「大変なのよ、買物っていうのは。あんたみたいに遊んでいらんないんだからね」
「へへ、ご機嫌斜《きげんなな》めだな」
ポチは、マリについて歩き出した。ふっと振《ふ》り向くと、あの刑事《けいじ》がついて来ている。
——よしよし。しっかり見張ってろよ、この可愛《かわい》い天使さんを。
ポチは、ちょっと陽気にステップなど踏《ふ》みながら、歩いて行った……。