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天使よ盗むなかれ10

时间: 2018-09-28    进入日语论坛
核心提示:10 背 信「お疲《つか》れ様でした」 と、市川は、加津子に言った。「車が待っています」「ありがとう」 付合いは終った。も
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 10 背 信
 
 
「お疲《つか》れ様でした」
 と、市川は、加津子に言った。「車が待っています」
「ありがとう」
 付合いは終った。——もう夜中の十二時近い。
 女社長とはいえ、時によっては、深夜まで酒に付合うこともある。——もっとも、加津子は、たいていの男よりもアルコールには強いのである。
 バーを出て、表に停《とま》っているハイヤーに加津子は乗り込んだ。
「——市川君、どうするの?」
「僕は、ちょっと会社へ寄ります」
「会社へ?」
「仕事を思い出しまして。では、明日」
 市川がドアを閉めると、ハイヤーは走り出した。
 市川は、車が見えなくなるまで見送っていたが、やがて、フッと肩《かた》を落とした。
「——ねえ」
 女の声に振《ふ》り向く。「一杯《いつぱい》おごってよ」
「忙《いそが》しいんだ」
 と、市川は女の手を払《はら》いのけて、歩き出した。
「フン、ケチ!」
 と、女の声が飛んで来る。
 市川は足を止めると、クルッと振《ふ》り向いて、女の方へ足早に歩み寄った。
「な、何よ!」
 安物の毛皮をはおった女が、ギクッとしてのけぞる。
 市川が、平手で女の顔を打った。女は悲鳴を上げて、よろけた。
「痛いじゃないの……」
 女の声は怯《おび》えていた。
 市川が札入れを出して一万円札を三枚抜き、投げ出した。
「俺《おれ》に向って、ケチなんて口をきくな!」
 市川は、そう叩《たた》きつけるように言って、歩いて行く。——もちろん、女は一万円札が風で飛ばない内に、あわてて拾《ひろ》ったのである。
 一発叩かれて三万円なら、まあ悪くもないわね、などと考えていた。——今度会ったら、また「ケチ」と言ってやろう……。
 
 市川は、ビルの通用口の鍵《かぎ》を開け、中に入った。
 警備は、外に依頼《いらい》してあるので、決った時間に回って来るだけだ。
 市川は、中に誰《だれ》もいないことを確かめて、もう一度、通用口のドアを開けた。
 空っぽの駐車場《ちゆうしやじよう》が見える。
「——遅《おそ》いな」
 と、呟《つぶや》く。
 腕時計《うでどけい》に目をやる。——もう約束の時間は過ぎていた。
 すると、いきなり、後ろで、
「誰か捜《さが》してるのか」
 と、声がしたので、市川は飛び上った。
「——誰だ!」
「ご挨拶《あいさつ》だな」
 と、その男は笑った。「人を呼んどいて、その言い方はないぜ」
 市川は、息をついて、
「君が——」
「中村《なかむら》、と呼んでくれ」
「中村? 僕《ぼく》の聞いたのは——」
「この職業じゃ、年中、名前を変えてるよ」
 がっしりした体格を、コートの下に隠《かく》している。顔立ちは少しいかついが、笑顔はいかにも穏《おだ》やかだった。
「どうやって入った?」
 と、市川は訊《き》いた。
「ここへ入れないようじゃ、話をしても仕方ない」
 と、中村[#「中村」に傍点]という男は言った。「話を聞こうか」
「よし。——上に行こう」
 市川は、階段を上って行った。
 ——社長室へ入ると、窓のブラインドを下ろし、明りを点《つ》けた。
「かけてくれ」
「ああ。——いい趣味《しゆみ》だ」
「社長は女性だからね」
「なるほど、あんたは、その秘書ってわけか」
「その通り。何か飲むかね」
「いや、結構。——話を聞きたい」
「うん……」
 市川は、自分の椅子《いす》を、ソファの近くまで引張って来た。「どうも、これに座ってないと、落ちつかなくてね」
「相当重症だな」
 と、中村と名乗った男は笑った。
「その外見を保つのに、神経を使うさ」
 と、市川は言った。「その分、どこかでバランスを取らないとな」
「なるほど」
「それには、多少、経費がかかる」
 市川は、少し間を置いて、「それが少しかかり過ぎてね」
「会社の金に、手をつけた、か」
「まだ分っていない」
 と、市川は肯《うなず》いた。「しかし、あと何か月も秘密のままにはしておけない」
「それで?」
「君に仕事を頼《たの》みたい」
「何をする? 帳簿《ちようぼ》でも盗《ぬす》み出すのか?」
「それじゃ、ただ隠すだけ。しかも、どうしてそんなものを盗むのか、却《かえ》って疑われてしまうよ」
「では?」
「穴埋《あなう》めするに充分《じゆうぶん》な金を盗む。当然君への報酬《ほうしゆう》も、そこから出る。そしてまだ[#「まだ」に傍点]残る」
「うまい話だ。しかし、疑われるんじゃないのか?」
「この金は、公然の取引き用じゃない。裏での、つまり人には言えない金だ。大丈夫《だいじようぶ》。まず一一〇番される心配はない」
「ほう」
 中村は眉《まゆ》を上げた。「面白そうな話だな」
「だからこそ、狙《ねら》うんだ」
「しかし、そんな金なら、なおのこと、あんたに容疑がかかるんじゃないのか」
「そこだよ」
 市川はニヤリと笑った。「もちろん、どんな大金でも、手は出せない。いつもなら[#「いつもなら」に傍点]、だ。ところが、そこへつい先日、泥棒《どろぼう》が入ったのさ」
「待ってくれ」
 と、中村は遮《さえぎ》った。「それはあの——〈夜の紳士《しんし》〉のことか?」
「察しがいいな。その通りだ」
「それで?」
「奴《やつ》も、その金のことを知っているかもしれない。狙《ねら》ってもおかしくはない」
「なるほど。すると、こっちで盗《ぬす》んでも、〈夜の紳士〉がやったと判断される、か」
「チャンスだ! 他の時じゃ、だめなんだ。分るだろう?」
「分るよ」
「三日後、あの屋敷《やしき》に、億《おく》単位の現金が集まる。それを君がいただいて、罪は〈夜の紳士〉にかぶってもらう」
「面白いな」
「これを使うんだ」
 上衣の内ポケットから、市川は、白い手袋《てぶくろ》を取り出した。「盗んだ現場に置いて来る。——どうだ?」
 中村は、その手袋を取り上げて、
「同じ物か?」
「同じ物を捜《さが》した」
「なるほど。——あんたは頭のいい男らしいな」
 中村は手袋を返した。
「まあ、こんな所だ。——どうだ?」
「やろう。こういう面白い仕事は珍《めずら》しい」
 と、中村はニヤリと笑った……。
 
 部屋のドアの前に立って、マリは、ためらっていた。
 ここまで来ちゃったんだから、という気持と、まだ間に合う、引き返そう、という気持とが、マリの中で押《お》し合いをくり返していた……。
 ドアが開いた。
「来たね」
 と、〈夜の紳士〉は言った。「さ、入って」
「どうして分ったの?」
 と、部屋の中へ入って、マリは訊《き》いた。
「ドアの下には細い隙間《すきま》があってね」
 と〈夜の紳士〉は言った。「人が立つと影《かげ》になる。——ま、狭《せま》いが、座れよ」
 本当に狭い部屋だ。——マリは、ちょっとびっくりした。
 今、あんな広い邸宅《ていたく》にいるせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
「お茶ぐらいしかないよ」
「結構です」
 とマリは言った。
「それで、と……。何と言って出て来たんだね?」
 と、相手はベッドの上に腰《こし》をおろした。
 椅子《いす》は、今マリが座っている一つしかないのだ。
「今日?——ちょっとお友だちと会う、と言って」
「なるほど、嘘《うそ》じゃないね」
 と、男は笑って、「で——何か知らせることがあったんだろう」
 マリは、ハンカチを手の中で、握《にぎ》りしめていた。——しばらくは黙《だま》り込《こ》んだまま。
「一つ、教えて」
 と、マリは言った。
「何を?」
「正直に——本当のことを教えて。絶対に嘘をつかないで」
「何だい、思い詰《つ》めた顔して」
「それに、本当に正直に答えてくれたら、話します」
 マリは、じっと男を見つめた。「——いい?」
「ああ」
 マリは、大きく息を吸った。
「この間……あなたが私を殴《なぐ》った夜」
 と言った。
「うん。ありゃ悪かった。ああしないと、君が疑われる」
「それはいいんです。ただ——あの後のことが——」
「後のこと?」
「私……あなたにその……どうだったんですか。何も憶《おぼ》えていないの。自分でも、何か[#「何か」に傍点]あったのか、なかったのか、分らなくって……」
 マリが泣き出したのを見て、男はびっくりした様子だった。
「君——おい、しっかりしろよ」
 と、歩み寄って、マリの肩《かた》をつかむ。
「ごめんなさい……。ずっと——ずっと、どうしよう、と思ってて……」
 マリはハンカチで涙《なみだ》を拭《ふ》いた。「泣くつもりじゃなかったのに……」
「君は——何者なんだ?」
 と、男は、マリを見つめながら、訊《き》いた。
「私——天使[#「天使」に傍点]」
「何だって?」
「天国から、研修に出されたの。人間のことを勉強して来いって。あのお宅に雇《やと》ってもらって……。でも、いつか天国へ帰らなきゃいけないの」
「天使……」
「でも、あんなこと[#「あんなこと」に傍点]が、もし本当にあったら——私、天国へ帰れない」
 マリは、涙《なみだ》のしみ込《こ》んだハンカチを握《にぎ》りしめた。「——お願い。本当のことを、教えて」
〈夜の紳士《しんし》〉は、不思議な目で、マリを見ていた。それはマリがハッとするほど、澄《す》んだ、優しい目だった。
「そうか」
 と、肯《うなず》く。「君は天使か」
「信じてくれないでしょうけど——」
「いや、信じる」
「本当?」
 今度はマリの方がびっくりする番だった。その言い方が、皮肉でも何でもない、本当の気持のようだったからである。
「信じるさ。——君みたいな娘《こ》が、いるなんて思えないからね。君がそんなに胸を痛めてるとは知らなかった。許してくれ」
「そんな——」
「確かに、君が被害者らしく見えるように、殴った後で、君のパジャマを引き裂《さ》いたりした。しかし、それ以上のことは何もしていないよ」
 マリが、息を呑《の》んだ。
「本当?」
「ああ。天使に嘘《うそ》はつかないよ」
 マリは、体中の緊張が緩《ゆる》む思いで息をついた。そして——〈夜の紳士〉へ駆《か》け寄ると、頬《ほお》にチュッとキスした。
「おやおや。天使のキスとは嬉《うれ》しいね」
 と、男は微笑《ほほえ》んだ。
「約束を守るわ。——お金が集まるのは、たぶん明日だと思う」
「明日?」
 マリは肯《うなず》いて、
「夜、十時ごろから食事を出すことになってるの。和代さんが、『明日は特別なお客さまだから』って、夜中まで残るのよ」
「なるほど、間違《まちが》いないようだね」
「これしか私は知らないわ」
「いや、ありがとう」
 と、〈夜の紳士〉は言った。
「でも、分らない。なぜ、あなたが泥棒《どろぼう》を?」
 と、マリは訊《き》いた。「いい人なのに」
「これにはね、まあ、ちょっとしたわけ[#「わけ」に傍点]があるのさ」
「やっぱり。あなたは普通の泥棒じゃないのね」
 男は笑って、
「普通の泥棒か。——しかし、二十年前に、〈夜の紳士〉として知られていたことは確かなんだよ」
「有名だったの」
「まあね。しかし——あることがあって足を洗った。そして二十年余り……。また久しぶりで、一仕事ってわけだ」
「私、よく分らないけど……。あなたはお金を盗《ぬす》むために忍《しの》び込《こ》むんじゃないような気がする」
 男は、マリの肩《かた》に手をかけて、
「ありがとう。君に会えて良かった」
 と、言った。「明日、会えるかどうか分らないがね」
「気を付けてね」
 と、マリは言った。「捕《つか》まらないで」
「ああ」
 と、〈夜の紳士〉は肯いて、言った。「捕まらないよ、私は」
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