江美は、タクシーを降りて、周囲を見回した。
「ここでいいのかしら?」
自信がない。ともかく、こんな郊外《こうがい》の方まで、出て来たことがない。もちろん旅行でもするのならともかく。
確かに、こんな所によくお客が来るわ、と感心したくなるようなスーパーがあって、でも、一応客も入っているようだ。
駐車場に何台か自家用車が入っている。みんな車でやって来るのだろう。
このスーパーの前。——確かに、健吾はそう言ったのだ。
時計を見ると、十分ほど、約束の時間を過ぎている。何といっても、都心から遠いのである。健吾にも分っているはずだ。
スーパーの前に、小さな公園ができていて、子供たちが三、四人、遊んでいた。
もちろん、砂場とブランコ、シーソーぐらいしかないのだが、親が買物している間、子供を安全に遊ばせておくための公園なら、これで充分《じゆうぶん》だろう。
江美は、その中の小さなベンチに腰《こし》をおろした。——日が当っていると、そう寒いこともないのだが、時折吹きつける風は、襟首《えりくび》をかすめて、思わず首をすぼめさせる。
江美は、手にさげていた袋を膝《ひざ》に置いて、中を覗《のぞ》いた。
「これで全部よね……。お弁当、お茶、ハンカチ、カミソリ……」
合宿でもやってんのかしら、あの人?
江美は、子供たちが遊んでいるのを、ぼんやりと眺《なが》めていた。——風を冷たいと感じるほどの余裕《よゆう》もないだろう。子供は、大人《おとな》よりずっと生きることに忙《いそが》しい……。
江美は、思わず微笑《ほほえ》みながら、子供たちを見ていた。このところ、気が重いことが多いので、こんな風にぼんやりと子供たちを見ているのが、思ってもいなかったくらい、楽しいのである。
——子供が一人、転んだ。
あ、と思って、江美は立ち上りかけた。
子供が膝をすりむいたらしい。ワーッと泣き出した。他の子たちは、当惑《とうわく》した様子で、それを見ている。
江美は、声をかけたものかどうか、迷った。親はきっとスーパーの中にいるのだろう。
泣いているのを見れば、急いで駆《か》けつけて来るだろうが、気付かないのかもしれない。
江美がためらっていると、
「あらあら」
と、駆けて来た女の子がいた。
ショッピングカートを引いて、エプロンをした、まだずいぶん若い女の子だ。十六、七というところではないだろうか。
「どうしたの? あら、すりむいてる。——痛い?」
その少女は、急いで水のみ場へ駆《か》けて行くと、ハンカチを水で濡《ぬ》らし、泣いている子の方へ駆け寄った。
「はい。——ちゃんと拭《ふ》こうね。大丈夫《だいじようぶ》。もう血も出てないわ。——ねえ、もう大丈夫よね?」
少女がニッコリ笑いかける。
泣きべそをかいていた子——こっちは男の子だった——が、その少女の笑顔を見ている内に、何となく泣きやんだ。
「はい。——涙《なみだ》をふいて。——お鼻かんで」
少女は、子供の頭を撫《な》でてやると、「いい子ね、強いな。じゃ、おとなしく、ママを待ってるのよ」
「ママじゃないや」
と、その子供が言った。「お母さん、だい!」
「そうか。じゃ、お母さんの前で、ちっとも泣いてないってことを見てもらおうね。——バイバイ」
「バイバイ」
子供が素直に手を振《ふ》る。
少女が、ショッピングカートを引いて、歩き出す。
「待たせたわね」
と、少女が声をかけたのは、黒い大きな犬だった。
まるで返事をするように、ウーと唸《うな》っている。
「今夜もお客なんだから、しょうがないじゃないのよ。突然だったんだし」
少女が、犬と[#「犬と」に傍点]話しながら、歩いて行く。
「——面白い子」
見送って、江美は思わず呟《つぶや》いた。
つい、見ていて微笑《ほほえ》んでしまう。赤ん坊のような、自然の可愛《かわい》さがある。
だから、犬と話しているような、その光景が、あまり奇妙《きみよう》なものに見えないのだ。
——あの男の子は、すりむいたことなどもう忘れてしまったかのように、駆け回っている。
あの少女のように、ごく自然に、泣いている子へ駆け寄って、手当してやるということは、なかなかできない。——親が見たら、何か言われるかもしれないし。
それを、あの少女は、本当に当り前のようにやったのである。
江美は、不思議な少女だわ、あの子、と思っていた。
さて——もう時間も過ぎているが。
健吾はどうしたのか。気になって、ベンチから立ち上り、周囲を見回していると——。
スーパーから大きなエプロンをつけた男が出て来た。当然、スーパーの店員だろう。
そして、なぜか真直ぐに、江美の方へやって来たのである。
「失礼ですが」
と、江美に声をかける。
「は?」
「お名前をうかがわせていただけますか」
「私、ですか」
江美は戸惑《とまど》った。「結城といいます」
「結城さんですか。あの——畑という人をご存知で?」
「ええ」
「畑健吾という人ですか」
「ここで待ち合せてるんです。お店に電話でも?」
「いや、そうじゃないんです。実は——」
と、店員は言いかけて、「畑さんってのは、何をしてる人です?」
「あの——刑事《けいじ》です。警官ですわ。でも、どうして?」
「そうですか……」
と、店員は頭をかいて、「いや——ともかく、どうぞ」
「はあ……」
江美はわけの分らないまま、店員について、スーパーの中へ入って行った。
店内は、外から見ている印象より広い。よく整理されている、と江美は感じた。
店を奥《おく》まで突っ切って、
「どうぞ」
と、店員が、荷物を搬入《はんにゆう》する口の扉《とびら》を開けた。
段ボールの山の間を抜《ぬ》けて、さらに奥のドア。
「——お待たせして」
と、店員がそのドアを開けて言った。
中を覗《のぞ》くと、正面に、畑健吾が、仏頂面《ぶつちようづら》で椅子《いす》に腰《こし》かけている。周囲で、三、四人、戸惑《とまど》ったような顔で立っていたのは、やはりこのスーパーの店員らしかった。
「どうしたの?」
と、江美は訊《き》いた。
健吾は、ジロッと左右の男たちをにらんで、
「あの公園で君を待っていたんだ。そしたら、急にこいつらがやって来て、『ちょっと来て下さい』って……。僕《ぼく》のことを、子供を狙《ねら》ってる変質者か何かだと思ったらしくてね」
「まあ、見せなかったの? あの——」
「警察手帳も、証明書も見せたよ。だけど偽物《にせもの》かもしれない、とかぬかしやがって」
「本当に刑事《けいじ》なんです、この人。張り込みの最中で、こんななりしてますけど」
そう言いながら、江美も、これじゃ疑われても当然ね、と思っていた。
何しろ、無精ひげをのばし、頭もボサボサ。一歩|間違《まちが》えば、浮浪者《ふろうしや》である。
「——どうも誤解だったようで」
と、責任者らしい男が謝った。
「冗談《じようだん》じゃない! おかげで尾行《びこう》してた相手に逃《に》げられたじゃないか!」
「いや、全くもって、どうも——」
「そう怒《おこ》らないで」
と、江美が、健吾に言った。「お店の方も、これだけ防犯に気をつかっているってことなんだから」
そう言われると、健吾も、ムッとしながらも、黙《だま》らざるを得ない。
「——あの、ちょっとお弁当をここで食べていいでしょうか」
と、江美が言うと、
「どうぞどうぞ!——おい、お茶をさし上げて! 何なら、売場の方のおそうざいをどれでもお取り下さい!」
たちまち大サービスで、二人はお茶だけでなく、粉末ながら、ミソ汁も飲めることになった。
「——やれやれ」
健吾は、弁当を食べて、江美の持って来た電気カミソリでひげを剃《そ》ると、やっと落ちついた様子だった。
「お腹《なか》、大丈夫《だいじようぶ》?」
「急に食べたら、痛いよ」
と、健吾は顔をしかめた。「でも、快い痛みってやつだ」
「何だか大仕事なのね」
「うん。有名な泥棒《どろぼう》なんだ。今、僕が見張ってるのは、その共犯者だけどね」
と、健吾が言った。
「——食後のデザートを」
と、店員が、アイスクリームを持って来た。「コーヒーもすぐにおいれします」
「お構いなく」
笑いをこらえながら、江美は言った。
「——連絡がなかなかできなくてね」
「お仕事だもの。仕方ないわ」
と、江美は言って、「共犯者ってどんな——」
「屋敷《やしき》で働いてる女の子さ。泥棒の手引きをしてるんだ。まだ十六ぐらいだけどね。今、親父が身許《みもと》を洗ってる」
「へえ。——十六ぐらいの女の子?」
「黒い大きな犬を、いつも連れて歩いてる」
江美はドキッとした。
「見たわ、その子なら。犬を連れて帰って行った」
「そうか。——ま、逃《に》げやしないと思うけどね」
「でも……。そんな子に見えなかったわ」
「昼間、どこだかへ出かけてたんだ。尾行しそこなったけどきっと、〈夜の紳士《しんし》〉に会いに行ったんだよ」
「〈夜の紳士〉?」
「そう名乗ってる、有名な泥棒なんだ」
「そう」
「もし、僕《ぼく》がそいつを捕まえたら……。きっと課長が目をむいて失神するだろうな」
健吾が、こんなに張り切っているのを、江美は初めて見た。もちろん、それはいいことなのだろうが……。
しかし——江美は、あの膝《ひざ》をすりむいた子供に笑いかけた、あの少女の輝くような無邪気《むじやき》さを、忘れられなかった。
「——どうも先日は」
「畑さんでしたね」
と、加津子は言った。「今日は急の来客がありますので、ここでお話をうかがいますわ。手短にお願いします」
「結構です」
と、畑健一郎は、言った。
玄関《げんかん》ホールに、簡単な応接セットは置いてあるが、二人は立ったままだった。
「実は、あのマリという娘《むすめ》のことですが」
「今、買物に出ていますわ」
「分っています。それでこうしてうかがったんです。——あの娘をどうして雇《やと》われたのか、話していただけませんか」
加津子は、車ではねたとも言えないので、あの娘と犬が道で倒れているのを見つけて、連れて来たのだ、と説明した。
「——奇妙《きみよう》な話ですな」
「記憶《きおく》を失ったというのが本当かどうか、私も分りませんわ。でも、本人がそう言っているのを、嘘《うそ》だと決めつける気にもなれませんし」
「しかし……。当ってみたところ、ああいう娘の行方《ゆくえ》不明の届は出ていません。犬と一緒《いつしよ》、という届もね」
「そうですか。でも、私には何の関係もないことですわ」
「犬の鑑札《かんさつ》を調べれば分るかもしれませんな」
「その必要がありまして?」
「そう思います」
加津子は、真直ぐに畑健一郎を見つめて、
「私が[#「私が」に傍点]そう思わないのですから、問題はないと思いますが」
と、言った。
「しかし、もしあの娘《むすめ》が、わざとこのお宅へ入りこんだとしたら? 身許《みもと》も分らない娘を雇《やと》い入れるのは、こういうお宅では甚《はなは》だ物騒《ぶつそう》ですよ」
「構いません」
健一郎は、ちょっと戸惑《とまど》って、
「おっしゃる意味が——」
「たとえそうでも構わない、と申し上げているんです」
と、加津子は言った。「ここは私の家です。あの娘《こ》は、私が信頼して雇ったのです。ですから、あなたに色々と口出ししていただきたくありません」
健一郎は、肩《かた》をすくめた。
「分りました。——お邪魔《じやま》しました」
「失礼します」
加津子は、さっさと行ってしまう。
健一郎は細川|邸《てい》を出ると、首をかしげた。
「——どうしてあんなにあの娘をかばうのかな」
そして、ちょっと息をつくと、
「健吾の奴《やつ》、うまくやるといいが……」
と、呟《つぶや》いて、車の方へと歩き出した。