「変ねえ」
と、大山和代が首をかしげた。
「何か間違《まちが》えました?」
と、マリは訊《き》いた。
「いいえ、そうじゃないの。デザートが一つ足らないのよ」
「あら……」
マリは、台所の台にのせた皿《さら》を数えて、「おかしいわ。確かに四つあったんですよ」
「ねえ。——さっきのローストビーフも、皿によって一枚足らなかったり……。何だか妙《みよう》だわ」
今夜は、加津子が、知人を三人、招いている。——明日が「大変な夜」ということで、今夜はアルコールは少な目、早々にコースを終らせようということになっていた。
「いいわ。フルーツを切るから」
と、和代が言った。「デザートが一つ不足じゃ、お出しできないもの」
「じゃ、お皿を」
「フルーツ皿。その右の方のを四枚」
「はい!」
マリは急いで皿を出して、並《なら》べた。
和代のこういう時の手ぎわの良さは、正に芸術的である。——マリはつい見とれてしまうのだった。
「さ、運ぶのよ。——あわてて落とさないでね!」
「はい」
マリは何度かやらかしているのだ。
しかし、和代は、マリが懸命《けんめい》にやっている限り、決して怒《おこ》らない。——人間誰だって初めはうまくいかないもの。それが和代の口ぐせなのだった。
「——でも妙ね」
と、マリは、デザートをのせた盆《ぼん》を手に廊下《ろうか》を急ぎながら、呟《つぶや》いた。「つまみ食いする人もいないのに……。まさかネズミなんか出るんじゃないでしょうね」
と、言って——あ、もしかしたら!
マリは、デザートを出して、台所へ戻《もど》る途中《とちゆう》、裏口へと小走りに急いだ。
「——ちょっと」
と、犬小屋の屋根をコンコンと叩《たた》く。
「何だよ、うるさいな」
ポチが、ヌッと頭を出した。「せっかく人がいい気持で寝《ね》てんのによ」
「人じゃなくて犬よ、あんたは」
と、マリは言ってやった。
「フン、何だかいやに元気が良くなったじゃねえか。あんなにしょげ返ってたくせによ」
「大きなお世話よ」
「今泣いた天使がもう笑った、っていうんだぞ、そういうのを」
「変なの。——ね、あんた、台所のローストビーフとか、デザート、食べなかった?」
「ロ、ローストビーフ?」
むっくと起き上り、「どこにあるんだって?」
「あんたじゃないようね」
とマリは思い直した。「おかしいな、誰《だれ》が食べたんだろ」
「もうないのか」
「少し、半端《はんぱ》が出てるわ。それでよきゃ持って来てあげる」
「我慢するよ。デザートは?」
「デザートを要求する犬なんて、聞いたことないわ」
と、マリは苦笑して、「いいわ。じゃ待ってて」
マリが家の中へ入っていくと、ポチは欠伸《あくび》をした。——せっかく、あの可愛《かわい》い天使がふさぎ込《こ》んでいたのに、昼間出かけて帰って来たと思ったら、やたら元気になりやがって。
少々、がっかりである。天使が幸せでは、悪魔《あくま》にとっては、あんまり嬉《うれ》しい状況《じようきよう》ではない。
ま、しかし焦《あせ》ることもないさ。何しろありゃ、世間知らずの新入り天使(?)だからな。これからまだいくらでも機会は——。
メリメリ……。
頭の上で何だか音がして、ポチはギョッとして見上げた。犬小屋のすぐわきには、大きな木があって、枝《えだ》がのびているのだが、そこに誰かがぶら下っている。
「あ……あ……」
メリメリ、と音がして、枝が折れる!
ポチはあわてて飛びのいた。何しろ前に、あのマリが上に落っこって来て、ひどい目にあったことがあるのだ。
今度は早い内に分って、季節外れのサンタクロースだか何だか知らないが、その誰《だれ》やらは、みごとにドシンと地面に尻《しり》をぶつけたのだった。
「いて……いてて……」
と、呻《うめ》いて、なかなか立ち上れないでいるのは——何だ、とポチは呆《あき》れた。
マリのことを尾行《びこう》していた刑事《けいじ》じゃないか! 何やってるんだ?
ウー、ワン、と吠《ほ》えてやると、刑事は、
「ワッ!」
と、飛び上った。
ウー……。ポチが、ぐっと凄味《すごみ》のきいた声を出す。——何しろ真黒だし、体はでかいので、迫力《はくりよく》はなかなかのもの。
「ご、ごめんよ……。別に泥棒《どろぼう》するつもりじゃなくてね……。そ、それじゃ、さよなら……」
刑事は腰《こし》を押《おさ》えて、「いてて……」
と、呻きながら、庭の方へ駆けて行った。
「——変な奴《やつ》だな」
と、ポチは呟《つぶや》いた。
「はい、お待たせ」
と、マリが戻《もど》って来て、「今、何かドシン、って音がした?」
「気が付かなかったぜ、——おっ、うまそうなデザートだな」
「私にもらったのを半分にしたのよ、ありがたくちょうだいしなさい」
「相棒だろ。山分けは当然だ」
と、ポチは言って、まずはローストビーフの余りから食べ始めたのだった……。
「ああ畜生《ちくしよう》……」
刑事ってのは、痛い仕事なんだな、と畑健吾は思った。
おまけに犬には吠えられるし、ろくなことがないよ。——健吾はため息をついた。
江美のお弁当を食べはしたが、何といっても健吾はまだ若い。お腹が空いて、こっそり台所へ忍《しの》び込《こ》んで、つまみ食いをして来た。
要するに、「大きなねずみ」は、健吾だったのである。
まあ、ここの家のいいところは、庭が広くて、いくらでも隠《かく》れてられる、ってところだろう。幸い、この二日ほど、庭もそう冷え込まないので、助かっている。
健吾とて刑事である。多少は(?)父親に言われたことも憶《おぼ》えていて、明日の夜、何か[#「何か」に傍点]がありそうだということは、気が付いていた。
しかし——こうやって頑張《がんば》っていると、何となく、今まで、上から言われるままに駆《か》け回っていたのとは違《ちが》った充実感《じゆうじつかん》といったものもあり、これだけ苦労してるんだから、ということなのだろうか、絶対に〈夜の紳士《しんし》〉を捕《つか》まえてやろう、といった意地みたいなものが出て来るのだった。
健吾が木に上っていたのは、もし明日、例の〈夜の紳士〉がやって来たとして、どこから中へ忍び込むんだろうか、という研究をしていたせいだった。
少なくとも、あの木から枝《えだ》を伝って、では無理だということが分ったわけである。
「——明日か」
と、健吾は呟《つぶや》いた。
昼間の内にその情報をつかんだ健吾は、外へ出て、父親に連絡した。——マリがホテルに〈夜の紳士〉を訪ねていた時である。
健一郎は、息子の知らせに興奮していた。
「警官を出す。しかし、少ない方がいい。大勢だと、却《かえ》って奴《やつ》が逃《に》げやすくなるからな。いいか、お前が[#「お前が」に傍点]、奴を逮捕《たいほ》するんだ。俺《おれ》は、それを助けてやるだけなんだからな」
父親としても、これで息子が、これまでの不名誉《ふめいよ》を挽回《ばんかい》するのを期待しているのだ。その父親の気持が分るだけに、健吾は、ますます緊張《きんちよう》しているのだった……。
「少し寒いな」
健吾は、木立ちの間へ入って毛布にくるまった。——何とも広い庭だ。
健吾が父と住んでいる家にも庭はあるが、こんな広い庭を見てしまうと、あれは、単なる「隙間《すきま》」でしかなくなる……。
「そうだ……。江美さん——」
こんな時は、恋人《こいびと》のことでも考えるのが一番。考えるだけなら、いくら甘美《かんび》なラブシーンがあっても、別に文句は出ないだろう。
江美から、あの行方《ゆくえ》が分らなくなったという、池上のことも調べてくれと頼《たの》まれていたっけ。——しかし、ここにいては、何も調べられやしない。
待ってろよ。これが片付いたら……。
僕《ぼく》は一挙にヒーローになる。有名な泥棒《どろぼう》、〈夜の紳士《しんし》〉を捕《つか》まえたんだから! いや——もちろん、まだ捕まえちゃいないがね。
「すてきよ、健吾さん!」
とか何とか言ってくれて、僕に抱《だ》きつき、チュッとキスしてくれて……。
チュッと——ポタッ。
ん? 冷たいね。唇《くちびる》も冷たい? いや、でも……。ポタッ。ポタッ。
健吾は、そろそろと空を見上げた。
「やめてくれ!」
——雨が降って来たのである。
「——おやすみなさい」
と、マリが頭を下げる。
「おやすみ。ご苦労様」
と、加津子は、まだ少しワインでほてっている頬《ほお》に手の甲《こう》で触《ふ》れて、言った。「明日も、ちょっと大変だけど、よろしくお願いね」
「はい」
——本当に気持のいい子だわ。
加津子は、自分でもよく分らなかった。なぜ、マリのことがこんなに気に入っているのか……。
もちろん、今時|珍《めずら》しいくらい、素直で、よく働くし、真面目《まじめ》な子だ。でも、それだけではないような気がする。
加津子は寝室《しんしつ》に入った。
泥棒に入られてから、市川などは、寝室を替《か》えては、と言っていたが、それも面倒《めんどう》だと思っていた。
人間、いつも多少の危険と共に生きているものだ。
来客の相手をするのに着ていたスーツを脱《ぬ》いで、ベッドの上に放り出す。——ホッと息をつく瞬間《しゆんかん》である。
実際、最近は疲《つか》れている。何もかも放り出して、どこかへ行ってしまいたい、と思うこともある。
もちろん——実際には、そんなこと、できっこないのだ。
寝室からドアを開けてバスルームに入る。大理石をはりつめた、豪華《ごうか》なバスルーム。——しかし、「お風呂《ふろ》」は「お風呂」でしかない。
こんなお風呂に一人で入るより、小さなユニットバスに、我が子と入る方が、ずっと幸せかもしれない……。
お湯を出しておいて、加津子は、服を脱いだ。——そうなのだ。
マリを見て、ついかまってやりたくなってしまうのは、マリが、ある「面影《おもかげ》」を持っているから……。遠い昔に加津子の手から去って行ったものを、思い出させるからなのである。
本当に可愛《かわい》い子だわ。——もし、ずっとあのマリが、ここにいるのだったら……。
もちろん、マリの方が良かったら、の話だが——。あの子を養女にでもできないだろうか?
もちろん、そのためには、マリの身許《みもと》も、しっかりと調べる必要があるかもしれない。しかし、ああして家を出て来ている以上、親とうまく行ってはいないのだろうし、加津子の、この財産を引き継《つ》ぐことを考えたら——。
いや、マリに、こんな「重荷」を背負わせたくはない。気楽に、遊び暮《くら》せるような、そんな女の子ならともかく。
——熱いお湯に浸《ひた》って、加津子は、目を閉じていた。
いつも、そうして一人だけの時間に戻《もど》ると、よみがえって来る一つの顔がある。
もちろん今はもう、同じように老けているはずだが……。しかし、加津子の思い出の中では、その人はいつまでも若々しい。
今、どうしているのだろう? 生きているのかどうかすら、定かではないが……。
たっぷりと時間をかけて、湯から上ると、加津子は、年齢《ねんれい》の割にはよく引き締《しま》った裸身《らしん》の上に、バスローブをはおって、寝室《しんしつ》へと戻《もど》った。
バタバタ、と窓を打つ音。
「——雨かしら」
と呟《つぶや》いた加津子は、窓へと歩いて行って、カーテンを開いた。
目の前に男の顔[#「男の顔」に傍点]があった。
「キャッ!」
びっくりして後ずさると、バスローブの腰紐《こしひも》がとけて落ち、前がスッと開いてしまった。——その男が、今度はギョッとして目をむいて——何しろ二階である。
足場が悪かったのだろう。男がふっと見えなくなった。——落っこちたらしかった。