「ねえ、あんたはどう思う?」
と、マリは言った。
「何が」
ポチは朝食を食べるのに夢中《むちゆう》で、顔も上げずに訊《き》く。
「よく食べるわねえ」
と、マリは呆《あき》れた。
「悪いか。悪魔《あくま》だって腹《はら》は減《へ》るんだぞ」
「誰《だれ》も、悪いなんて言ってないでしょ」
「おい。何だよ、この紅茶《こうちや》」
「紅茶がどうしたの?」
「ティーバッグをケチったろ。出がらしじゃないか」
「文句言わないの。犬が好きですから、って、新しいティーバッグなんか使えっこないでしょ。大体、犬が紅茶欲しがるなんてのが、無茶《むちや》なんだからね」
「分ったよ。これで我慢《がまん》すらあ」
と、ポチは顔をしかめた。「——何を悩《なや》んでんだ?」
「ゆうべは刑事が二階から落っこちて、大騒ぎだったのよ」
「知ってるよ。あの女主人と二人で、えっちらおっちら運んでたじゃないか」
「あんたは見てるだけね。役に立たないんだから」
「悪魔は人の役に立つようにゃできてないんだ」
「それもそうか」
「俺《おれ》がヒョイと立って、手伝ったりしたら、人間が目を回すぜ」
「面白いかもね」
と、マリが笑った。
それから、ヒョイと真顔《まがお》に戻って、
「でも、どうしよう」
「変な奴《やつ》だな、お前」
と、ポチはため息をついたのだった。
「あの刑事、今日、例の〈夜の紳士〉がここへやって来るって気付いてるのよ、ということは、きっと、大勢|警官《けいかん》がやって来て、この家を警戒するんだわ」
「だったら、どうなんだ?——そうか。大勢の警官にお茶出してやるのが面倒なんだろう」
「失礼ね、あんたじゃあるまいし」
「どういう意味だよ」
「私はね、あの〈夜の紳士〉のことが心配なのよ」
「何だい、ずいぶん風向きが変ったな」
「いい人なんだもん、あの人」
と、マリは言った……。
ポチはきれいに朝食を食べ終えると、
「俺は悪魔なんだからな、人が悪いことしようとしてるのを、止めるわけにゃいかないよ」
「でも、あんたここ[#「ここ」に傍点]じゃ、私の相棒《あいぼう》よ」
「相棒か。——分ったよ」
「あの人に知らせてあげるべきかしら? 警官が待ち構えてますよって」
「そうだな……。知らせることないと思うぜ」
「どうして?」
「有名《ゆうめい》な泥棒なんだろ、そいつ? だったら、それぐらい承知《しようち》さ」
「だって、もし捕まったら——」
「警官がいるからって尻《しり》ごみするようじゃ、一流の泥棒とは言えないさ。ま、放っとくのが一番だよ」
「そうかなあ」
と、マリは考え込んだ。
そして——思い出した。あのホテルを訪ねた時、〈夜の紳士〉は言ったのだ。
「私は捕まらないよ」
と……。
あの言葉には、何か不思議《ふしぎ》な確信があった。泥棒としての、自分の腕に対する自信、というのではなく、まるで、もう「決っていること」のような印象を、マリは受けたものである。
だとすれば、「捕まらない」のはなぜなのだろう?
「——マリさん」
と、呼ぶ声がして、マリはハッと我に返った。
「和代《かずよ》さんだ。じゃ、あとで器《うつわ》を片付《かたづ》けるからね」
「よく洗えよ。ゆうべなんか、魚の匂《にお》いが残ってたぞ」
「うるさいんだからね、もう!」
台所へ駆けて行って、
「すみません。ポチとしゃべってたら——あ、いえ、ポチをじゃらしてたら、つい……」
と、あわてて言い訳する。
「寝室へ朝食をね。二人分ですって」
と、大山《おおやま》和代はテーブルに用意がすんで置かれた盆《ぼん》を指した。「珍しく男性が泊り込んだようね」
「ええ、そうなんです。ゆうべ——」
マリが面白がって、ゆうべの出来事を話してやると、大山和代は笑い出した。
「まあ! 見たかったわ。じゃ、恋人ってわけじゃないのね」
「ええ。同じ朝食にすることもなかったんですよ」
「そうね。分ってりゃ——」
「パンの耳だけで良かったのに」
雀《すずめ》のエサじゃあるまいし。ともかく、マリは盆を手に二階へ上って行った。
あの刑事——畑《はた》、とかいったわ。どの部屋で寝たんだろう、結局? ま、加津子《かづこ》さんに伺ってみれば分るわ。
ドアを足で(!)ノックして、
「朝食お持ちしました」
と言って、マリはドアを何とかうまく開けた。「あの——」
マリは危うく盆を落っことすところだった。
男が——あの畑という刑事が、パンツ一つで立っていたのである。
「あ、ごめん——今、やっと服が乾《かわ》いたからって——すぐ着るから」
刑事の方も真赤《まつか》になって、あわてて服を着ている。ズボンを後ろ前にはいて、脱ごうとして転んだりしていた。
マリは、赤くなって、背中を向けていたが、
「もう——大丈夫」
という刑事の声で、
「ここへ一人分、置きますよ」
と、テーブルに盆を置いて、「加津子さんはどこで寝《やす》まれたのかしら?」
「え?——ああ。ここ[#「ここ」に傍点]」
と、刑事が、ベッドを指す。
「え?」
マリは目をパチクリさせて、
「今——シャワーを……」
なるほど、バスルームから、シャワーの音が聞こえている。
「じゃ、あなた……」
マリは信じ難い思いだった。「加津子さんを脅《おど》して、無理に——」
「冗談じゃない!」
刑事はあわてて大声を上げた。「逆だよ! 僕の方が無理矢理《むりやり》に——」
「何ですって?」
「あ——いや、まあ——その、結局、何だかよく分らない内に……」
そう言いながら、刑事は、段々元気がなくなって来て、「えらいことになった……。江美《えみ》……」
と、頭をかかえてベッドにドサッと腰をおろした。
マリは、ゆっくりと歩み寄って、
「江美って……恋人なの?」
と、訊いた。
「うん。でも——こんなことになったら、もう——」
深々とため息をつくと、「江美とは結婚できない!」
「謝《あやま》ったら?」
と、マリは具体的な助言をした。
「いや……。結婚しても、僕はいつまでも十字架《じゆうじか》を背負って生きて行かなくてはいけない」
十字架、ねえ……。マリも相当に浮世《うきよ》離れのした純情人間(いや、天使)だが。この人もかなりのもんだわ、とマリは思った。
「あら、ありがとう」
加津子が、バスローブをはおって、さっぱりした顔でやって来た。「——お腹《なか》が空《す》いた! 運動の後の食事はおいしいのよ」
「おはようございます」
と、マリは言った。「他《ほか》にご用は……」
「今日は忙しいから、よろしくね。それから、この健吾ちゃん[#「健吾ちゃん」に傍点]がね」
と、刑事の肩をポンと叩《たた》く。
「健吾《けんご》ちゃん?」
「そう。健吾ちゃんが、今日は大手柄を立てる日なの。だから、マリさんも協力してあげてね。——ねえ、健吾ちゃん」
チュッと額にキスされて、当の「健吾ちゃん」は、ますます絶望的な気分になった様子だった……。
「殺す?」
と、その男の険しい眉《まゆ》が、ちょっと上った。
「そうだ」
市川和也《いちかわかずや》は、肯《うなず》いた。「〈夜の紳士〉を片付ける。——やってくれるか?」
中村《なかむら》は、ちょっと欠伸《あくび》をして、辛《つら》そうに顔をしかめた。
「朝早いのは苦手だ」
「すまんね」
市川は、車を、公園の傍《そば》に停《と》めていた。ここで話していれば、誰の目も心配することはない。
「今日は忙しいんでね。こんな時間でないと出て来られないんだ」
中村は、ちょっと顎《あご》をさすった。
「盗むだけと、殺しが入るのじゃ、大違いだからな」
「分ってる。謝礼《しやれい》は充分に出す」
「ふむ……」
中村は、なお少し迷っている風だったが、やがてちょっと肩をすくめて、「分った。やろう」
「ありがたい。——もし〈夜の紳士〉が捕まって、金の行方《ゆくえ》が分らないと、容疑がこっちへ向く心配もあるからな。消しておかないと、安心できない」
「それはそうかもしれん」
と、中村は肯《うなず》いた。「しかし、〈夜の紳士〉の死体が残っていたら、妙に思われるんじゃないのか」
「問題はそこだ。奴が殺されてもおかしくないように——。待ってくれ」
と、市川は、車内の電話が鳴りだしたので、話を中断した。「はい、市川です。——社長。おはようございます。——今日の準備《じゆんび》はお任せ下さい」
隣で、中村という男が、声を出さずに笑った。
「はあ。——何ですって?」
市川が、ちょっと面食《めんく》らった様子で、「しかし、それでは——。はあ。なるほど。——いや、それなら結構です。——分りました。先方にはよく説明しておきましょう。では、予定の時間に、そっちへ参ります」
市川は受話器を置いて、ホッと息をついた。
「お宅のボスからか」
「そうだ」
市川は、ニヤリと笑った。「——問題が解決しそうだな」
「ほう?」
「〈夜の紳士〉が今夜やって来るのを、刑事がかぎつけた。警官が張り込むことになった」
「そいつは、まずいんじゃないのか、あんたたちにとっちゃ」
「社長が、交渉したとさ。警察は、〈夜の紳士〉を逮捕することだけが目的なので、例の金については目をつぶる、というんだ」
「なるほど。おたくのボスは、なかなかのもんらしいな」
と、中村は肯いた。
「金をいただくのは、何とでもなる。何しろ金を管理するのは僕だからな」
「しかし、〈夜の紳士〉が、そう簡単に捕まるとも思えないぜ」
「そうさ。当然、逃げるだろう。警官が追う。誰かが撃っても、誰の弾丸《たま》が当ったのか、よく分らないだろうな」
「なるほど。——しかし、そう予定通りにはいかないかもしれないぜ」
「その時は、僕が何とかうまくやる。いいね、君は金を盗んで、奴を消す」
「報酬は倍じゃ合わないね」
と、中村は言って、「しかし、まあこんな面白い仕事は、めったに回って来ないだろうしな。——分った。倍額で引き受けよう」
「そう言ってくれると思った」
市川は、ダッシュボードの時計にチラッと目をやった。「僕はもう行かないとね」
「どう手引きしてくれるんだ?」
「それも考えた。——この車で屋敷へ行く途中、他の車と軽い接触《せつしよく》事故を起こすってのは?」
「悪くない。警官が、事情を訊くために、訪ねて来る」
「そうだ。邸内には、他の警官も大勢いるわけだからな。目立たんだろう」
「よし、分った」
中村は面白そうに、「警官の制服を手に入れておく」
「細かい点は任せるよ」
中村はドアを開けて、車を出た。
「どこか駅にでも送って行こうか」
と、市川が声をかけると、
「いや、歩くよ」
と、中村は言った。「足をきたえないとな。悪い奴は、体が資本だ」
「いいセリフだな」
市川は笑って、「じゃ、屋敷《やしき》へ六時に」
「分った」
中村が、面倒くさそうに手を振って、歩き出す。
市川は車をスタートさせた。
「今日が勝負だ」
と、市川は、自分へ言い聞かせるように、言った。
もし、使い込みがばれたら、細川加津子は容赦《ようしや》しないだろう。会社の名に傷がつくのを恐れて、クビにするだけでもみ消す、といったことはしないはずだ。
しかし、うまく行きそうな予感があった。状況は、市川にプラスに動いている。そうとも。——俺はツイてる男なんだ。
市川は、ぐっとアクセルを踏み込んだ。