「畑さん、電話です」
と、若い刑事が声をかけたが、畑|健一郎《けんいちろう》は返事をしなかった。
眠っていたわけではない。息子の健吾の方とは違って、健一郎は、仕事中に居眠りしたりしない人間である。ただ、今日は特別だった。
迷っていたのである。——もう一時間以上も、机に向って、何もしていない。
「畑さん」
くり返し、呼ばれて、やっと、
「ん?——おい、呼んだか」
「お電話ですよ」
「そうか、誰から?」
「さあ。古いお友だち、とか」
「分った」
「3番です」
健一郎は、目の前の電話を取って、〈3〉を押した。「——もしもし」
「畑健一郎さん?」
よく通る、男の声だ。
「そうですが。どなた?」
聞き憶《おぼ》えのない声だな、と健一郎は思っていた。
「昔なじみだよ」
「昔なじみ?——こっちはね、忙しいんだ。のんびりゲームをやってる暇《ひま》はない。誰なんだ?」
「こっちだって、忙しいのは同じさ」
と、相手は笑って、「今夜の仕事の準備でね」
「今夜の?」
「手袋は用意してあるんだがね」
健一郎は、座り直した。
「お前か。——そうか、本物なのか?」
「本物だよ、正真正銘《しようしんしようめい》の〈夜の紳士〉さ」
と、その声は言った。
「どこからかけてるんだ——まあ、言うわけもないか」
「逆探知《ぎやくたんち》してもいいが、お宅の息子の手柄《てがら》が台なしになるんじゃないのか?」
健一郎が目をみはって、
「どうしてそんなことを——」
「事情《じじよう》通だからね、こっちは」
「妙な小細工《こざいく》はせん。健吾の奴が、きっとお前を逮捕する」
「まあ、結果を見ようじゃないか。俺の方は、金さえ手に入ればいい」
と、〈夜の紳士〉は、のんびりした口調で言った。「しかし、お互い、年齢《とし》を取ったもんだな。あんたの息子が、もう一人前の刑事か」
「全くだ」
と、健一郎は言った。「しかし——二十年もたって、何でまたやる気になったんだ?」
「そのうち分るさ、あんたにも」
と、〈夜の紳士〉は言った。「なあ、畑さん。あんたの息子を見かけたよ。いい若者じゃないか」
「そう思ったら、大人《おとな》しく捕まるか?」
「そうはいかんさ。仕事は仕事。プロだからね、こっちも」
と、〈夜の紳士〉は笑って、「あんたも、細川家へやって来るんだろう?」
健一郎は、少し間《ま》を置いて、
「もちろんだ。行くとも」
と言った。
実は、そのことで、迷っていたのである。自分は行かず、健吾に任せるべきかどうか。しかし一方で、二十年前、〈夜の紳士〉を必死で追いかけた思い出が生々《なまなま》しい。
今の〈夜の紳士〉の言葉で、決心した。
「そいつはありがたい」
と、〈夜の紳士〉は言った。「細川邸で、会えそうだな。もっとも、そっちは会っていても、俺のことが分らないだろうが」
「馬鹿《ばか》言え。手錠《てじよう》をかけて、じっくり顔を眺めてやるからな」
「楽しみにしてるよ。——そうそう、肝心《かんじん》の話をするのを、忘れてた」
「何だ?」
「これは別に、下心があって教えるわけじゃない。面白い話を聞かせよう」
「何のことだ?」
「まあ聞けよ」
と、〈夜の紳士〉は言った……。
「本当にここ?」
と、マリは言った。
「疑《うたが》うのか?」
と、ポチは不服《ふふく》そうに、「せっかく、俺《おれ》がわざわざ後を尾《つ》けてやったのに」
「それぐらいのことで、威張んないでよ」
と、マリは言い返した。「出て来るかなあ、すぐに」
「噂《うわさ》をすれば、だ」
クリニックの白い建物から、あの〈夜の紳士〉こと、池上が姿を見せた。——マリは、その行手に進み出た。
池上は、薬の袋を、上衣《うわぎ》のポケットへしまい込んで、それから、目の前に立っているマリに気付いた。
「君——」
と、目をみはる。「どうしてこんな所にいるんだ?」
「結城江美さんに会いに行って、見かけたんで、尾行して来たんです」
「何だって?」
池上は、ショックを受けた様子で、「本当に尾行して来たのかね?」
「この犬が」
と、マリがポチを指す。
池上は、呆気《あつけ》に取られた様子だったが、やがて、笑い出した。
「いや、ホッとしたよ。君のような素人《しろうと》に尾行されて気付かないんじゃ、恥だからね」
「ここ、病院でしょ? どこか、悪いの?」
と、マリが訊くと、
「まあ、この年齢《とし》だ。少しは故障もするさ」
と、池上は言ったが……。「じゃ、あの娘《こ》に会ったんだね」
「ええ。いい人ですね。でも、あの人の恋人でしょ、畑健吾って刑事」
「そうだ。——まあ、妙な因縁《いんねん》だよ」
「因縁って?」
池上は、少し間を置いてから、マリの肩を軽く抱いた。
「君は天使だったね」
「ええ」
「秘密は守れるかい」
「もちろんです」
「神様に訊かれても?」
「とぼけます」
池上は笑って、
「いや、天国ってのも、なかなか楽しそうな所だね」
と、言った。「死んでも、行けそうにない。残念だな」
「分りませんよ、そんなこと。天国の法は、下界の法と、考え方が違うんですもの。だけど、あなたはまだ——」
「いや」
池上は、歩きながら、首を振った。「もう長くないのさ」
「長くない、って……。どこか悪いの?」
「この薬で抑えているだけだよ」
と、池上は、上衣のポケットを、上から触った。「あと二、三か月の命ってことだ」
「二、三か月……」
マリは唖然《あぜん》とした。
「あの、江美って子は、とてもいい娘でね。あのビルの管理人をやっている私に、ずいぶん親切にしてくれた」
と、池上は言った。「ところが、恋人の刑事が、一向に成績も上げられず、パッとしない。それで、いつまでも結婚できそうもない、と悩んでたんだ。それでね、どうせ死ぬのなら、あの娘のために何かしてやりたい、と思い付いてね。君の住み込んだお屋敷に忍び込んで、あの娘の恋人に捕まってやろう、と思い付いたのさ」
「そんな……」
マリにとっても、すぐには信じられない話だった。——それに、「捕まらない」と言っていたのに……。なぜ急に?
「私、迷ってたんです」
と、マリは言った。「加津子さんが、あの刑事さんに惚《ほ》れちゃって、手柄を立てさせてやるんだって張り切ってるんですもの」
「何だって?」
池上が、唖然とした。「刑事に惚れた?」
「ええ」
「親父の方じゃなくて——あの若い方の刑事に?」
「ええ。刑事さんも困っちゃってるみたい。だから手紙を江美さんに、って、私が届けたんですけど——」
「とんでもない話だ!」
と、突然《とつぜん》池上が怒り出した。「そんな若い男と……。自分の息子みたいな——とまでは言わんが……。あの江美ちゃんの恋人に惚れるなんて、とんでもない! 君も意見してやれば良かったんだ!」
「すみません」
と、マリはあわてて謝った。
「いや……すまん」
と、池上は息をついて、「君はただの雇《やと》い人だからな。意見などできるわけもない」
「はあ……」
どうして急に怒り出したんだろ、この人、とマリは首をかしげた。およそ、クールな大泥棒には似つかわしくない反応である。
「ともかく——」
と、マリが言った。「今夜、お金が届くのは確かです。加津子さんが、あの刑事さんにそう言ってたんですから。でも、警官隊が、あなたを捕まえようとして、待ち構えてるんですよ」
「そうか」
すっかり落ちついた様子の池上は、マリの肩を軽く叩いて、「ありがとう、知らせてくれて。しかし、私のことなら心配いらないよ」
「でも——」
「それより、もし、私のことを知っているのが分ったら、君も共犯ってことになって捕まってしまう。いいかい、これきりで、もう君は私を忘れるんだ」
「そんなこと——」
「君は私に殴られたんだよ。私のことを怒って、恨んでいる。いいね?」
「天使は嘘《うそ》がつけません」
それを聞いて、ポチが、
「嘘つけ」
「社長」
と、市川が声をかけると、居間のソファでウトウトしていた加津子は、目を開けた。
「あら。——市川君。今、来たの?」
と、時計に目をやって、「遅いじゃないの。珍しいわね」
「申し訳ありません」
市川は、額《ひたい》を軽くハンカチで押えて、「ちょっと車をこすってしまいまして」
「車を?」
「下手《へた》なドライバーの車が、急に当って来ましてね。こっちに傷をつけられてしまったんです。警官が来て、なかなからち[#「らち」に傍点]があかなくて。——申し訳ありませんでした」
「それは構わないけど……。もう片付いたの?」
「いえ、色々《いろいろ》うるさいことを言うもんですから。——大事な仕事がある、と振り切って来てしまいました」
「まあ」
と、加津子は笑った。「市川君らしいわ。後で厄介《やつかい》なことにならない?」
「大丈夫です。ご迷惑はかけません」
「自首したいなら、今日はいくらでも警察の人がいるわよ」
と、加津子は言ってやった。
「今度はまた、変った男に興味を抱かれたものですね」
と、市川は、居間のカーテンを閉めながら言った。
もう、外は暗くなっている。
「とっても気が合うの。年齢《とし》の違いも、大して気にならないわ」
と、加津子は上機嫌。「本当に恋してるって気分よ」
「社長がお元気なのは結構です」
と、市川は笑って、「しかし、そろそろお客がみえるころですよ」
「そうね。もう準備は整ってるのよ」
加津子は立ち上って、伸びをした。「お金は?」
「もう着くころです。用心しませんとね」
「例の、〈夜の紳士〉? でも、本当に来るかしら。来てくれないと、健吾ちゃんが逮捕できなくて困るんだけど」
「いや、きっと来ますよ。そういう手合は、プライドが高いですからね。警戒厳重となれば、ますます闘志を燃やして……」
「そう願ってるわ。——マリさんは戻ったのかしら」
「今、台所の方で駆け回ってましたよ」
「そうね。今日はお客が多いから、大変だわ」
「しかし、あの子は〈夜の紳士〉と通じてるかもしれないんですよ」
「まだ言ってるの」
と、加津子は顔をしかめた。「もしそうなら、今夜分るでしょ。——さ、着替えをして来るわ」
「お待ちしております」
と、市川が頭を下げる。
加津子がドアを開けると、大山和代がやって来た。
「今、警察の方が——」
「誰? 健吾ちゃん?」
「いいえ」
と、和代は真面目《まじめ》くさった顔で、「そういう可愛い方ではありません。市川様にご用とか」
「ああ、分ったわ。市川君。あなたを逮捕しに来たようよ」
市川は苦笑して、
「人聞《ひとぎ》きが悪いですよ、社長」
と、言った。
その顔が、かすかに緊張してこわばったことを、もちろん誰も気付かなかった……。