やっと終った!
マリは、ホッと息をついたが、背中は汗でびっしょりだった。
といって、別にこんな夜にマラソンをしていたというわけではない。やっと、夕食がすんで、デザートの器《うつわ》を下げて来たところである。
「お疲れさん」
と、大山和代《おおやまかずよ》が言って、微笑《ほほえ》んだ。「よくやったわね。あんまり私は手を出さなかったけど、どう? 大変でしょ」
「そうですね」
と、マリは正直に言った。「でも——いい気持です!」
「その意気《いき》よ」
と、和代はマリの肩を、軽く叩いた。「一度、頑張《がんば》ってやりとげれば、やればできるんだってことが分るでしょ。——さ、休んでいてね」
「でも、まだコーヒーが……」
「それは私がやるわ」
と、和代は言った。「お客さんたち、もう居間の方へ?」
「今、移られてるところです」
「じゃ、私が運ぶから。あなたは、のんびりしててちょうだい。何なら、すてきなお巡りさんでもいたら、ちょっと空いた部屋に引張り込んだら?」
「まさか」
と、マリは笑った。「じゃ、ここでのんびりしてます」
今日の夕食、和代は実際、台所で指示をするだけで、料理を運ぶのは、ほとんどマリ一人でやったのである。もう一人のメイドの子は、泥棒が入ったと知って、やめてしまっていた。
いつもは料理を作るのも和代だが、今日は特別とかで、外からレストランの料理人を三人も呼んで作らせていた。
料理を運ぶのは、もちろんワゴンにのせてだが、それでも、実際、財界《ざいかい》やら政界《せいかい》やら(とは、和代の言葉で、マリは知らない人ばっかりであるが)、偉い人がズラッと並んだ食卓へ、皿を出すのも容易なことではなかった。皿だって高価なのが一目で分るようなものばかり。
重さもあるが、緊張で、すっかりマリの腕はしびれてしまった。
もう料理人は引き上げて、台所も、和代がコーヒー、紅茶を運んで行くと、マリ一人。
一人になると、急にお腹も空いて、今日の料理の一部がちゃんと残してあるのを、アッという間に食べてしまった。
「——おいしい!」
と、息をつく。
天使だって、おいしいものは好きなのである。——何か忘れているような気がした。何かしら?
それにしても、今日は、客が大勢来て、それに警官、刑事が十人近くも来て……。何だか家の中の温度が少し上ったんじゃないか、という気がする。
問題の「お金」も、一時間くらい前に、届いたようだ。マリは料理を運ぶ時にチラッと見ただけだが、ガードマンが何人もついて、ものものしい警戒。
黒い鉄《てつ》の箱——だか何だか、ともかく頑丈《がんじよう》そうな箱が、一階の、奥の小部屋へと運び込まれて行った。
あんなもの、どうやって盗むんだろう?
マリには、とてもじゃないけど、あの〈夜の紳士〉が、うまく忍び込んで、あれを盗み出すとは思えなかった。きっと諦めるだろう。
きっと……。でも、あの人は、わざと捕まりに来るんだから……。
事情は分っていたが、それでもマリは、〈夜の紳士〉が捕まるところを見たくない、と思った。
特に——あの「健吾ちゃん」だけでなく、いやな父親の方も来ている。あんなのが、得意《とくい》げに〈夜の紳士〉に手錠《てじよう》をかけるのかと思うと、腹が立ってしまうのだ。
まあ、天使があんまり人のことを怒っちゃいけないのだが。ポチとは違うんだからね。
「そうだ! ポチのこと、忘れてた!」
マリは、あわてて、お鍋《なべ》に残った料理を、皿の上に取って、それを手に裏口へとかけて行った。
「——ごめんね! 遅くなって!」
と、犬小屋の中を覗《のぞ》き込むと……、
「何だ?」
ヌッと人の顔が出て来た。
「キャアッ!」
と、マリが叫び声を上げる。
「しっ! 俺は警官だよ。ここに隠れてろ、って言われてるんだ」
と、その男は、ため息をついて、「狭《せま》いんだよな、畜生《ちくしよう》」
そりゃ当然だろう。しかし、ポチは?
キョロキョロしていると、
「こっちだよ」
と、ポチの声。
「何だ、そこにいたのか。——びっくりした」
「こっちこそ、いい迷惑だい」
と、ポチは、木立ちの間に、毛布を敷いてもらって、ふてくされて寝ていた。
「でも、あんたの小屋へ入る人間よりゃ楽でしょ」
「冗談じゃねえや。おまけに、いつまでたっても、夕飯《ゆうめし》は出て来ないし」
「仕方がないでしょ。忙しかったのよ。——はい、今日は特別料理」
「少しこげてるぜ」
「ぜいたく言わないのよ」
それ以上は、ポチもぜいたくを言わなかった。言う間もあらばこそ、きれいに皿を空にしてしまったのだ。
「——凄《すご》いスピード」
と、マリが目を丸くする。
「デザートは?」
「後で。夜遅くなるまで、我慢《がまん》しなさい」
「眠っちまうよ」
「悪魔は夜ふかしなんでしょ」
「地獄じゃ、TVの深夜放送がないんだ」
と、ポチは言った。「例の泥棒はまだかい?」
「時間が早過ぎるんじゃない? でも、お客さんたちも、十二時ごろには帰るっていうから……。お金もその時にはもう分けられちゃってるんでしょうしね」
「すると、これから一、二時間が勝負だな」
「心配だわ」
「なに、俺たちはただの研修生《けんしゆうせい》だぜ。この世の出来事を、ただ面白がってりゃいいのさ」
「あんたみたいに冷たくないの、私」
と、マリは言ってやった。
「——おい」
「何よ? コーヒーも後よ」
「そうじゃない。誰かいるぞ」
「また警官でしょ。かみついてやる?」
「物騒な天使だな」
だが——確かに、マリの背後で、ガサゴソと音がする。マリは振り向いて、
「誰?」
と、声をかけた。「犬をけしかけるわよ」
「待って!——待って、私よ」
女の声。——そして、出て来たのは……、
「江美さん!」
と、マリが目を丸くした。
「びっくりさせるつもりはなかったんだけど、ごめんなさい」
江美は、息を切らしていた。大分イメージの違う、ジーパンスタイル。
「あの……」
「どうしても、彼に会うの。できたら、新しい恋人にも」
「加津子さんのこと?」
「そう。冗談じゃないわ! そんなお金持の気紛《きまぐ》れで、私の大事な恋人をオモチャにされてたまるもんですか」
こりゃ、相当に怒ってるわ、とマリは思った。昼間会ったOLとは別人みたいだ。
「でも、よく入れましたね」
と、マリは言った。
「私、高校のころ、登山やってたの。高い所によじ上るの、得意なのよ」
「じゃ——塀《へい》を越えて?」
「ええ」
「驚いた! だけど、あれは、赤外線《せきがいせん》が通ってるんですよ」
「猫《ねこ》を一匹連れてきたの」
「猫?」
「それに塀の上を歩かせて。警報が鳴るでしよ。みんな駆けつけて来る。その間に、別の所から塀を上って、忍び込むの。みんな、鳴ったのは猫のせいだと思うわ」
「へえ……」
「だけど、切れてるんじゃない? 鳴らなかったわよ」
「あ、そうか。——〈夜の紳士〉が入って来れるように、わざと切ってあるんだわ」
「何だ、せっかく猫一匹|捜《さが》して来たのに。むだだったわ」
「江美さんの方が大泥棒みたい」
と、マリは笑ってしまった。
「——ねえ、彼、どこにいる?」
「あの健吾ちゃん——いえ、畑健吾さんですか? たぶん、中を見て回ってると思いますけど」
と、マリは言った。「でも、お父さんの刑事もいますよ」
「二人で会いたいの。——ね、呼んで来てくれない?」
「でも……」
マリは、少し迷って、「庭にも警官がいるし……。じゃ、中へ入って下さい。中なら、却《かえ》って部屋もあるし」
「いいの?」
「構いません。——どうぞ」
勝手な判断ではあったが、マリは、江美を連れて裏口へと戻って行った。
犬小屋で、くたびれた顔を出していた警官が、
「誰だい?」
と、江美を見て言った。
「知らないんですか? この人、有名な女刑事ですよ」
「へえ……」
マリは、さっさと江美を屋敷の中へ入れてしまった。
「あ、ちょっと隠れて!」
マリは、江美を、廊下《ろうか》の隅の暗がりへと押しやった。和代がやって来るのが見えたからだ。
「あら、マリさん?」
「はい」
「どこへ行ってたのかと思ったわ」
「すみません。ポチにエサを」
「あ、そうだったわね。お腹空かしてたでしょ。——今ね、クッキーを焼いたの。ちゃんとできるかどうか見ててちょうだい」
「あ——はい」
仕方ない。マリは、一旦、台所へと急いだ。
江美はきっとじっと待っているだろう。
でも、恋人のためと思うと、人間って、ずいぶん大胆なことをするもんなのね。
——さて、残された江美は、残念ながら、おとなしく待ってはいなかった。ともかく、カッカ来ていて、早く健吾に会って、胸ぐらをつかんでぶん殴って——いや、優しくキスしてやりたかったのである(?)。
そろそろと廊下を進んで行く。ともかく広い屋敷だ!
「迷子《まいご》になりそう」
と、江美は呟《つぶや》いた。
誰か来る!——江美は、壺《つぼ》を飾った棚《たな》の陰へと身を隠した。
男が二人。——一人は警官の制服だ。
「いいな」
と、背広姿の男の方が言った。「あと一時間ある。その間だ」
「分ってる」
と、答えた警官は、帽子を目深《まぶか》にかぶって、顔はよく見えない。
「うまくやってくれ」
と、背広の男が、ポンと警官の肩を叩いて、戻って行く。
警官は、途中から角を曲って姿が見えなくなった。
何だろう、今のは? ひどく秘密めかした言い方が、江美には気になった。
でも、そんなこと、私には関係ないんだわ。今はともかく、健吾さんを捜すのが先決《せんけつ》!
歩き出そうとすると、大きなドアが開いて、女が出て来た。
「じゃ、皆さんに、お飲物《のみもの》をね」
と、さっきマリに用を言いつけていた女へ、言葉をかける。
「加津子様は——」
「私はね、ちょっと息抜き」
「かしこまりました」
「一時間したら、呼んでちょうだい」
「その間、お客様は——」
「TVでも見せとけば?」
子供扱いしている。「それからね」
「はあ」
「健吾ちゃんを捜して、寝室へ来てくれ、と伝えてちょうだい」
江美はドキッとした。——この女なんだわ、あの人を誘惑したのは。
でも——やっぱりすてきだわ、この女《ひと》。
もちろん、年齢《とし》は行っていても、発散《はつさん》している雰囲気《ふんいき》は「女」そのものだ。しかも、生ぐさくない、というか、洗練《せんれん》されたものを持っている。
江美としても、健吾がこの女にフラフラッとしたのは仕方ない、という気がする。しかし——ずっと[#「ずっと」に傍点]はだめ!
「よろしいんですか。今はお仕事中では」
「健吾ちゃんが? いいのよ。この家の主人と、警備について綿密《めんみつ》な打合せをすることも必要だわ。ね、ちゃんとすぐに捜して伝えてよ」
「かしこまりました」
二人の女が、別々の方へと歩いて行く。
江美は、あの女——細川加津子だったわね、確か——を尾けてやろう、と決めた。
二階へ上って行く。その足取りの軽いこと。歌など口ずさんで……。
いい気なもんだわ、全く。
江美は、階段を上って、加津子が入って行く部屋のドアを確かめた。
警官が何人もいるっていうけど……。どこにいるんだろう?
それがちょっと不思議だった。
廊下を歩いて行き、加津子の入ったドアの前で足を止める。ちょっと左右を見回してから、ドアの中の様子をうかがうと——。
しばらく何の音もしなかったが、やがて水の流れるような音……。
シャワーだわ。
江美は、ちょっとためらってから、
「構やしないわ」
と、呟いて、ドアをそっと開けた。
広い寝室。——江美など目をみはるような大きなベッド。
奥のドアが半開きで、その向うがバスルームらしい。シャワーの音と、相変らず楽しげな歌が聞こえて来る。
江美は、後ろ手にドアを閉めた。——今に、健吾がやって来るだろう。
二人が優しく抱き合って。冗談じゃないわ!
飛び出してって、思い切りひっかいてやるから!
「猫を連れて来りゃ良かった」
と、江美は呟いた。
ともかく——その時まで、どこかに隠れていよう。
戸棚がズラッと壁を埋めていて、その一つを開けてみると、パーティなどで着るようなドレス。
シャワーを浴びて、すぐにこんな物を着ることもあるまい。江美は、その戸棚へ入って、そっと扉を閉めた。
スリットが入っているので、少し明りが入って来るし、目を当てると、部屋の中の様子も分る。
さて……。江美は、じっと床に座り込んだまま、健吾が入って来るのを待っていた。
カチャリ、とドアのノブの回る音。——江美が目をこらすと、ドアが開いて……。
健吾ではない。警官だ。制服姿で……。誰だろう?
その時、シャワーの音が止った。
警官は帽子を取ったが、戸棚《とだな》の方に背中を向けているので、顔は見えなかった。
「——ああ、気持いい!」
加津子が、バスローブ姿で入って来ると、
「——誰なの?」
と、足を止めた。
「いつまでも若いな」
と、その警官が言った。
その声……。江美には聞き憶えがあった。どこで聞いた声だろう?
「何ですって?」
と、加津子が呟くように言って、「——あなた」
よろけて、加津子がベッドにドサッと腰をおろしてしまった。目を大きく見開いて、まるで幽霊《ゆうれい》にでも会ったようだ。
「あなたなのね!」
「久しぶりだな」
と、その男が、ゆっくりと加津子の方へ歩み寄って、顔が江美にも見えた。
江美も、思わず声を上げそうになった。
——おじさん!
池上浩三なのだ。——江美は、唖然《あぜん》として、息をするのも忘れそうだった……。