終った!
フウ、と、明子は息をついた。
全くもう——忙《いそが》しい一日だった。それに、この式場たるや、経《けい》営《えい》者《しや》がガメツイので、早目に仕事の終る者は、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の方を手伝わねばならない。
「ご苦労さん」
と、声をかけて来たのは、主《しゆ》任《にん》の保《ほ》科《しな》光《みつ》子《こ》である。
「どうも」
「疲《つか》れたわ、今日は」
と、保科光子も、ドサッとソファに並《なら》んで腰《こし》をおろす。
保科光子は、三十代の後半——だろう、と明子は考えている——の、独《どく》身《しん》女《じよ》性《せい》。
よく仕事もでき、それでいて、カリカリしたところがない。
「明子さんのおかげで助かるわ」
と、光子は言った。
「保科さんも大変ですね。たまには休みでも取ったら?」
他の主任の中には、わざわざ、
「主任さん」
と呼《よ》ばせる人もいるが、保科光子はそんなことはしない。
その点も、明子は大いに気に入っているのである。
「私なんか独《ひと》り暮《ぐら》しだもの」
光子は笑《わら》って、「休み取ったって、することもないし。——却《かえ》って、忙《いそが》しくて目が回りそうな方が楽でいいのよ」
と手を振《ふ》った。
そんなものかな、と明子は思った。しかし、気楽そうに振《ふる》舞《ま》っているこの人の、どことなく寂《さび》しげな陰《かげ》の部分。
明子は、そんなものを、感じることがあるのだった。
「そうそう」
と、光子が言った。「花《はな》嫁《よめ》さんに逃《に》げられちゃった人、どうした?」
「ああ。結局披《ひ》露《ろう》宴《えん》は、一人でやったみたいですよ」
「一人で?」
「ええ。『花嫁が疲《ひ》労《ろう》で倒《たお》れまして』とか言って。——客の間じゃ、きっとあれはつわりだ、って言い合ってましたけど」
「冴《さ》えない話ね。どうする気なんだろ。でも、こっちにはもう関係ないけど」
と光子は欠伸《あくび》をした。
「——あ、そうだ!」
と、明子が手を打った。
「どうしたの?」
「忘《わす》れてたわ。あのウエディングドレス、控《ひかえ》室《しつ》に置いたまま——」
「貸《かし》衣《い》裳《しよう》? じゃ、しわにならない内に、戻《もど》しておかなくちゃ」
「そうですよね。取って来ます」
「私も行くわ。どうせ式場の点《てん》検《けん》があるものね」
明子と光子の二人は、式場の方へと足を早めた。明子は控《ひかえ》室《しつ》のドアを開けた。
明りが消えていて暗い。——手《て》探《さぐ》りで、スイッチを押《お》す。
チカチカと蛍《けい》光《こう》灯《とう》が点《てん》滅《めつ》して、明るくなると、明子は、
「キャッ!」
と声を上げた。
「どうしたの?」
保科光子も覗《のぞ》いたが、「まあ——」
と言ったきり、絶《ぜつ》句《く》。
そこには、花《ヽ》嫁《ヽ》が座っていた。
明子がここへ脱《ぬ》いで置いて行ったウエディングドレスを着て、じっと顔を伏《ふ》せている。
「ああ、びっくりした」
明子は、胸《むね》を押《おさ》えて、「帰って来たんですか? もうとっくに披《ひ》露《ろう》宴《えん》も終っちゃいましたよ」
と言った。
ふと、明子は妙《みよう》な気がした。
この花《はな》嫁《よめ》は、うつむいたきり、一向に動かないのだ。——そういえば、ヴェールがかかってはいるが、あの、逃《に》げた女とは別人のようにも思える。
「何だか変よ」
と、光子が言った。
「そうですね……。あの、ちょっと——」
明子は近づいて、花《はな》嫁《よめ》の肩《かた》を、軽く叩《たた》いてみた。
すると——花嫁がゆっくりと動き出したのである。
立ち上った、というのならともかく、座ったまま、真横へと、体が傾《かたむ》き始めたのだ。明子は、愕《がく》然《ぜん》としていた。
その花嫁は、そのまま、ゆっくりと勢いをつけ、椅《い》子《す》から落ちながら、床《ゆか》に倒《たお》れてしまった。
まるで、スローモーションの画面を見ているようだ、と明子は思った。
いや、そんな呑《のん》気《き》なことを言っている場合じゃない。大変だ。何とかしなきゃ。
思うばかりで、体が動かない。
さすがに、光子の方が素《す》早《ばや》く動いた。
倒れた花嫁へ駆《か》け寄《よ》って、ヴェールを上げる。明子は、息を呑《の》んだ。
カッと見開いた目。半ば開けた口、土気色の顔。——死んでいるのだ、と直感的に分った。
「明子さん! 救急班《はん》へ、早く!」
と、光子が叫《さけ》ぶように言う。
「はい」
明子は控《ひかえ》室《しつ》を飛び出して、廊《ろう》下《か》を走った。そして、走りながら、あの女《じよ》性《せい》は、逃《に》げ出した花嫁とは違《ちが》う、と気付いていた。
「妙《みよう》な話だな」
部長の村川が、渋《しぶ》い顔で言った。
大体いつも飛びきりの渋いお茶をがぶ飲みしているような顔なので、あまり変化はなかった。
「身《み》許《もと》は分らないのか」
と村川は、保科光子へ訊《き》いた。
「証《しよう》明《めい》書《しよ》とか、その類《たぐい》の物を何も持っていないんです」
と、光子は言った。
「しかし……うちの控《ひかえ》室《しつ》で死ぬことはないじゃないか!」
いかにも村川らしい言い方に、こんなときでも、明子は吹《ふ》き出しそうになってしまった。
「警察へは?」
「連《れん》絡《らく》しました。もう来ると思いますけど」
と、光子が答える。
村川はムッとしたように、
「私に相談してからにすべきじゃないか!」
と言った。
「通《つう》報《ほう》は当然だと思います」
と、光子はひるむことなく言い返した。
「そりゃまあ……。しかしだね、これが人目についたら——」
「裏《うら》口《ぐち》へ回っていただくように、お願いしてあります」
「そ、そうか。——そうならそうと言えばいいのに」
村川は咳《せき》払《ばら》いをして、「ところで、私はちょっと、これからどうしても外せないパーティがある。できるだけ早く戻《もど》って来るが、もし——」
「どうぞ、ご心配なく。警《けい》察《さつ》の方は私に任《まか》せておいて下さい」
「そうかね? じゃ、よろしく頼《たの》むよ」
村川が、早々に行ってしまうと、
「だらしない人!」
と、光子は肩《かた》をすくめた。
「怖《こわ》いのかしら」
と明子が言った。
「自分の責《せき》任《にん》になるのがいやなのよ。責任逃《のが》れ。お得《とく》意《い》だわ」
「でも——どうしたらいいんでしょう?」
「仕方ないじゃない。警察の人に任せておくしかないわ」
光子は、時計を見て、「もう来ると思うんだけど……」
「私、行って見て来ます」
「いいわ。ここにいてくれる? 私が行って来るから」
「はい」
明子は肯《うなず》いた。
死人のそばで待っているというのも、いい気持じゃないが、大して長いことでもあるまい。
でも、この花《はな》嫁《よめ》、一体どこの誰《だれ》なのだろうか?
明子は腕《うで》を組んで考え込《こ》んだ。
ともかく、今日、式を挙げた、本《ヽ》物《ヽ》の花嫁でないことは確《たし》かである。花嫁が一人余《あま》るなんてはずがない。
それに、ドレスはたまたまここに置いてあったものである。
ということは、何かの用でここへ来て、たまたまドレスを見付け、着てみた、ということになる。
しかし、それで、なぜ死んでしまったのか? 死《し》因《いん》はまだ分らないにしても……。
もう一つ、妙《みよう》なのは、ドレスを着るために脱《ぬ》いだはずの服《ヽ》が《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ことだ。面白半分にでも着たのなら、その辺に服や持物があるはずではないか。
だが、何の理由もなく、こんな所の、こんな奥《おく》にまで来て、自殺するという物《もの》好《ず》きがいるだろうか?
「もしかしたら……」
と、明子は呟《つぶや》いた。
これは殺《ヽ》人《ヽ》かもしれない。
「すると、まるで見《み》憶《おぼ》えがない?」
刑《けい》事《じ》が、欠伸《あくび》をかみ殺しながら訊《き》いた。
明子は少々呆《あき》れながら、
「ええ、私は全然」
と答えた。
「私もです」
と、光子が言った。
「しかし、ここで死んでるからには、何か理由があるんだよね」
「そこまで、私どもには——」
「うん。しかし……初めて来た人なら、こんな部《へ》屋《や》に入らないんじゃないか?」
「それは分りませんわ。色々なお客がいらっしゃいますもの」
と光子が言った。「他の方の式へ平気で入りこんだり、ドアを見ると、片《かた》っ端《ぱし》から開けて行ったり……。ここへ入っても不思議はありません」
「なるほど。——今日は何組の式があったんだね?」
「十二組。——本当に忙《いそが》しくて」
「客の顔なんかが頭に浮《う》かぶことは?」
「無《む》理《り》です。全部のお客様は、とても……」
「何か、今日の式で、変ったことはなかったかな?」
「いえ、特《とく》には——」
と光子は言った。
「ただ——」
と明子。
「ただ? 何なんだい?」
「式の直前に逃《に》げちゃった人がいます」
「その人は——女《じよ》性《せい》?」
「はい。このドレスは、その人が借りていたものなんです」
「それを被《ひ》害《がい》者《しや》が見付けたのか。なるほどね」
「被害者ですか?」
と、光子が訊《き》き返した。「じゃ、あの人は殺されたということなんですか」
「ああ、いや——」
と、刑《けい》事《じ》はあわてて、「そういうわけじゃないんだ。ただ、一《いち》応《おう》はね、疑《うたが》ってみないと……」
現《げん》場《ば》は写真におさめられ、さらに色々と調べられていた。
明子は、物《もの》珍《めずら》しさも手伝って、熱心に、その様子を眺《なが》めていた。
「待たせたね」
と、声がして、初老の男が、フラリと入って来た。
検《けん》死《し》官《かん》であることを、明子は後で聞かされたのだった……。