「どうです?」
と、刑《けい》事《じ》が訊《き》いた。
「うーん」
と、その初老の男は唸《うな》った。
死体を前にしているので、唸ってもおかしくない。
明子は、部《へ》屋《や》の隅《すみ》に立って動かなかった。
主《しゆ》任《にん》の保《ほ》科《しな》光子が、
「明子さん、用があるなら、帰ってもいいわよ」
と言ってくれたが、明子としては別にそう急ぐわけでもなく、それに少々大切な用があったって、こんな風に殺人(かどうか、はっきりしないが)の現《げん》場《ば》に出食わすなんて、めったにないことなのだから、動く気はなかった。
「いいえ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。見《み》届《とど》けたいわ、せっかくですもの」
「若《わか》いのね」
と、光子はちょっと笑《わら》った。
「あの人、何かしら?」
と、明子は低い声で言った。
「あの、年取った人? きっと偉《えら》い人よ。警《けい》部《ぶ》さんとか——」
「それにしてはパッとしないけど」
「大体そんなものじゃない?」
二人はあわてて口をつぐんだ。その初老の男が二人の方へやって来たのだ。
「死体を発見したのは……」
「私たちです」
「そうですか」
と、その男は肯《うなず》いた。「いや、びっくりしたでしょう」
「ええ、まあ……」
と、光子が言った。
「私も昔《むかし》、若《わか》かったころですが、初めて死体を見てひっくり返ったことがあります」
「はあ」
「それに比《くら》べると今の若い方は落ち着いておられる」
光子と明子は顔を見合わせた。
——何だかずいぶんのんびりしたおっさんだわ、と明子は思った。
「私はそう若くありませんけど」
と光子が言うと、相手はちょっとキョトンとして、それから笑《わら》い出した。
「冗《じよう》談《だん》を言ってはいけません! あなたなど、私から見りゃ娘《むすめ》のようなものだ」
光子たちも仕方なく苦《く》笑《しよう》した。
——どうなってるの?
「先生、どうなんですか?」
と刑《けい》事《じ》の一人が、しびれを切らした様子で、やってきた。
「や、済《す》まん。——しかし、ここでは結《けつ》論《ろん》が出んよ。要するに変死だ」
「先生にはかなわないな」
と刑事は苦《く》笑《しよう》して、「じゃ、早いとこ結論を出して下さいよ」
「ああ分ったよ。しかし、晩《ばん》飯《めし》ぐらい食わせてくれ」
その「先生」は、来たときと同じようにフラリと出て行った。
「あの——」
と、明子が刑事に声をかけた。
「今の方はお医者さんですか?」
「検《けん》死《し》官《かん》ですよ。変ってましてね。名物なんです。志《し》水《みず》さんといって。——あれ、戻《もど》って来た」
その検死官、明子たちの方へ戻って来ると、
「さっき訊《き》き忘《わす》れましたが、この死体を見つけたとき、何か変ったことには気付きませんでしたか?」
「変ったことって……別に。ともかく、死体に気を取られて」
「なるほど、無《む》理《り》もありませんな。——服はなかったですか?」
「ええ、この通りです」
「そうか。——分りました。では」
と、さっさと出て行く。
「あれで結《けつ》構《こう》優《ゆう》秀《しゆう》なんですよ」
と刑《けい》事《じ》が言った。「ただ、時々、とんでもないことを言い出しますけどね」
「あら、また——」
と光子が言った。
検《けん》死《し》官《かん》は、また戻《もど》って来ると、
「言い忘《わす》れた。私は検死官の志水。『清い水』でなく、『志《こころざし》のある水』です。お名前は?」
「は——あの——保科光子です」
「私は、永戸明子」
「そうか! では、これで失礼」
と、今度はまたのんびりと、散歩でもしに行くように、出て行った。
明子と光子は、ポカンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。
「——変った人でしょ」
と、刑事が言った。
それから、
「きみ、もう運び出してくれ」
と声をかける。
「あの——その衣《い》裳《しよう》、うちの貸《かし》衣《い》裳《しよう》なんですけど」
と、光子が言った。
「そうですか。しかし、何しろ重要な証《しよう》拠《こ》ですので」
「じゃ、上司にその旨《むね》を説明していただけませんか」
「分りました。じゃ、案内してもらえますか」
——光子が刑《けい》事《じ》と一《いつ》緒《しよ》に控《ひかえ》室《しつ》を出て行く。
明子は、ウエディングドレスの、名も知らぬ女《じよ》性《せい》が運び出されるのを見ていた。
何となく侘《わび》しい光景である。——一体、あの女性がどういうつもりでここへ入り込《こ》んだのか、そしてなぜあの衣裳を身につけたのか、明子には知るすべもないが、いずれにしても、幸福を包むべきあの白い服が、今は死に装《しよう》束《ぞく》になってしまったわけだ。
死体の顔も、一目見たときはギョッとして、あまり良く見なかったが、慣《な》れて来てよく見ると、ずいぶん若《わか》い。
たぶん明子と同じくらい——せいぜい二つ三つしか違《ちが》うまい。
あの若さで死ぬなんて。
何だか、明子は、虚《むな》しい気分になって来てため息をついた……。
「——お待たせ」
と、光子が出て来た。
従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》出入口を出ると、もうすっかり外は暗くなっている。
「とんだ残業だわ」
と光子は、薄《うす》い地味なコートをはおって、首を振《ふ》った。「手当はつかないし」
「でも、面白かったわ」
と言ってから、明子はあわてて、「もちろん、亡《な》くなった人は気の毒ですけど——」
と付け加えた。
「分るわ」
光子も微《ほほ》笑《え》んだ。「あんなこと、目の前で見るのなんて、めったにないことですものね」
「そうですね。——どうかしら? 殺人だと思います?」
明子は歩きながら言った。
「そうね、いずれにしても殺人じゃない?」
「いずれにしても、って?」
「直《ちよく》接《せつ》手を下して殺したか、それとも彼女《かのじよ》が自殺したのか、それは分らないけど、たとえ自殺だとしても、あんな所で死ぬからには、きっと男に捨《す》てられたかどうかしたんでしょう」
「そうでしょうね」
「それなら殺人も同じよ。罰《ばつ》せられないだけ、罪《つみ》が深いわ」
光子の話し方は、いやに真《しん》剣《けん》だった。明子は、おや、と思ったものだ。
しかし、光子はすぐにいつもの笑《え》顔《がお》に戻《もど》った。
「さあ、私、どこかで夕ご飯を食べて帰らないと」
「保科さん、お一人でしたっけ」
「そうなの。つまらないもんよ、一人暮《ぐら》しなんて。あなたはご両親と、でしょ?」
「ええ。口やかましくて困《こま》ります」
「一人でいると、その口やかましいのが恋《こい》しくなるわ。じゃ、また明日」
と、光子は手を振《ふ》って別れて行った。
「さよなら!」
元気に言って、明子は少し足を早める。
これで帰ると、たぶん家につくのは九時ごろだろう。
両親が心配するといけない、と明子は足を早めた——というのは表向きで、本当はお腹《なか》が空《す》いていたのである。
駅へ入ろうとして、明子は定期券《けん》を出そうとバッグを探《さぐ》った。
「あれ?」
入っていない。——おかしいな。
ここから出した憶《おぼ》えはないのだけれど。
「変だな」
と引っかき回していると、
「失礼」
と声をかけられた。
「はあ」
「これを落としませんでしたか?」
それは明子の定期券《けん》だった。
「あ、すみません」
「いえ」
若《わか》い男だった。——定期入れを明子へ渡《わた》すと、そのまま行ってしまう。
「ああ、良かった」
と、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を入りかけて、ふと、おかしいな、と思った。
今の男、駅から、明子がやって来た方向へと歩いて行った。——すると、この定期入れを、どこで拾ったのだろう?
明子は振《ふ》り向いた。もう男の姿《すがた》は見えなかった。
「お帰り」
母の啓《けい》子《こ》は、大《おお》欠伸《あくび》をしながら言った。「早いね、今日は」
「皮肉ばっかり言って」
と、明子は言った。「娘《むすめ》が労働に疲《つか》れて帰って来たというのに!」
「何を気取っているの。——お腹《なか》は?」
「飢《う》え死にしないのが奇《き》跡《せき》よ」
「大げさだね。——電子レンジで温めるから待っといで」
明子の「強さ」は、どうやら、この母譲《ゆず》りである。
ともかく、がっしりしていて、大きい。頼《たよ》りがいがあるという感じだ。
「お父さんは?」
「出《しゆつ》張《ちよう》」
「へえ。——じゃ、帰って来ないのか。ねえ、今日、殺人事《じ》件《けん》があったのよ」
「ふーん、そう」
と、啓子は一向に気にしていない様子。
「びっくりしないの?」
「どうせTVか映画の話だろ」
「違《ちが》うのよ!」
明子は、詳《くわ》しく説明した。「——きっとあの人、殺されたんだと思うわ。私が死体を発見したのよ!」
劇《げき》的《てき》効《こう》果《か》のために、明子は自分一人で死体を見付けたことにしたのである。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
と、啓子が心配そうに言った。
「何が?」
「そういうときは、死体を見つけた人が疑《うたが》われるんだよ。何か悪いことをしていたら、今の内に白《はく》状《じよう》しておきなさい」
「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ!」
と、明子は顔をしかめた。
手早く食事を取ると、明子は風《ふ》呂《ろ》へ入った。
明子は——ここはあくまで湯気の白い幕《まく》を通して見ていただきたいが——なかなかいいプロポーションをしている。
細身だが、やせているのでなく、締《しま》っている体つきの良さだ。
ところで明子の欠点——というほどでもないが——の一つは、長風呂である。
「もういい加《か》減《げん》に出なさい」
と、啓子に言われて、それから二十分はかかる。
これが自然に美《び》容《よう》にプラスしているのかもしれない。
「化《け》粧《しよう》石ケンか」
と、明子は呟《つぶや》いた。
明子は一番安物の白い石ケンが好《す》きなのである。やたら香《かお》りの強い石ケンでは、その匂《にお》いの残るのが気になった。
そんな風だから、色っぽさに少々欠けているのかもしれない。
石ケンの匂《にお》いをからだに漂《ただよ》わせているのは好《す》きだが、香《こう》水《すい》の匂いをプンプンまき散らしているのは苦手だ。
大体あんなのは、当人だけが喜んでいて、周囲は迷《めい》惑《わく》してるものなんだから……。
「——そうだ!」
と、明子は思わず口走った。
あの、定期入れを拾った男。——いや、本当に拾ったかどうか怪《あや》しいものだが、あの男、いやに香水をプンプンさせていた。
男のくせに、とチラッと思ったのを思い出したのだ。
男があんなに香水をふりかけることってあるかしら?
しばらく考えて、思い当った。
——結《けつ》婚《こん》式《しき》だ!
「明子! いつまで入ってるの!」
いつもの通り、啓子の声がした。