明子は走っていた。
いや——正《せい》確《かく》に言うと、歩いていた。
ただ、その勢いが、あまりに迫《はく》力《りよく》を感じさせたので、まるで走ってるみたいだったのである。
廊《ろう》下《か》ですれ違《ちが》った者は、みんな思わず振《ふ》り向いたし、仕事をしていて、明子に気付いた者は、しばし手を休めて、その姿《すがた》を目で追っていた。
まるで、式場の中に、つむじ風でも巻《ま》き起こそうとしているかのような勢いで、明子は、絨《じゆう》毯《たん》を踏《ふ》んで行った。
目指すは、〈社長室〉である。
およそ社長に呼《よ》ばれるような用のない明子も、社長室の場所ぐらい知っている。
ドアが近づいてきた。行進曲が聞こえて来ないのが、不思議なくらいである。
ドアがびっくりしそうな勢いで、明子はぐいと開けた。
正面に机《つくえ》があり、秘《ひ》書《しよ》らしい娘《むすめ》が仕事をしていた。明子が入って行くと、びっくりして顔を上げ、
「あの——何か——」
と、言葉も出ない様子。
「社長は!」
明子は怒《ど》鳴《な》るように言った。
およそ、「訊《き》く」という感じではない。
「私だが」
横のほうで声がした。——わきにもう一つ机があり、そこに、六十ぐらいの、ちょっと貧《ひん》弱《じやく》な老人が座っていた。
「そんな所に隠《かく》れてたのね」
と明子は言った。
「私の席はもともとここだ」
と、社長は立ち上って、「君は何だ? 制《せい》服《ふく》を着とるところを見ると、うちの社員だね?」
「ほんの二分前まではね」
と言ったと思うと、明子は、社長につかつかと歩み寄《よ》り、「エイッ」
と声を発した。
どこをどうやったのか、社長の体はみごとに一回転して、床《ゆか》にドシンと落下した。
分《ぶ》厚《あつ》いカーペットの上だったので、助かったが、そうでなければ、キュッといっていたかもしれない。
「社長!」
と、女《じよ》性《せい》秘《ひ》書《しよ》が駆《か》け寄《よ》ってくる。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「う、うん……何とか……生きとるようだ……」
社長は腰《こし》を押《おさ》えつつ、起き上った。「この女は何だ!」
「はい、すぐにガードマンを——」
と秘《ひ》書《しよ》が飛び出して行くのを、明子は止めようともしなかった。
社長の方はハアハアいいながら、椅《い》子《す》に戻《もど》って、ぐったりと座り込《こ》んだ。そして、明子が、腕《うで》組《ぐ》みをして立っているのを見ると、
「どうして逃《に》げんのかね?」
と訊《き》いた。
「自分のしたことの責《せき》任《にん》は取ります」
と明子は言った。
「そうか」
「正しいと思ったことをやったんだから、なおさらです」
「フム」
社長はハンカチを出して口を拭《ぬぐ》うと、「ところで、君は正しいことをやって満足かもしれんが、私にも説明してくれんかね。なぜ自分が投げ飛ばされたか知りたい」
「投げ飛ばすなんて、オーバーな」
と、明子は言った。「ちょっとひねっただけです」
「まあひねりでもいいがね——」
「じゃ、申し上げます」
と、明子はピンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばして、「三日前、こちらのベテラン従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》、保《ほ》科《しな》光子さんが亡《な》くなりました」
「ああ、刺《さ》し殺されたそうだね。気の毒だった。私はちょうど出《しゆつ》張《ちよう》中《ちゆう》だったが。犯《はん》人《にん》はまだ見つからないとか?」
「そのようです」
「で、それが何か関係があるのかね?」
「彼女《かのじよ》には死亡による退《たい》職《しよく》として、退職金が支《し》払《はら》われました」
「当然だな」
「ところが」
と、明子がぐっと身を乗り出したので、社長はあわてて椅《い》子《す》ごと後ろへ退《さ》がった。「——その退《たい》職《しよく》金《きん》から、五十万円も、差し引かれていたんです! 何のお金だと思います? 保科さんが倒《たお》れて、その血でロビーのカーペットが汚《よご》れたから、買いかえた、その代金ですって! こんな馬《ば》鹿《か》な話ってありますか?」
明子の顔は、真っ赤になった。
「誰《だれ》が、刺されたときに、いちいち倒れる場所のことなんか考えてられますか! それを退職金からさっぴくなんて、人間のすることじゃありません!」
社長は、じっと明子を見ていたが、
「そんなことがあったのか」
と肯《うなず》いた。
「知らなかったふ《ヽ》り《ヽ》してもだめです! ちゃんと部長の村川さんが『これは社長の命令だ』と言ったんですからね!」
そこへ、ドタドタと足音がして、ガードマンが駆《か》けつけて来た。
「この女です!」
と、秘《ひ》書《しよ》が叫《さけ》ぶ。「社長に暴《ぼう》行《こう》を働いたんです」
「そうか。おい、一《いつ》緒《しよ》に来い。警《けい》察《さつ》へ引き渡《わた》してやる」
とガードマンが腕《うで》を取ろうとするのを振《ふ》り切って、
「触《さわ》るな! 行くわよ!」
と明子はさっさと歩き出した。
「待ちなさい」
と、社長が止めた。「もういい。ご苦労さま」
「はあ?」
ガードマンが面《めん》食《く》らって、「しかし、この女が——」
「無《む》理《り》もないのだ」
と社長は肯いて、「私がしつこく言い寄《よ》っていたので、彼女《かのじよ》が手を払《はら》ったら、私は軽いので一回転してしまった。——騒《さわ》がせてすまない。もう引き取ってくれ」
ガードマンは呆《あつ》気《け》に取られながら、戻《もど》って行ったが、もっとびっくりしたのが、当の明子で、
「——何のつもりです?」
「いや、これから昼食に出ようと思っていたんだ。一《いつ》緒《しよ》にどうかね」
明子は、社長をにらんで、
「警《けい》察《さつ》に引き渡《わた》さない代りに、言いなりになれ、なんて言ってもだめですよ」
「まだ命は惜《お》しいよ」
と、社長は笑《わら》い出した。「さあ、おいで」
結局、一番わけが分らないのは、残された秘《ひ》書《しよ》であった。
「——そのお金はすぐ遺《い》族《ぞく》へ返すよ」
と、社長はナイフを握《にぎ》りながら言った。「村川にも、きつく言っとかなくちゃいかんな。仕方のない奴《やつ》だ」
「お願いします」
と、明子は言って、「ついでにもう一つ——」
「何だね?」
「デザートにアイスクリームを取ってもいいでしょうか?」
社長は笑い出した。
「いいとも! 好《す》きなものを食べたまえ」
いつもの社員食堂とは違《ちが》って、かなり上等な店なのである。
「すみませんでした、早とちりして」
と明子は言った。
「いや、君には感心した。なかなかそこまで同《どう》僚《りよう》のことを思いやることはできないものだよ」
「誰《だれ》かに刺《さ》されて、犯《はん》人《にん》も分らないなんて、あんまり可哀《かわい》そうで」
「そうだねえ。そういえば、この前、うちの控《ひかえ》室《しつ》で死んでいた女《じよ》性《せい》は——」
「まだ身《み》許《もと》も分らないみたいで——」
と言いかけて、明子は、「あら」
と声を上げた。
店に入って来てキョロキョロしているのは——確《たし》かに、あのときの検《けん》死《し》官《かん》だ。
「志水さん。ここです」
「ああ、ここにいたのか」
志水は、足早にやって来た。「ここじゃないか、と聞いて」
明子は、社長と志水を互《たが》いに紹《しよう》介《かい》した。
志水もすすめられるままに席につく。
「あの女性の身許がやっと分りましてね」
と、志水は言った。
「まあ、良かった」
「地方から一人で上京して来た娘《むすめ》でね。名前は、茂《も》木《ぎ》こず枝《え》。小さな会社のOLだったらしい」
「それがどうして——」
「あれは自殺かもしれんのですよ」
「自殺?」
「薬を服《の》んでいる。もちろん、一服盛《も》られた可《か》能《のう》性《せい》はあるが、自殺とも考えられる」
「でも、彼女《かのじよ》の服や荷物がありませんでしたよ」
「それが気になりますな。しかし、結《けつ》論《ろん》として、自殺とみなすことになってしまったのでね」
「そんなこと……」
「警《けい》察《さつ》としては手が出ない。一《いち》応《おう》それをお知らせしたくてね」
「自殺だなんて思えません。だって、それなら、男への当てつけに死んだわけでしょ? それなら、名前や身《み》許《もと》をはっきりさせるはずですよ」
「私もそう思うがね。しかし、こうなってしまったので……」
「役所って、それだから嫌《きら》い」
と、明子は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》になって、言った。
「それは問題ですな」
と、社長が言った。「つまり、うちの式場で、挙式した花《はな》婿《むこ》の一人が、その茂木こず枝という女《じよ》性《せい》を、いわば騙《だま》して捨《す》てた、ということですか」
「そういうことでしょうな」
と、志水は肯《うなず》いた。「彼女《かのじよ》に恋《こい》人《びと》がいたということは分ったようです。しかも、このところ、うまく行っていなかったようで、苛《いら》立《だ》っていたということです」
「相手の名前は分らないんですか?」
「分らないらしい。彼女も口は固かったようなんです」
「そんな奴《やつ》をのさばらしとくなんて!」
と明子はカッカしながら、アイスクリームをつっついた。「許《ゆる》せないわ! 社会的制《せい》裁《さい》を加えてやるべきです!」
「いや、元気がいいね、君は」
と、社長は笑《わら》った。
「笑いごとじゃありません!」
と明子は一人でむくれている。
「——ところでね」
と、志水が言った。「この間、あなたと一《いつ》緒《しよ》に、死体を発見したという女性がいましたな」
「はい。保《ほ》科《しな》さんです」
「彼女が殺されたと聞いてね」
「そうなんです。ひどい話で——」
と言いかけて、明子は、志水を見つめた。「じゃ、もしかして、その二つの死に関連がある、と?」
「そこが気になったのでね」
と志水は言った。「もし、保科さんが、あのとき、何《ヽ》か《ヽ》を見ていたとしたら。——あるいは、誰《ヽ》か《ヽ》を」
「でも、それなら言うはずですわ」
「見たときには、それが何の意味を持っているか気付かないことがある。しかし、見《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》方にとっては、いつ、彼女《かのじよ》が、その意味に気付くか、気が気でない…‥」
「そうかもしれませんね。じゃ、すぐに捜《そう》査《さ》を——」
「まあ、待って」
と志水は押《おさ》えて、「警《けい》察《さつ》としては、どうしようもないのですよ。もちろん、彼女が、偶《ぐう》然《ぜん》刺《さ》されたという可《か》能《のう》性《せい》もありますがね」
明子は、ふと眉《まゆ》を寄《よ》せた。——何か忘《わす》れているぞ。保科光子のことで。
何だったろう?
「——そうだわ!」
明子がいきなり立ち上ったので、志水が仰《ぎよう》天《てん》して、ソースを飛ばしてしまった。
「あ、すみません。でも——忘れてたんです! 保科さんから預《あず》かった包みがあったんだわ。それなのに、あの騒《さわ》ぎでうっかりしていて」
「包み?」
「ええ。万一のことがあったら、開けてくれ、と手紙がついていて」
「それは面白い」
と、志水は肯《うなず》いた。「それはまだお宅《たく》にあるんですね?」
「そのはずです」
「では見せていただきたい。中に何が入っているのか」
「ええ! もちろん構《かま》いませんわ。じゃ、ご一《いつ》緒《しよ》に——」
もう食事の終った明子は、まだ食べ始めたばかりの志水の腕《うで》を引《ひつ》張《ぱ》った。