「家出って……」
「家を出るの。分る?」
と、湯川雅代は言った。
「ええ、そりゃまあ」
と、明子は肯《うなず》いた。「でもどうしてまた……?」
「我《が》慢《まん》できなくなったのよ」
雅代は、タバコを一本出すと火を点《つ》けて、ゆっくりとふかし始めた。
「ご主人に、ですか?」
「そう。人間、辛《しん》抱《ぼう》にも限《げん》度《ど》ってもんがあるわ」
まあ、湯川雅代の言葉そのものは分らぬでもない。しかし、結《けつ》婚《こん》してわずか二週間しかたっていないとなると、話は別である。
「一体何があったんですの?」
雅代がジロリと明子を見た。
「そんなこと聞いてどうするの! もしかしてあんたじゃないの?」
「何がですか?」
「主人の愛人よ。決ってるじゃないの」
「と、とんでもない!」
と、明子はあわてて言った。「私、ご主人にはお目にかかったこともないんですよ!」
「フーン、そうなの」
と、雅代は言った。「まあ、そうね。あの人の好《この》みじゃないな。あの人は顔にこだわるから」
こりゃ凄《すご》い、と明子は内心、舌《した》を巻《ま》いた。雅代だって、明子の目には、「顔にこだわる」男が気に入るタイプとは思えなかったのである。
しかし、そんな風に愛人を作っているとなると、この亭《てい》主《しゆ》が、あの茂《も》木《ぎ》こず枝《え》の恋《こい》人《びと》だったという可《か》能《のう》性《せい》もある。
「でも、ご主人、あなたみたいにきれいな方がいて、どうして愛人なんか作るんでしょうね」
嘘《うそ》をつくのは嫌《きら》いだが、ここはあえて無《む》理《り》をしてみた。
「そう! そうなのよ!」
雅代はぐっと身を乗り出して来る。明子はあわてて、のけぞった。
「あなた、話分るじゃないの! 一《いつ》杯《ぱい》やろうよ!」
「はあ……」
明子が呆《あつ》気《け》に取られている内に、雅代は、ウイスキーのボトルとグラスを二つ持って来た。
「いけるんでしょ、あんた?」
「多少は」
「じゃ、一つ、ストレートで行こう! 男なんかに、こんな高いウイスキー飲ませてなるもんか!」
雅代は威《い》勢《せい》がいい。仕方なく、明子はグラスに口をつけた。
雅代の方は、アッという間にグラスを空にしてしまう。
「ご主人、結《けつ》婚《こん》前からそうだったんでしょうか?」
「そうだった、って?」
「つまり——女遊びが派《は》手《で》とか」
「そりゃね。独《どく》身《しん》の頃《ころ》はソープランドにも行くし、金がないときは、適《てき》当《とう》につまみ食いもしてたみたいね」
「じゃあ……。でも、良かったですね」
「本当」
と肯《うなず》いて、「——何が?」
「よく、あるんですよ。式場に昔《むかし》の恋《こい》人《びと》が押《お》しかけて来るとか。あんまり、体《てい》裁《さい》のいいもんじゃありませんものね」
「そんなことなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》!」
と雅代は笑《わら》って、「あの人は、そりゃあ狡《ずる》いからね。絶《ぜつ》対《たい》に恨《うら》まれるような別れ方はしない人よ。何だか、哀《あわ》れっぽく芝《しば》居《い》をするの」
「芝居?」
「そう。その手で、私もコロッと騙《だま》されたのよね」
と、雅代は首を振《ふ》った。「ああ! 一生の不覚よ!」
あっちもそう思ってるかも、と明子は思った。
「で、結《けつ》婚《こん》後も、ご主人と、その恋人の間が切れてない、というわけなんですね?」
「さあね。ともかく、今、恋人がいるのは確《たし》かなの。——人を馬《ば》鹿《か》にしてるじゃない? 出てってやるわ、こんな家!」
もう一《いつ》杯《ぱい》、と、雅代はグラスを満たして、
「あんたは? もういいの?——遠《えん》慮《りよ》しなくていいのよ」
「いえ、本当にもう。——大して強くないんですもの」
「そう。そりゃいいことよ。お酒なんて、百薬あって一利なしよ」
ちょっと違《ちが》ってるんじゃないかと思ったが、あえて追求はしないことにした。
——その後は、雅代の一人舞《ぶ》台《たい》。
ぐんぐんとウイスキーをあおり、その傍《そば》で、二人の結《けつ》婚《こん》までのいきさつを、身《み》振《ぶ》り手振りで熱《ねつ》演《えん》した。
特《とく》に彼《かれ》が酔《よ》った彼女《かのじよ》をホテルへ誘《さそ》い込《こ》み(逆《ぎやく》じゃないかしら、と明子は思った)、ベッドへ連れ込むシーンは、リアルで、明子に抱《だ》きつこうとしたので、明子はあわてて逃《のが》れた。
「——どうなってんの?」
明子は、フウッと息をついた。
ついに、熱演一時間、雅代は、カーペットに大の字になって、グーグーいびきをかきつつ、眠《ねむ》ってしまった。
これ以上いても仕方ない。
「帰ろうか」
と、玄《げん》関《かん》へ来ると、ヒョイとドアが開いて、
「ただいま」
と、入って来た男……。
「あの——失礼しております」
と、明子はキョトンとした顔の、その男へ事《じ》情《じよう》を説明した。
「そりゃご苦労様。雅代はいませんでしたか?」
「いえ、そちらに」
「そうですか」
と上がって、「——何だ、また酔《よ》って寝《ね》ちゃったのか」
と頭をかいた。
明子は、首をひねった。——この、頭の薄《うす》くなった中年男が、若《わか》い愛人を?
「あの、ご主人でいらっしゃいますね」
と、明子はつい念を押《お》していた。
「うちのが、家出すると言ったんでしょう。——いや、びっくりさせてすみません。何しろこれの口ぐせなんですよ」
「はあ……」
「毎日、帰って来ると、トランクが置いてあって。なに、中は空なんですよ。出て行く気なんかないんですよ」
「そうなんですか」
「お騒《さわ》がせしましたね」
「何だか——あの——ご主人に若い恋《こい》人《びと》がいて、と——」
「こいつの作り話ですよ」
と、湯川元治は言って、笑《わら》った。「大体、こんな年《とし》寄《よ》りが、若い子にもてるはずがないでしょう」
「はあ」
明子は、
「では失礼します」
と、玄《げん》関《かん》へ降《お》りようとして、「あの、すみません」
「何か?」
「もしかして、茂木こず枝という人をご存《ぞん》知《じ》ありませんか?」
「茂木?」
と湯川は首をかしげて、「さて、知りませんね。どういう人です?」
「いえ、それならいいんです。——私の友だちで、こちらと同じ名の方を知ってると言ってましたので……」
「じゃ他の人のことでしょう」
「そうですね。——お邪《じや》魔《ま》しました」
表に出て、明子は、息をついた。
探《たん》偵《てい》ってのも疲《つか》れるわね。
あの湯川という亭《てい》主《しゆ》は、至《いた》って感じがいい。しかし、あまりに愛想が良すぎるというきらいもあった。
ああいう笑《え》顔《がお》は、いわば営《えい》業《ぎよう》用《よう》である。
ちょっと本心の分らない男だ、と明子は思った。
もっとも、茂木こず枝の名前に、全く反《はん》応《のう》しなかったのは、おそらく本当に知らないのだろう。
でなければ、突《とつ》然《ぜん》言われて、ああはとぼけられないに違《ちが》いない。
「一人は済《す》んだ、か」
と、明子は伸《の》びをした。
次は明日《あす》にしよう、っと。——お腹《なか》も空《す》いたしね。
名《めい》探《たん》偵《てい》は、かくて、目に入った食堂へ向かって、突《つ》き進んで行ったのである……。
「ええと二人目がね、白《しら》石《いし》っていう夫《ふう》婦《ふ》なのよ」
と明子は、メモを見ながら言った。
「ふーん」
と、尾《お》形《がた》がハンバーガーをかじりながら肯《うなず》く。
「こら! 真《ま》面《じ》目《め》に聞け!」
と、明子がにらんだ。
「聞いてるよ」
と、尾形はあわててハンバーガーを飲み込《こ》んで、
「それにしても、君は学生、僕《ぼく》は講《こう》師《し》だぜ。どうして僕が怒《ど》鳴《な》られるんだい?」
「ブツブツ文句言わないの」
「はいはい」
尾形は肩《かた》をすくめた。
大学に近い、ハンバーガーのチェーン店の二階席。
昼前なので空《す》いている。
「ねえ、白石ってのも面白い夫《ふう》婦《ふ》だったわよ、これが」
「どんな風に?」
「何しろね、夫が十九歳《さい》、妻《つま》が十七歳と来てるの」
「何だって?」
尾形は目を丸《まる》くした。「子《こ》供《ども》同士じゃないか」
「まるっきり、おままごとなの。『ねえ、あなた』『何だい』とか言っちゃって」
「呆《あき》れたね。何やってんだい、その二人?」
「学生よ」
「収入は?」
「親の仕送り」
「へえ、優《ゆう》雅《が》だね」
「五千万円也《なり》のマンション住い。もちろん親のお金。二人とも親は社長なの」
「気に食わないね。そいつがきっと、犯《はん》人《にん》だ」
「まさか! 十九歳よ!」
「どうしてそんなのが候《こう》補《ほ》に残ってたんだい?」
「ただね、この夫——十九歳《さい》ね。この子が、死んだ茂木こず枝のいた会社でバイトをしたことがあるのよ」
「へえ」
「もっとも、たった三日で『仕事が辛《つら》い』って辞めちゃったそうだけど」
「荷物運びか何かやったのかな」
「本を、整理したらしいの。そしたら、手が汚《よご》れて、堪《た》えられない、って……」
「神よ」
と尾形は天《てん》井《じよう》を仰《あお》いだ。「それが大学生かと思うと、たまらんね」
「まさかとは思うけど、一《いち》応《おう》、チェックしてみないとね。——でも、もし茂木こず枝が、年下の美少年好《ごの》みなら、可《か》能《のう》性《せい》はあるわ。ともかく、可愛《かわい》い子なの」
「おい、まさか君まで……」
と、尾形が身を乗り出す。
「やめてよ。あんな、なよなよしたの、大《だい》嫌《きら》い」
と、明子は、尾形の鼻を指で弾《はじ》いた。
「いてて!」
「三番目はね、また凄《すご》いの。久《ひさ》野《の》って家なんだけどね」
「またお子様ランチ?」
「ううん。夫は二十八歳。妻《つま》、二十四歳」
「バランスは取れてる」
「ところが、さにあらず。——奥《おく》さん、もう死にそうなの」
「死にそう?」
「夫の母親が一《いつ》緒《しよ》なのよ。これが凄《すご》い人でね。お嫁《よめ》さんを、こき使うのよ」
「へえ」
「夫は徹《てつ》底《てい》したマザコンで、『ママ』だものね。聞いててゾッとしたわ」
「今はよくいるらしいじゃないか」
「でも、本当に出くわしたの初めてだもの。びっくりしたわ。——ともかく母親と夫はいい身なりなのに、お嫁さん一人、まるで、大正時代の古着って感じなの」
「やれやれ。よく我《が》慢《まん》してるじゃないか」
「ねえ。そういう意味では、珍《めずら》しい女《じよ》性《せい》よ。文句一つ言わずに働いて」
「しかし、危《き》険《けん》だな。その内、爆《ばく》発《はつ》するかもしれない」
「そう思ったわ、私も。——あの男にだって女の一人や二人いたと思うの。そういうことに罪《ざい》悪《あく》感《かん》を覚えるタイプじゃないのよ。きっと母親の教育のせいね」
「どこに勤《つと》めてるんだい?」
「それが、外《がい》務《む》省《しよう》のエリートなの」
尾形はため息をついて、紙コップのコーヒーをガブリと飲んだ。
「日本の行く末は闇《やみ》だな」
「それはともかく、あともう一組よ」
「今度はどんな怪《かい》物《ぶつ》なのか、楽しみだな」
「お化《ばけ》屋《や》敷《しき》ね」
と、明子は笑《わら》ったが、ふっと真顔になって、「でも——本当にね」
と呟《つぶや》くように言った。
「何だい?」
「結《けつ》婚《こん》なんて、やんなっちゃうわ、あんなの見てると」
「おいおい——」
「青くなった」
と、明子は笑《わら》って、「まだいい方よ。子《こ》供《ども》ができたから結婚してくれって言われて青くなるよりね」
「人をからかうな」
と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「でもね、充《じゆう》分《ぶん》に気をつけてくれよ。その四番目が、問題の男かもしれないからな」
「分ってるわよ」
明子は、自分のハンバーガーにぐいとかみついた。
「——じゃあね」
明子は、大学へ行く尾形と別れ、駅の方へ歩き出した。
最後の一組は、佐《さ》田《だ》という名だった。
「これはまともでありますように」
と明子は、祈《いの》るように言った。