「わざわざご苦労様です」
と、お茶を出してくれたのは、正に「新《にい》妻《づま》」という言葉がぴったり来る、初《うい》々《うい》しい女《じよ》性《せい》だった。
「奥《おく》様《さま》は千《ち》春《はる》さんとおっしゃるんですね」
と、明子も気分が良くなって、「すてきなお名前ですね」
「そうですか?」
「千の春が本当にあるみたい。この家、とっても明るくて、すてきだわ」
「まあ、お世辞の上手な方ね」
と千春は笑《わら》った。
佐田房《ふさ》夫《お》、二十三歳《さい》。千春、二十二歳《さい》。——若《わか》いな、と思って来てみたが、部《へ》屋《や》の中は、少しもぜいたくをしていない。
二人だけの力で、堅《けん》実《じつ》にやるのだという思いが、部屋を快《こころよ》くさせているようだった。
「ご主人は、お勤《つと》めなんですか」
明子は訊《き》いた。
「ええ。でもエリートとは程《ほど》遠《とお》いので、五時には退《たい》社《しや》してしまいます。出世は諦《あきら》めているもので」
「その方が気が楽じゃありません?」
「ええ、本当に」
と、千春は肯《うなず》いた。
プリント柄《がら》のエプロンが、とても良く似《に》合《あ》う。小《こ》柄《がら》だが、パッと目につく、明るさがあった。
「職《しよく》場《ば》結《けつ》婚《こん》なんですか?」
「いいえ。私たち幼《おさな》なじみなんです」
「じゃ、お生まれが——」
「ええ。二人とも、九州の方で。赤ん坊《ぼう》のころから、一《いつ》緒《しよ》に遊んだ仲《なか》でした」
「まあ。お幸せですね。それで、今はこうして——」
「でも、親の転《てん》勤《きん》で、私たち、小学校の頃《ころ》、東京と九州に、離《はな》れてしまったんです。——それが、私が高校を出て上京して来たとき、ひょっこり東京駅で、彼《かれ》に会って……」
「東京駅で偶《ぐう》然《ぜん》に?」
と、明子は目を丸《まる》くした。「嘘《うそ》みたいな話ですね!」
「それが本当なんですもの。面白いもんですね」
「ご主人は何の用で?」
「会社の用で、偉《えら》い人を送りに来ていたんです。で、私がホームを歩いてると『佐田君、社へ戻《もど》ろうか』という声がして。佐田っていう名が耳に入って、ハッとしたんです」
「そしたら本当に……」
「ええ。向うも何となくこっちを見ていて——。何年ぶりだったのかしら。もう七、八年は会ってなかったんですけど、すぐに分りました」
「感動的ですね!」
明子は、心底感《かん》激《げき》していた。
「そのとき、もう二人とも結《けつ》婚《こん》の決心をしたんです。——運命なんて言うと、笑《わら》われそうだけど」
「いいえ、それはきっと本当に運命ですよ」
「四年間、一生懸《けん》命《めい》、働いて、お金を貯《た》めて。やっと式にこぎつけたんです。どっちの家も不景気なので」
「その間に、一《いつ》緒《しよ》に暮《く》らすとか——」
「いいえ」
と、千春は首を振《ふ》った。「あの人がそんなことはいけない、と言って。——辛《つら》かったけど、それだけのことはありました。もし、赤ちゃんでもできて、仕方なしに結婚なんてことになったら、こんな風に楽しい新《しん》婚《こん》生活じゃなかったでしょう」
へえ。——こんな人がまだいたのね。
明子は、まるで違《ちが》う時代——『野《の》菊《ぎく》の如《ごと》き君なりき』とか、『二十四の瞳《ひとみ》』といった時代に紛《まぎ》れ込《こ》んでしまったような気がしていた……。
玄《げん》関《かん》のドアが開いた。
「ただいま。——お客さん?」
「結《けつ》婚《こん》式場の方。一万円、多くいただいたからって返しにみえたの」
「そりゃあご丁《てい》寧《ねい》に。——一万円あれば、大いに助かります」
「いいえ」
と明子は照れて頭を下げた。
いかにも若《わか》々《わか》しい青年である。真《ま》面《じ》目《め》そうだ。
「お酒なんかは?」
と、明子は訊《き》いた。
「付き合いでは少し。でも、好《す》きじゃないですね。どっちかというと甘《あま》党《とう》で」
「この人、外に出ると、私にチョコレートパフェなんか注文させて、自分で食べてるんですよ」
「おい、ばらすなよ!」
と、佐田は笑《わら》いながら言った。
いい雰《ふん》囲《い》気《き》だなあ、と明子は思った。
あの「お子様夫《ふう》婦《ふ》」のマンションに比《くら》べれば、犬小屋並《なみ》の小さなアパートだが、どんなにか、こっちの方が居《い》心《ごこ》地《ち》がいいか。
「そうだ。よろしかったら、夕食を一《いつ》緒《しよ》に。いかがです?」
と言われて、ついその気になってしまったのも、そのせいでだろう。
しかし、明子は、後《こう》悔《かい》することになった。
まず千春の料理の腕《うで》に舌《した》を巻《ま》き、二人の愉《たの》しげな様子に当てられっ放し。
結局、「のけ者」であることを思い知らされて、早々に退《たい》去《きよ》することになった。
外へ出て、
「ああ熱い」
と、息をついたのは、別にやっかみではない。
狭《せま》い部《へ》屋《や》なので、本当に三人でいると暑いのだ。——やっぱりあそこは二《ヽ》人《ヽ》にちょうど良くできているのだ。
もう夜になっている。
駅への道を急いでいると、足音が追いかけて来た。
「永《なが》戸《と》さん!」
振《ふ》り返ると、佐田がサンダルで走って来る。
「あら、何でしょう?」
「これ、忘れましたよ」
と、佐田が出したのは、一万円の領《りよう》収《しゆう》書《しよ》だった。
「まあ、すみません、わざわざ」
どうせでっち上げなのだ。気がひけて、
「すみませんね」
と、くり返した。
「いいえ。駅の道、分りますか?」
「はい。——早く奥《おく》様《さま》の所へ帰ってあげて下さい」
「では、ここで」
と、佐田が頭を下げて行きかける。
そのとき——何となく、つい口を開いていたのだ。
「佐田さん」
「何ですか?」
「あの——茂木こず枝って人をご存《ぞん》知《じ》ですか?」
明子の方がびっくりした。佐田が、突《とつ》然《ぜん》顔を別人のようにこわばらせて、青ざめたのである。
「いや——知りません! そんな人なんか、聞いたこともない!」
と、口走ると、佐田は、駆《か》けて行ってしまう。
——明子は、しばし、その場に立ちつくしていた。
知っているのだ。
佐田はあの女を知っている。——どんな知り合いかはともかく……。
明子は、気が重かった。
あのすばらしい家庭に、自分が、不幸の種をまいたのでなければいいけれど……。
家に帰ると、母が夕食の仕度をして待っていた。
「食欲がないの」
「具合でも悪いの?」
と、啓《けい》子《こ》が訊《き》いた。
「食べて来たのよ」
「そうなの。でも少しは食べなさい」
「でも——」
「いいから。一《いつ》杯《ぱい》でも。ね?」
「分ったわ」
食《しよく》卓《たく》についたとたん、電話が鳴り出した。
啓子が出たが、すぐに、
「明子、電話よ」
と呼《よ》んだ。「志《し》水《みず》さんですって」