「やあ、向う見ずのお嬢《じよう》さん」
志水の声が聞こえて来ると、明子は何となく気分が軽くなったような気がした。
「どうも」
「いや、このところ忙《いそが》しくてね。検《けん》死《し》官《かん》が忙しいというのは、あまり結《けつ》構《こう》なことではないが」
「そうですね」
「何か分りましたか。いや、気になってはいたんですよ。どうもあなたは、一人で危《あぶな》いことをやりかねない人ですからな」
なかなかよく見ている。
「一《いち》応《おう》、四組の夫《ふう》婦《ふ》に当ってきたんですけど……」
「それらしいのはいましたか?」
明子は一《いつ》瞬《しゆん》ためらってから、
「いいえ、はっきりとは」
と、言った。
「すると多少は手《て》応《ごた》えが?」
「ええ。でも、はっきりしないんです」
「なるほど。で、どうしますか」
「もう少し調べてみたいんですけど」
「危《あぶな》いことはだめですよ」
「充《じゆう》分《ぶん》に用心します」
「用心しても、やられるから事《じ》件《けん》は絶《た》えないんです。——分ってますね」
「ええ。でも、まだお知らせできるほどのことじゃないんです。少しでもはっきりした事実をつかんだら、必ずご相談しますから——」
「分りました」
と、志水は、苦《く》笑《しよう》しているようで、「ではもう少し当ってみて下さい。あなたを信じましょう」
「ありがとう!」
と明子は言った。「また電話をかけますから」
「そうして下さい。——いいですね。くれぐれも、無《む》理《り》をしないで。あなたの検《けん》死《し》をやるはめにはなりたくないですからね」
明子はぐっと胸《むね》を突《つ》かれる思いがした。なかなか厳《きび》しいことを言うな、あのおじさん!
食《しよく》卓《たく》へ戻《もど》ると、
「何の電話?」
と母の啓子が、不思議そうに、訊《き》いた。「用心するとか報《ほう》告《こく》がどうとか——」
「化学実験のことなのよ」
「危《あぶな》いのかい?」
「火薬を使うの」
「へえ! そんなことやらせるの? 大学の学長さんに抗《こう》議《ぎ》に行こうかね」
と言ってから、啓子は、「でも、お前、今は停学になってたんじゃない?」
と訊いた。
母親を何とかごまかして、明子は、軽くお茶《ちや》漬《づけ》をかっ込《こ》んだ。
佐田夫《ふう》婦《ふ》の所で夕食を取って来たくせに、ちゃんと二杯《はい》食べているのだ。若《わか》さというものである。
さすがに少々食べ過《す》ぎたのか、気分が悪くなり、風《ふ》呂《ろ》へ入ると、今度はのぼせてしまった。
こんなときは寝《ね》るに限《かぎ》る!
明子は、さっさとベッドに潜《もぐ》り込んだ。
もっとも、いつだって、明子のモットーは、
「寝るに限る!」
なのである。
ただし、この「寝る」には、男《だん》性《せい》と一《いつ》緒《しよ》にという意味は含《ふく》まれていない……。
ともあれ、早く寝て、たっぷり眠《ねむ》ったおかげで、翌《よく》朝《ちよう》の明子の目覚めは、爽《そう》快《かい》であった!
昼の新《しん》宿《じゆく》は、これが平日かと思うような、人、また人。
一体この人たち、何やって暮《く》らしてんだろう?
自分のことは棚《たな》に上げて、明子は感心していた。もっとも、大学生でも、停学処《しよ》分《ぶん》中の学生がそんなに多いわけはないから、ここを一人で、あるいはアベックでぶらついているのは、サボリ組であろう。
恋《こい》人《びと》の尾形が見れば嘆《なげ》くに違《ちが》いない。若《わか》いとはいえ尾形は教える立場の講《こう》師《し》なのだから……。
さて、明子も、別に遊びに来ているわけではなかった。
佐田の妻《つま》、千《ち》春《はる》を尾《び》行《こう》していると、ここへ来てしまったのである。
千春を尾行するというのは、何とも気の重い仕事だった。
あんなにいい人なのに……。
しかし、夫の佐田房夫が、「茂木こず枝」の名に、あんなに激《はげ》しく動《どう》揺《よう》を見せた以上は、放っておくわけにいかない。
といって、佐田はもう明子に警《けい》戒《かい》心《しん》を抱《だ》いているだろうから、容《よう》易《い》には近づけないはずだ。
そこで、まず妻の方から迫《せま》ってみようと考えたわけである。
給料でも出たのだろうか。千春はデパートに行くと、いくつか特《とく》売《ばい》場《じよう》を回った。
デパートの人ごみは、尾行するのは楽ではないが、姿《すがた》を隠《かく》すには便利である。
千春が、割《わり》合《あい》に目立つオレンジの服を着ていたので、明子も容易について行くことができた。
千春は、下着を何点か買っただけで、昼になったので食堂に入った。
これはチャンスである。
食堂は、何といっても平日で、それにまだ十二時に少し間があったせいか、そう混《こ》んでいない。
千春は奥《おく》の席についた。
明子は頃《ころ》合《あい》を見はからって、食堂へ入って行った。
「どこにしようかな」
と呟《つぶや》きつつ(リ《ヽ》ア《ヽ》ル《ヽ》に《ヽ》やるのだ!)、ぶらぶら歩いて、千春の席の斜《なな》め前の席に座った。
ここはもちろん相手が気付くまで待っているところである。
オーダーを取りに来たので、わざと少し大きな声で、
「このランチにしてくれる?」
と頼《たの》んだ。
昨日の今日である。声に少しは聞き憶《おぼ》えがあるはずだ。
明子の狙《ねら》いは当った。千春がこっちを見ている様子。
明子も何気なく顔をめぐらして、二人の視《し》線《せん》が合う。
「——あら」
「やっぱり昨日《きのう》の!」
と千春が楽しそうに言った。「びっくりしましたわ」
「本当ですね。お買物?」
当り前だろう。
「ええ。あなたは、お休みなんですか?」
「そうなんです。たまにはデパートでも見て歩こうと思って」
「いいわね、気ままな独《どく》身《しん》で」
と千春は言った。「よかったら、こちらへ移りません?」
「いいかしら」
「ええ。一人で食べてもおいしくないわ。——さあ、どうぞ」
正に狙《ねら》い通りである。
「——たまに家にいるのがいやになると、こうして出て来るんです」
と、ランチを食べながら千春は言った。
「奥《おく》さんでも、おうちがいやになるなんてことあるんですか?」
と明子は訊《き》いた。
「そりゃあ——」
「だって、もう、楽しくて仕方ないみたいに見えましたけど」
「苦労はありますよ。だって貧《びん》乏《ぼう》ですもの、うちは」
千春は、傍《そば》の買物袋《ぶくろ》を手で叩《たた》いて、「いつもね、今日はワンピースを買ってやろう、セーターも、スカートも、たまにはそれくらい、いいじゃないの、って思って出て来るんですけどね」
「で、結局——?」
「主人のパンツとシャツ」
と言って千春は笑《わら》った。
「たまにはご自分のものを買った方が——」
「ええ。今日はそのつもりで来ましたの」
と千春は言って、「でも、早くしないと」
「ご主人が帰るの、夕方なんでしょう?」
「ええ」
と千春は肯《うなず》いた。「でも、私、セーター一枚買う決心するまでに、二、三時間はかかるんですもの」
「凄《すご》い」
「あなたは?」
「私、割《わり》合《あい》に突《とつ》進《しん》型《がた》なんです。これ! と決めたら、他のを見ずに買っちゃって、そのまま帰るんです」
「まあ」
「だって、見て歩いて、もっといいのがあるとシャクでしょ。だから見ないで帰るの」
千春は笑った。
「面白い方ね。——お名前、何ておっしゃったかしら。永戸さんでしたね」
「そうです。よく『水《み》戸《と》』って間《ま》違《ちが》えられます」
「黄《こう》門《もん》様ね」
「それも良く言われます。似《に》てるんですって」
「あなたが?」
「笑《わら》い方が豪《ごう》快《かい》で、そっくりだって。いやですね、本当に」
千春は愉《たの》しげに笑った。——本当に愉しそうだった。
ふと、明子は、この人は、見かけよりずっと寂《さび》しいのかもしれない、と思った。
でなければ、ろくに知りもしない相手に、こうも楽しげに語りかけたりするだろうか……。
「——あら、もうこんな時間」
と、千春は腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、びっくりしたように言った。「ごめんなさい、すっかり時間を取らせて」
「いいえ、とんでもない」
と、明子は言った。「良かったら、ご一《いつ》緒《しよ》に買物して歩きません?」
だが、なぜか、千春の顔に、急にか《ヽ》げ《ヽ》が射《さ》した。
「遠《えん》慮《りよ》しますわ」
と千春は笑《え》顔《がお》に戻《もど》って、「こんな物買うのかと思われるのも恥《は》ずかしいし」
「そんなこと——」
と言いかける明子を、遮《さえぎ》るように、
「とても楽しかったわ。ありがとう。——またいつか会えるといいですね」
と、千春は立ち上った。
「じゃ、私、これで」
千春は、自分の分の代金をテーブルに置くと、急ぎ足で去った。
——おかしい。
何かありそうだ。明子が、すぐに立って、後を追ったのは当然のことである。
「——お姉さん、遊んでかない?」
男が声をかける。
明子はもちろん相手にしない。もし相手にしていたら、向うが声をかけたことを後《こう》悔《かい》するだろう。
裏《うら》通《どお》り。——ポルノショップやら、今はやりの「覗《のぞ》き部《べ》屋《や》」だのが、ひしめき合った通りである。
明子は、わけがわからなかった。
千春の後をつけて来たら、こんな所へ来てしまったのだ。
——もちろん、まだ昼間だが、こんな時間にも、結《けつ》構《こう》、こんな所をぶらついている男はいる。
よっぽどヒマなのね、と明子は思った。
それはともかく、女である千春が、どうしてこんな所へ来ているんだろう?
千春の足取りは、別にブラついているというのではなく、はっきりどこかへ向かっていた。
——どこへ?
明子は、千春が、店の前を掃《そう》除《じ》している男へ、
「こんにちは」
と挨《あい》拶《さつ》するのを見た。
「遅《おそ》いよ」
と男が文句を言う。「今日は結《けつ》構《こう》入りそうだからね」
「はい。すみません」
千春が、狭《せま》い入口を入って行く。〈のぞき部《べ》屋《や》・個《こ》室《しつ》〉と、ピンクの看《かん》板《ばん》が出ている。
明子は目を疑《うたが》った。
しかし、今入って行ったのは、間《ま》違《ちが》いなく、佐田千春である。
こんな所で、働いているとは!
「——何か用?」
と、男が声をかけて来た。
「え?」
「ここで働きたいの?」
男は明子を頭の天辺から足下まで、眺《なが》めて、「ウーン、少し骨《ほね》っぽいけど、結構悪くないね」
と言った。
「どうも」
「裸《はだか》になるの平気?」
「お風《ふ》呂《ろ》に入るときならね」
男は笑《わら》った。
「面白いね、君。どうだい金になるよ」
「ここは——何時間ぐらい仕事すれば、いいんですか?」
「人によるさ。色々事《じ》情《じよう》があるからね。——今、入ってった若《わか》い女いるだろ?」
「ええ」
「あれは亭《てい》主《しゆ》持ちなんだ。だから、一時から夕方四時まで。時間が悪いから、あんまり稼《かせ》ぎにならないね。しかし、どこかでパートなんかするよりも、よっぽど手っ取り早いよ」
何だか、明子は侘《わび》しくなった。
「——ねえ、君は大学生? 女子大生ってのは人気あるんだよ」
男の手が、明子のお尻《しり》を撫《な》でた。——とたんに、男はクルリと一回転して、道に尻もちをついていた。
「——お邪《じや》魔《ま》しました」
明子はさっさと歩いて行った。——男の方は、お尻が痛《いた》いのも忘《わす》れ、ポカンとして明子を見送っていた……。