「女って哀《あわ》れだわ」
と、明子は言った。「もう一《いつ》杯《ぱい》」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
と、尾形が言った。「もうやめといたらどう?」
「平気よ。飲ませてよ、ミルクぐらい」
「うん……」
尾形のアパートである。
あまりアルコールに強くない尾形なので、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》にはビールもない。
尾形は、紙パックの牛《ぎゆう》乳《にゆう》を出して来て、コップに注《つ》いだ。
明子はぐっとコップをあけて、ゲップをした。
「——ああ、お腹《なか》一杯になっちゃった」
「当り前だよ」
尾形は苦《く》笑《しよう》した。「しかし、その奥《おく》さん、どうしてそんなアルバイトをやってるんだろう?」
「決ってるじゃないの。夫が悪いのよ」
「どうして?」
「女は常《つね》にしいたげられてるんだから」
「理《り》屈《くつ》にならないよ」
「いいのよ、そんなこと」
明子は、ゴロリと横になった。「ショックだったわ」
「でもさ、もし家計の足しにするぐらいだったら、そんなことまでする必要はないだろう」
「そうね」
「つまり、きっと他《ヽ》に《ヽ》金の必要なことがあるんだよ」
「どういうこと?」
「その出費を夫に話せない。といって、へそくりや、多少のやりくりで出せる金《きん》額《がく》ではない。そこで、仕方なく、手っ取り早い、その手のバイトに——」
「どこへ金を出してるのかしら?」
と明子は言った。「でも、まさか彼女《かのじよ》に直《ちよく》接《せつ》訊《き》いてみるってわけにもいかないしね……」
「帰りまでは待ってなかったのかい?」
「だって、あんな所でボケッと立ってられる?」
「それもそうだな」
「私も、あそこでバイトしようかな。そうすれば、彼女のことも分るかも……。何よ、おっかない顔して。冗《じよう》談《だん》よ」
「当り前だ」
「じゃ、どう? あなた、お客になってあそこへ行くの。そして彼女《かのじよ》を指名して、話を聞いて来る。——やってみる?」
「僕《ぼく》がその『のぞき部《べ》屋《や》』に?」
「そうよ」
尾形は、エヘンと咳《せき》払《ばら》いして、
「そう……。まあ、気は進まないけど、これも研究のため、君の頼《たの》みとあれば、仕方なく——」
「冗《じよう》談《だん》よ」
と言って明子は大《おお》笑《わら》いした。
「何だ。つまらない」
「え?」
「いや、別に、——僕はお腹《なか》空《す》いたから食事に出るよ。君は?」
「家で食べないと母がうるさいの。帰ることにするわ」
「じゃ、ついでに送ろう」
「ついでに食べて帰ろう、って言うのよ。そういうときにはね」
「あ、そうか。僕はこれだからもてないんだな、女子学生に」
「もててるじゃないの。この私に」
「まあね……」
尾形は少々複《ふく》雑《ざつ》な顔で言った。
「遅《おそ》くなっちゃった」
と、明子は呟《つぶや》きながら、足を早めた。
結局、尾形と夕食を一《いつ》緒《しよ》に取ってしまったのである。のんびりおしゃべりして来たら、もう九時を回っていた。
家への道は、割《わり》合《あい》と静かである。
よく痴《ち》漢《かん》が出るというので、明子も、もっと子《こ》供《ども》のころには、母親と一緒でないと、夜は出られなかったものだ。
しかし、今は、家がズラリと立ち並《なら》んでいるので、そんなこともなくなった。
車が一台停《とま》っている。
明子は、そのわきをすり抜《ぬ》けて、先を急いだ。——二十メートルほど行ったとき、ブルルとエンジンのかかる音がした。
ライトが、明子を照らす。明子は振《ふ》り向いた。
車が一気に加速して迫《せま》って来る。
危《き》険《けん》を感じるのと、駆《か》け出すのが、同時だった。
道《みち》幅《はば》が狭《せま》いから、左右へ逃《に》げるわけにいかない。車は、ぐんぐんと追い上げて来た。
どうしようか、などと考えている余《よ》裕《ゆう》はなかった。正に、体の方が、勝手に動いた、という感じだった。
塀《へい》から、道へ突《つ》き出した、枝《えだ》ぶりのいい木。明子はその太い枝へ向かって、一気にジャンプした。
両手がうまく引っかかる。両足を大きく振《ふ》った。体が持ち上ったと同時に、車が、枝の下を駆《か》け抜《ぬ》けた。
そのまま、赤いテールランプが遠ざかって行く。
明子は、道へ、飛び降《お》りた。
「何よ、あれ……」
明子は呟《つぶや》いた。息を切らしていた。
いくら元気な明子でも、こう急に走ったのでは、息が切れる。
あの車。——はっきりと、彼女《かのじよ》を狙《ねら》っていた。
はねるつもりで、突っ込《こ》んで来たのだ。
なぜ? 今度の事《じ》件《けん》と関係があるのだろうか?
ない、と考える方が不自然だろう。
誰《だれ》かが、私を殺そうとした。——明子はもう、何も見えなくなった、暗い道の先を見つめていた。
佐田千春は、毎日、あの店へ通っているわけではないようだった。
あの次の日には家にいて、ごく当り前の生活をしていた。
しかし、その翌日には、また新宿へと出かけて行ったのである。
雨の日だった。
明子は、尾《び》行《こう》も楽じゃない、とため息をついた。
傘《かさ》をさして、雨の中、あの〈のぞき部《べ》屋《や》〉から、千春がいつ出て来るかと、待っていなくてはならないのだ。
天気が良くて、気候も良きゃ、見《み》張《は》ってるのも悪くないけどね、と明子は調子のいいことを考えていた。
千春はこの日は十二時過《す》ぎに店へ入って行った。
少し早い。帰りを急ぐのだろうか?
一時間たったころ、このごみごみした裏《うら》通《どお》りへ、少々不《ふ》似《に》合《あい》な外車が入って来た。
「金持の道楽かしら」
と、呟《つぶや》いて眺《なが》めていると、その車、例の〈のぞき部屋〉の前で停《とま》ったのである。
運転手がドアを開けると、出て来たのは、初老のパリッとした身なりの男。
それが、堂々と、そこへ入って行く。
どうなってんの? 明子は首をかしげた。
そして、五分としない内に、その紳《しん》士《し》は出て来た。その後から一人の女——千春が出て来たのだ!
見ていると、千春は、外車に乗り込《こ》んだ。
車が、ゆっくりとバックして来た。
この先が通行止になっているのだ。明子はあわてて身を隠《かく》した。
外車は、広い通りへと入って行こうとしていた。
明子は走り出した。雨の中、いやだったが、そうも言っていられない。
通りへ出ると、タクシーを停《と》める。あの外車は、図体が大きいせいか、まだ流れに入れずにいる。
「あの大きな外車をつけて」
と、明子は言った。
「尾《び》行《こう》?」
と運転手が訊《き》いた。「厄《やつ》介《かい》事《ごと》じゃないだろうね」
「スターのゴシップなのよ。私、記者なの。いいでしょ、追いかけてよ」
「へえ、美人が乗ってるの?」
「絶《ぜつ》世《せい》のね」
「よし来た!」
男なんて単《たん》純《じゆん》ね。——明子は、そっと舌《した》を出した。
それにしても、あの男は何者だろう? そして、千春は、どこへ行こうというのか。
車はゆっくりと走り始めた。タクシーの方も、ピタリとその後についている。
雨の中での追《つい》跡《せき》が始まったのである。