雨の中での尾《び》行《こう》、というのは、楽ではない。
といって、明子はタクシーに乗っているので大して困《こま》っていたわけではないが、運転手は必死だった。
「いや、骨《ほね》だな、畜《ちく》生《しよう》!」
赤信号で一息ついたとき、首を振《ふ》りながら言った。
「ごめんなさいね」
と、明子も珍《めずら》しく殊《しゆ》勝《しよう》なことを言っている、「少し割《わり》増《まし》で払《はら》うわ」
「そうしてくれなくちゃ合わねえよ」
と言ってから、運転手はニヤリと笑《わら》って、「と、言いたいところだが、結《けつ》構《こう》だよ」
「あら、だって——」
「一度こういうスリルのある仕事をやってみたいと思ってたんだ」
「まあ、そうなの?」
「これで、どこまで食いついて行けるか、面白いじゃないか。料金は規《き》定《てい》通りでいいからね」
「悪いわね」
本当は、少し安くしてくれないか、と言いたかったのだが、さすがにやめておくことにした。
「また走り出したな。——どうも、住《じゆう》宅《たく》街《がい》へ入って行くぜ」
タクシーは、その外車について、やたら坂の多い、大《だい》邸《てい》宅《たく》の並《なら》ぶ道へと入って行った。
「凄《すご》い家ばっかりね」
と、明子は、ついつい、両側の家に目をとられながら言った。
「この辺はみんなそうさ。俺《おれ》もあんまり入らないけどね」
「へえ。——あ、曲った」
外車は、わき道へ入って、ぐるっと回ると、大きな門《もん》構《がま》えの前に出た。
「停《とま》ったな。あそこへ入るらしいぜ」
「じゃ、私、ここで降《お》りるわ。どうも、ご苦労さま」
「頑《がん》張《ば》れよ」
「ありがと」
明子は料金を払《はら》って、外へ出た。まだ雨はかなり降《ふ》っている。
あの車は、門の前に停っていた。目につかないように、電柱の陰《かげ》に立って見ていると、門《もん》扉《ぴ》が、ギリギリと音をたてながら、ゆっくりと開いた。
「電動なんだわ」
と、明子は呟《つぶや》いた。
待てよ。——電動ということは、人動(?)でないということだ。
つまり、あの門を開け閉《し》めするのに、人はいらないのである。
車が、静かに邸《てい》宅《たく》の中へと、滑《すべ》り込《こ》んで行くと、明子は、雨に濡《ぬ》れるのも構《かま》わず、突《つ》っ走った。
車が入る。門が閉《と》じる。——その間に、明子は、中へとうまく入り込んだのだ。
「どんなもんです」
と、いばっても、誰《だれ》も賞《ほ》めちゃくれないのだが。
門がピタリと後ろで閉《しま》った。
「あ——」
と、思った。
出られなくなっちゃった! ま、いいや、何とかなるでしょ。
ここもまた、隣《となり》近《きん》所《じよ》に劣《おと》らぬ大邸宅であった。いや、他と比《くら》べても、かなりの大邸宅だと言ってもいい。
車は、前庭を回って、玄《げん》関《かん》へつく。
明子は、すぐに近くの木の陰《かげ》に隠《かく》れた。
何しろ、木だの植《うえ》込《こ》みだのがあちこちにあるので、便利である。
あの初老の紳《しん》士《し》に促《うなが》されて、千春が車から降《お》りる。玄関に姿《すがた》を消すと、車は、ガレージへ入るのだろう、建物のわきへと回って行った。まあ、車はあまり犬小屋には入らないものである。
しかし——この家に比《くら》べたら、明子の家は(父親には悪いが)正に、「犬小屋」だった。
どっしりとした、洋館で、しかも古びているが、一向に汚《よご》れた感じがない。
「こんな家にお嫁《よめ》に行きたいわね」
などと、明子は感心していた。
「——いけね!」
こんなことをしていられないのだ。
明子は、ともかく裏《うら》に回ってみることにした。——カサをさしている。
これが素人《しろうと》なのである。こっそり隠《かく》れて動き回ろうというのに、カサをさす者もあるまい。
しかも、明子のカサは、真っ赤で、スヌーピーのマンガ入りであった。
しかし、奇《き》跡《せき》的《てき》に、見とがめられることもなく、建物の裏《うら》手《て》へ出て来る。
ため息の出るような広い庭。サッカーができそうな——は、オーバーだが、軽い運動をやるには充《じゆう》分《ぶん》な広さであった。
「——言うことはないのか」
と、男の声がして、明子は、ハッと頭を低くした。
えい! ひさしの下まで行きたいけど、そこまで行くと見付かっちゃう。
そこで、仕方なく、カサをさして、茂《しげ》みの奥《おく》から顔を出してみたのだった。
明るい居《い》間《ま》が、ガラス戸と、薄《うす》いレースのカーテンを通して見える。
千春が、両手を後ろへ組んで、立っていた。
その背《はい》後《ご》には、あの紳《しん》士《し》が立っていて、しかし今の言葉は、別の所から出て来ていた。
「ありません」
と、千春が言った。
「こっちには何もかも、分っているんだからな」
「そうでしょうね」
と、千春は、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような言い方をした。
「お金をつかえば、できないことはないと思っているんだから」
「事実、その通りさ」
——男の声は、ソファの中から聞こえているのだった。
つまり、明子の方へ背《せ》を向けているソファに、誰《だれ》かが座っているわけだ。
「私は調べた。——お前の亭《てい》主《しゆ》が、何もしないで、ただ家を出て、ぶらついて帰って来るだけだってことをな」
「今は不景気なのよ」
と千春は言い返す。
「女《によう》房《ぼう》に、あんなアルバイトをさせて平気でいるのが男《ヽ》なのか?」
「お父さんには分らないわ」
千春の言葉に、明子は仰《ぎよう》天《てん》した。
お父さんだって?
千春が、この家の娘《むすめ》?——明子は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》としていた。
「分っても分らなくても、事実は事実だ。違《ちが》うか?」
千春は首をすくめた。
ソファの男が立ち上った。
こんな大《だい》邸《てい》宅《たく》の主《あるじ》じゃ、どんなにか立《りつ》派《ぱ》な、堂々たる人物——かと思いきや、何だか見すぼらしい、小《こ》柄《がら》な老人である。
「旦《だん》那《な》様」
と、あの初老の紳《しん》士《し》が言った。
二人のイメージからすると、まるで逆《ぎやく》であった。
「何だ」
「当の『のぞき部《べ》屋《や》』の支配人に確《たし》かめてまいりました」
「何をだ?」
「千春様は、客と外へはお出にならなかったそうです」
「外へ?」
「はあ。つまり——その——」
と、言い渋《しぶ》っている。
「体までは売らなかったっていうことよ」
と、千春が言った。
——何だか別人みたいだわ、と明子は思った。
あの、新《しん》婚《こん》家庭で、ほのぼのとした新《にい》妻《づま》だった千春が、確かに、こうして見ると、この大《だい》邸《てい》宅《たく》の居《い》間《ま》に、うまく溶《と》け込《こ》んでいるのである。
「体を売らなかった、だと?」
父親の方は、せせら笑《わら》うように、
「男に裸《はだか》を見せて金を取ってるんだ。どこが違《ちが》うんだ?」
と言った。
「お父さんにとっては、同じかもしれないわね」
「おい、それはどういう意味だ」
「分るでしょ?」
雰《ふん》囲《い》気《き》が険《けん》悪《あく》になって来た。
「まあ、お二人とも、冷静になって下さい」
と、あの紳《しん》士《し》が言葉を挟《はさ》む。
「私は冷静よ」
「私も冷静だ」
これじゃ、話が進まない。
当人たちとしては深《しん》刻《こく》なのだろうが、明子は、申し訳《わけ》ないと思いつつ、おかしくてたまらなかった。
「ともかく、佐田という男の所へ、お前を帰すわけにはいかん!」
と、父親が言う。
「私は法《ほう》律《りつ》的《てき》に、自由に夫を選べるのよ」
と、千春が言い返す。
「私はお前のために言っとるんだ」
「大きなお世話よ」
やれやれ、この分じゃ、当分終りそうにないな、と明子は思った。
「おい、大《おお》原《はら》」
と、父親があの紳《しん》士《し》に声をかける。
「はあ」
「千春をどこかへ閉《と》じこめておけ」
「しかし、旦《だん》那《な》様——」
「早くしろ!」
「いやよ! 私、帰る!」
と、千春がドアの方へ歩き出す。
「怖《こわ》いのか」
と、父親が言った。
千春が、ピタリと足を止めて、
「どういう意味なの?」
と、振《ふ》り向いた。
「お前の亭《てい》主《しゆ》に会ってやる。そして、金をやるから別れろ、と話をする」
「馬《ば》鹿《か》言わないで」
「本気だ」
千春は、じっと父親を見《み》据《す》えて、
「そんな話にあの人が乗ると、本気で思ってるの?」
「思っているとも」
「残念ながら、あの人は、そんな男じゃないわ」
「そう思うのか」
「私の夫よ」
「だからといって、どれくらい、分っているのかな?」
「お父さんよりは分っているつもりよ」
「それをためしてみようじゃないか。どうだ?」
なるほど、なかなか、説《せつ》得《とく》力《りよく》のある人物である。
金持になるだけの才覚のある人間なのだろう。
千春と父親は、長いことにらみ合っていたが、やがて千春は肩《かた》をすくめた。
「やりたければやりなさいよ」
「そうか。——よし。じゃ、今夜、彼《かれ》をここへ招《しよう》待《たい》することにしよう」
「好《す》きにしたら」
千春は、居《い》間《ま》を横切って、庭へ面したガラス戸の方へ歩いて来た。
いけない、と明子は思ったが、逃《に》げるには遅《おそ》すぎて——。
千春が、明子を見て、アッと声を上げた。
「どうした?」
と、父親が振《ふ》り向く。
「いえ。——何でもないわ」
と、千春は言った。「ちょっと、欠伸《あくび》をしただけよ」
明子はホッと息をついた。
「そうか。大原、一《いつ》緒《しよ》に来てくれ。——お前は?」
「私、ここにいるわ。少し、一人になりたいの」
「まあ、好きにしなさい」
男二人で、居間を出て行くと、千春は、ちょっとの間様子をうかがってから、ガラス戸を開けた。
「入って! 早く!」
明子はためらったが、どうせ見付かっちゃったのだ。ここは一つ、「ご招待」を受けることにしよう。
「——すみません、こんな所から」
「いいから、早く入って!——カサを貸《か》して。そのソファの下へ——」
千春は、ちょっとドアの方へ向いて、「たぶん、あれでしばらくは戻《もど》って来ないと思うわ」
「そうですか」
と明子は言った。
どう言っていいものやら、分らないのである。
まさか、
「今日は、お元気ですか? 私も元気です」
なんて、英語の初歩みたいなことは言えない。
「びっくりしたわ」
と千春は言った。
「お互《たが》い様でしょ」
「それもそうね」
と、千春は笑《わら》った。「でも、どうしてここへ?」
答えないわけにはいかない。
明子は、仕方なく、この一《いつ》件《けん》に関り合いになるきっかけから喋《しやべ》り始めた。