「何だい、えらくふくれてるな」
と、尾形が言った。
「当り前でしょ」
と、明子はぐいとやけ酒を——いや、やけコーヒー(?)をすすった。
いくらやけでも、アルコールに溺《おぼ》れるには早過《す》ぎる、お昼休み。大学の学生食堂である。
「どうしてそんなにカッカしてるんだい?」
「昨日《きのう》、屈《くつ》辱《じよく》的《てき》な出来事があったのよ」
「へえ」
明子は尾形をキッとにらんで、
「恋《こい》人《びと》がひどい目に遭《あ》ったっていうのに、『へえ』で終りなの?」
「だって、どんなことだか聞いてないよ」
尾形は大体が、おっとりのんびり型である。
「——頼《たよ》りない恋人ね。私が目の前で乱《らん》暴《ぼう》されてても、後の予定が詰《つま》ってないか考えてから、助けるかどうか決めるんでしょ」
「そんなことないよ」
と、尾形は言った。「助けを呼《よ》びに行くよ、すぐにね」
「その間に私は哀《あわ》れ——」
「そんなことより、本当に起ったことの方を話してくれよ」
「あ、そうか」
明子は、佐田千春が中松という大金持の一人娘《むすめ》と分ったこと、夫の佐田房夫を迎《むか》えに行って、中松の屋《や》敷《しき》へ戻《もど》ったことを、話した。
「へえ! 分らないもんだね、人間は」
と、尾形は首を振《ふ》った。
「私もそう思ったわ」
と、明子は言った。「千春さんなんか、見かけは本当に地味で堅《けん》実《じつ》な主《しゆ》婦《ふ》なのに。——こっちがそのつもりで見ると、そう見えるものなのよね」
「それが人間の心理ってものだろうね」
と、尾形は肯《うなず》いた。「それからどうしたの?」
明子は肩《かた》をすくめた。
「それだけ」
「それだけ?」
と、尾形は不思議そうに、「中松って屋敷に戻ってからはどうしたの?」
「入れてもらえなかったの」
「へえ」
「もちろん、素《そ》知《し》らぬ顔して、入って行ったわよ。でも、例の、千春さんを迎《むか》えに来た男と、もう一人、運転手が私に襲《おそ》いかかって——」
「な、何だって?」
現《げん》実《じつ》の話となると、尾形の顔色も変る。「そ、それで大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったの? どこかへ連れ込《こ》まれたとか——」
「連れ込まれりゃ良かったのよ」
と、明子は穏《おだ》やかでないことを言い出した。「実《じつ》際《さい》は、そのまま門から表へ放り出されたの」
「何だ。そうだったのか」
と、尾形は胸《むね》をなでおろした。「しかし、君を放り出すとは、相当な連中だね」
「油《ゆ》断《だん》しているところを、後ろからひねられちゃったのよ。あの運転手、柔《じゆう》道《どう》ができるんだわ、きっと」
明子は、いまいましそうに言った。「まともにやれば、負けないのに!」
「変なことにファイトを燃《も》やすなよ」
と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「で、その後、佐田夫《ふう》婦《ふ》がどうなったのか、分らないんだね?」
「そうなの」
と、明子は肯《うなず》いた。「しばらく、諦《あきら》め切れなくて、塀《へい》の外をウロウロしてたんだけどね」
「結局は——」
「何も分らなかったの」
明子は、ランチのホットドッグにかみついて、口中に頬《ほお》ばりながら、
「そういえわ……ムニャ……なぬかへんの人——」
「ちゃんと食べてからしゃべれよ」
明子はコーヒーで、ホットドッグを流し込《こ》むと、
「そう言えば、何か変な人に会ったのよ」
「どこで?」
「その塀《へい》の外を歩いてたときよ」
「どう変なんだい?」
「むだだよ」
といきなり声がして、明子は飛び上りそうになった。
振《ふ》り向くと、三十歳《さい》ぐらいか、ジャンパー姿《すがた》の青年が立っている。
「何ですか?」
と明子は訊《き》いた。
「むだだと言ったんだよ」
「何が?」
「この塀は越《こ》えられない。中には、猛《もう》犬《けん》が放してあるんだ、夜になるとね」
明子は、耳を澄《す》ました。
なるほど、時々、庭のどこかで、犬の低い唸《うな》り声や鳴き声が聞こえている。
「あの……」
明子はその青年を見て、「あなたはどなた?」
と訊《き》いた。
「僕《ぼく》はこの家の主《あるじ》なんだ」
青年は言った。
「え?」
と、明子が思わず訊き返す。
「あるじ。主人」
「分りますよ、それくらい」
と、明子はムッとして言った。「でも、それ、どういう意味ですか?」
「文字通りの意味だよ」
と、青年は肩《かた》をすくめて、「この家や土地、総《すべ》ては、本来、僕のものなんだ」
「はあ」
「だから、主だって言ったんだ」
なるほど、と明子は思った。——こりゃ、少々おかしいのに違《ちが》いない。
「でも、私、別にここへ忍《しの》び込《こ》むつもりじゃないんですけど」
と明子は言った。
「ああ、そう」
青年は大して気のない様子で、「じゃ、何してるの、こんな所で?」
そう訊《き》かれると困《こま》ってしまう。
「ええと……知ってる人が中にいるんですけど、それがどうなったか心配で」
と言った。
当らずさわらずの表《ひよう》現《げん》である。
「でも、塀《へい》の外を歩いてたって、中のことが分るわけじゃないだろう」
「それはまあ、そうだと思いますけど」
「じゃ、諦《あきら》めた方がいいよ。足が疲《つか》れるだけ損《そん》だ」
「そうですね」
「お茶でも飲まない?」
いきなり話が変って、明子は調子が狂《くる》ってしまった。
「いえ、——別に——あの」
と、口ごもっている間に、相手の男は、
「じゃ、行こう。すぐそこに、いい味のコーヒー店があるよ」
明子は、わけの分らない内に、十分ほど歩いたコーヒーショップに入ることとなった。
——なるほど、店の構《かま》えはみすぼらしいが、コーヒーは旨《うま》かった。
これで、多少この青年を見直す気にもなった……。
「あなたは?」
と明子が訊《き》くと、青年は首を振《ふ》って、
「そういうときは自分から名乗ってくれなくちゃ」
と、うるさい。
「私は永戸明子」
「僕《ぼく》は中松進《しん》吾《ご》」
「中松……」
確かに、あの大《だい》邸《てい》宅《たく》と同じ名だが。「で、あなたは何をしてたんですか?」
「見回りさ」
「見回り?」
と、明子は目をパチクリさせて、「ガードマンでもやってるんですか」
中松進吾と名乗ったその青年は、いたくプライドを傷《きず》つけられた様子で、
「自分の土地を視《し》察《さつ》してるんだ」
と言って、胸《むね》をそらした。
「あ、どうも失礼」
と明子は舌《した》をペロリと出した。
中松が笑《わら》い出して、
「いや、面白い人だな」
と言った。「永戸明子さんだったかな」
「一度で憶《おぼ》える人って珍《めずら》しいんですよ」
明子は、賞《ほ》めたつもりで言った。
「知り合いが中にいるって?」
「ええ」
「何という人?」
「あそこの娘《むすめ》さんとか。——千春さんというんです」
とたんに、中松の顔がサッと青ざめた。明子はびっくりして、
「ど、どうかしました?」
と訊《き》いた。
「今、千春といった?」
「ええ……」
「帰って来たのか!」
今度は、中松の顔は紅《こう》潮《ちよう》した。忙《いそが》しい男だ。
「知ってるんですか」
「もちろん!」
「同じ中松というと——兄《きよう》妹《だい》か何かで——」
「いや、僕と千春は婚《こん》約《やく》してるんだ」
今度こそ、明子は引っくり返りそうになった。
「婚約?」
「そう。——しかし色々な事《じ》情《じよう》があって、僕《ぼく》らの仲《なか》は裂《さ》かれ、彼女《かのじよ》は行《ゆく》方《え》をくらましてしまった」
「それで?」
「彼女の心は変っていない。だからこそ帰って来たんだ!」
また明子は首をひねった。——この喜びようも、まともではない。
それに、「彼女の心は変っていない」どころか、ちゃんと彼女は結《けつ》婚《こん》しているではないか!
「いや、きっと帰って来てくれると信じていたんだ! ずっと信じ続け、待ち続けたか《ヽ》い《ヽ》があった」
「あの……」
「千春は元気だった?」
「ええ、まあ……」
「良かった! いや、実に嬉《うれ》しい知らせだ。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
と明子は、曖《あい》昧《まい》な気分で言った。
千春がすでに結婚していることを、話すべきだろうか、と迷《まよ》ったのである。
「いや、実に良かった!」
と中松は、浮《う》かれているようで、「さあ、何でも好《す》きなものを取って下さい!」
と言ったが、コーヒー専《せん》門《もん》店《てん》で、ステーキを頼《たの》むわけにもいかない。
二杯《はい》コーヒーを飲んで、その場は諦《あきら》めることにしたのだが——。
「どうしたの?」
と、尾形が訊《き》いた。
「呆《あき》れてものも言えないってのはこのことよ!」
「どうして?」
「その人、お金持ってなかったの。『や、忘《わす》れて来た』ですって。結局、こっちが払《はら》うはめになったのよ」
明子は憤《ふん》然《ぜん》として言った。
「そりゃ君は恨《うら》みに思うね」
「当り前でしょ。何が大地主だか、聞いて呆れちゃう」
「しかし、そんなもんかもしれないぜ」
と、尾形は言った。「割《わり》合《あい》、お金の感覚がないというか——」
「そうかもね。でも、どうでもいいわ」
「本当に、その千春って人の婚《こん》約《やく》者《しや》だったのかな?」
「それも分らないわ。でも、その後、何も話さなかったから。——金払《はら》わされて、頭に来てさっさと帰って来ちゃったの」
「君らしいや」
「でも、どうなってるのかしら?」
と、明子はため息をついた。「あの、亭《てい》主《しゆ》の佐田の方を、調べてみたいんだけどね」
「あんまり深入りすると危《あぶな》いぜ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。危い目には別に——」
と言いかけて、明子は、車にはねられそうになったことを思い出していた。
「これから、どうするんだい?」
と、尾形は訊《き》いた。
「家へ帰るわ」
「いや、事《じ》件《けん》の方さ」
「ああ。——あの夫《ふう》婦《ふ》のアパートへ行ってみるつもり」
「なるほど」
「今朝《けさ》、寄《よ》ってみたけど、誰《だれ》もいないの」
「帰ってないんだな」
「もう帰って来ないのかも……」
と明子は呟《つぶや》くように言った。
しかし——あの中松という、一風変った青年。
いやに、明子の印象に焼きついてしまっている。
——明子は犬が水を切るように、ブルブルッと頭を勢い良く振《ふ》った。