「死にたい」
と、白石知美は言った。
「やめてよ、この間やりかけたばっかりじゃないの」
と、明子は顔をしかめた。
しかしいかに鈍《どん》感《かん》な——いや神《しん》経《けい》の太い——いや、しっかりした明子でも、知美の気持は分らないでもない。
愛し、信じていた夫が、実は大学内で女子学生の売春のあっせんをし、退《たい》学《がく》になっていたというのだから……。
「気持はよく分るわよ」
と、知美の肩《かた》に手をかけて、「私だってあなたの立場だったら——」
でも、死にたいとは思わないわね。
よくも今まで私を騙《だま》してくれたわね! 死んでせいせいしたわ、というところか。
白石は殺された。
なぜだろう?——その売春のあっせんと関係があるのか。
「よく考えてみましょうよ」
と、明子は、知美と二人で公園のベンチに座り込《こ》んだ。
「死にたい……」
「大学は退《たい》学《がく》になっても、女の子たちと連《れん》絡《らく》が取れないわけじゃない。それなら、退学になって、ますますそのアルバイトに、精《せい》を出していたとも考えられるわ」
「死にたい……」
「そうなると、殺された理由も、それに関係があると思って良さそうね。差し当り、その相《あい》棒《ぼう》っていうのを、何とかして捜《さが》し出す必要があるわ」
「死んじゃいたい……」
「警《けい》察《さつ》に話せば、ご主人のしていたことが分っちゃうし、ここは私たちで頑《がん》張《ば》って、何とか——」
「死にたいわ……」
明子は突《とつ》然《ぜん》大声で、
「死ぬなーっ!」
と怒《ど》鳴《な》った。
知美が仰《ぎよう》天《てん》して飛び上り、その拍《ひよう》子《し》にベンチの端《はし》から落っこちた。
明子もびっくりして駆《か》け寄ると、
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
と抱《だ》き起す。
「え、ええ……」
知美は目をぱちくりさせながら立ち上って、「凄《すご》い声ね」
「だって、あなたが『死ぬ、死ぬ』ばっかり言ってんだもの。だめよ、いくつだと思ってんの? そんなこと言うには十年——いえ五十年は早いわ」
知美は、ちょっと泣《な》き笑《わら》いのような顔になった。
「分ったわ。ごめんなさい」
「分りゃいいのよ。——じゃ、何か甘《あま》いものでも食べましょ」
明子にとっては、生きる希望は常《つね》に、食《しよく》欲《よく》と結びついているのである。
「——おお、熱い」
明子と知美は和風喫《きつ》茶《さ》なる所へ入って、おしるこを食べた。
「その点はあなたの言う通りだと思うわ」
と、知美は肯《うなず》いて、言った。
「ね? 警《けい》察《さつ》へ知らせれば、ことが公になるし——」
「できないわ、とても。彼《かれ》のご両親はいい人なんですもの」
知美は首を振《ふ》った。「でも、それじゃあ、どうやって、主人の相《あい》棒《ぼう》だった人を捜《さが》すつもり?」
「それなのよ」
と、明子は肯《うなず》いた。「何かいい方法ないかしら」
二人はしばらく考え込《こ》んだ。
「ともかく——」
と、明子は言った。「ご主人が死んだことで、あの大学の女子学生は、仕《ヽ》事《ヽ》を失ったかもしれないわね」
「それきり、何《ヽ》も《ヽ》しないかしら?」
「そこよ!」
明子はパチッと指を鳴らして、「いい? 女子大生を売り物にしてるあの手の商売って沢《たく》山《さん》あるけど、たいていは眉《まゆ》ツバものなのよ」
「へえ」
「本物の女子大生なら、男たちが鼻の下を長くして、大いに稼《かせ》げる。その貴《き》重《ちよう》な供《きよう》給《きゆう》源《げん》を、その謎《なぞ》の相棒が、そう簡《かん》単《たん》に諦《あきら》めるわけがないわ」
「というと?」
「ほとぼりがさめれば、必ず、またあの大学の女子学生たちに、手を伸《の》ばして来るに決ってるわよ」
「そこを捕《つか》まえるの?」
「捕まえたって、ご主人が殺されたことの真相をペラペラしゃべってくれるとは限《かぎ》らないでしょ」
「それはそうね」
「まず、素《そ》知《し》らぬ顔で近づく必要があるわ」
と、明子は言った。
何やら思い付いた顔つきである。
「近づく、って……。でも、一体、どうやって?」
と知美は訊《き》いた。
「その相《あい》棒《ぼう》も、あの大学で、誰《だれ》と誰がアルバイトをしてたのか、当然、知ってたはずだわ」
「あの川並はるかさんみたいな人ね?」
「まず、その子たちに、声をかけるでしょうね」
「あの人たちも、アルバイトの収《しゆう》入《にゆう》がなくなってるわけですものね」
「そうよ。一度、男と付き合って何万円かになるわけでしょ。そんなアルバイト、他にないものね」
「話が来れば喜んで飛びつくでしょうね、きっと」
「そこが狙《ねら》い目だわ」
と、明子は考え込《こ》んだ。
しばらく、考えてから——もっとも、その間は、黙《もく》々《もく》とおしるこを食べていたのだが——明子は、
「よし!」
と力強く言った。
「どうしたの?」
「それしか手はないわ」
「どういうこと?」
「その組《そ》織《しき》に入り込《こ》むの」
——知美は、ちょっとの間、ポカンとしていたが、
「つまり……」
「女子大生なのよ、私だって。お金の欲《ほ》しい可愛《かわい》い女子大生」
可愛い、という所は、少々気がとがめたのか、声がやや低くなった。
「あなたがやるの?」
知美は目を丸《まる》くした。「いけないわ、そんな!」
「本当にやりゃしないわよ。ただ、相《あい》棒《ぼう》というのを見付けりゃいいわけなんだから。分る?」
「ええ、でも……」
知美は不安げに言った。「あなたに、もしものことがあったら……」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。私はね、そう簡《かん》単《たん》には死なないんだから」
「でもスーパーマンじゃないんでしょう?」
「失礼ね、これでも女よ」
と、明子は腕《うで》を組んだ。
「だけど、どうやって組織に入るの?」
「それはこれから考えるわ」
明子は呑《のん》気《き》に言った。
「でも——気を付けてね」
と、知美は言った。「あなたに万が一のことがあったら申し訳《わけ》なくて、私——」
そう。そういえば、白石は殺されたのだ。
それに茂木こず枝も謎《なぞ》の死をとげ、保《ほ》科《しな》光子も殺された。
それぞれが、どう関り合っているのかは分らないが、何も関係がないとは、思えなかった。
つまり——下手《へた》をすれば「消される」こともある、というわけだ。
しかし、言ってしまった以上、後には退《ひ》けない。
何とかなるさ、と明子は、口の中で、呟《つぶや》いた。
「アルバイトしようと思うの」
と明子が言った。
「ふーん」
尾形は、食事を終えて、一息つくと、「探《たん》偵《てい》ごっこには飽《あ》きたのかい?」
と言った。
「失礼ね! 『ごっこ』とは何よ!」
と明子は食ってかかった。
「ごめんごめん」
尾形は笑《わら》って、「しかし、改まって僕《ぼく》にそんなことを言うなんて、どことなく怪《あや》しげだなあ」
——ちょっと高いレストランである。
当然、尾形のおごりだった。
「で、何をやるんだい?」
尾形はワインのグラスを取り上げて、言った。
「うん、ちょっと女子大生売春ってのをやってみようと思って」
尾形はむせかえって、咳《せき》込《こ》んだ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
と、明子が身を乗り出す。
「君が——びっくりさせるじゃないか」
尾形は水をガブ飲みして、息をつくと、「冗《じよう》談《だん》はそれらしく言ってくれよ」
と、言った。
「あら、本気よ」
尾形はポカンとして、
「しかし——まさか——」
「安心して。これは手《しゆ》段《だん》なの」
「手段って、何の手段?」
「今、話したでしょ。白石のやっていた売春組《そ》織《しき》ってのが、どうも、そもそもの花《はな》嫁《よめ》変死事《じ》件《けん》に関係があるような気がするのよね」
「だからって——」
「他に方法、ないじゃない」
尾形はグッと詰《つま》ったが、
「——し、しかし、やはりそれは問題だよ」
「どうして?」
「いいかい、もし、その組織に潜《もぐ》り込《こ》めたとしても、すぐに、その相《ヽ》棒《ヽ》というのに会えるとは限《かぎ》らないぜ」
「そりゃそうよ」
「じゃ、仕事がも《ヽ》し《ヽ》来たら、どうするつもりだ?」
「も《ヽ》し《ヽ》って何よ? あなた、私みたいな女じゃ声がかからないと思ってんの?」
「変なところでむ《ヽ》き《ヽ》になるなよ」
「当然、仕事が来りゃ、やるしかないじゃないの」
尾形は顔をこわばらせた。
「だめだ! 君にそんなことはさせられない!」
「じゃ、あなた、代りにやる?」
「僕《ぼく》が?」
「いくら女《じよ》装《そう》したって無《む》理《り》でしょ」
尾形は、ゴクリとツバを飲み込《こ》んだ。椅《い》子《す》に座り直すと、
「よく聞け」
と言った。「どうしても、そんなアルバイトをやる、というのなら、二つに一つだ!」
「どの二つ?」
「僕と別れるか、アルバイトをやめるか」
尾形の真《ま》面《じ》目《め》な顔を見ていた明子は、ゲラゲラ笑《わら》い出した。
「いやだ!——本気でそんなことをやると思ったの?」
「君は——全く、もう!」
尾形は真っ赤になって、「ひどいぞ、年上の男《だん》性《せい》をからかって!」
「でも、なかなか可愛《かわい》かったぞよ」
と、明子はワイングラスを取り上げた。「乾《かん》杯《ぱい》しましょ」
「何に?」
「私と尾形君の未来に」
「人をの《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》のがうまいんだからな」
尾形は、苦《く》笑《しよう》しながら、それでも楽しげにグラスを手に取った。