「お嬢《じよう》さん」
と、声をかけて来たのは、一向にヤクザ風でもない、ごく普《ふ》通《つう》の中年の主《しゆ》婦《ふ》だった。
「私ですか?」
と、明子は顔を上げた。
A大学の裏《うら》門《もん》に近い、スナック。
まだ昼前なので、ガラ空きである。
「そう。——ちょっとお話があるの」
明子は、困《こま》ったな、と思った。
例の「アルバイト」の口をかけて来る人間に、見られようとして、ここ三日間、A大学の近くの店をうろついているのだが、一向に声もかからない。
たまにかかれば、こんな、どこかのおかみさんタイプの女《じよ》性《せい》。
きっと、生命保《ほ》険《けん》の話でもする気じゃないのかしら。
いいとも言わない内に、その主婦は、明子の向いの席に座っていた。
「あなたここの大学生なの?」
「ええ」
と、明子は肯《うなず》いた。
「大学に行かないの?」
「面白くないんだもの」
と、明子は、ちょっとワルぶって見せた。
「何をしてるわけ?」
「何をしようかって考えてるの」
「そうなの。でも、お金、あるの?」
「少しならね」
と明子は肩《かた》をすくめて見せた。
「お金、ほしい?」
「もちろんよ」
これは、ちょっと怪《あや》しいな、と明子は思った。
「いいアルバイトがあるの。どう? やらない?」
「封《ふう》筒《とう》貼《は》り? あて名書き?」
主《しゆ》婦《ふ》は笑《わら》って、
「そんなんじゃ、一か月かかって、やっと何千円かよ」
「アルバイトなんて、大体そんなもんじゃないの」
「一時間で二万円。どう?」
明子は、目をパチクリさせて、主《しゆ》婦《ふ》の顔を眺《なが》めた。
この主婦が、売春のあっせん?——まさか!
「どういうバイト?」
と、明子は聞いた。
「楽しいわよ。面白くてためになって、お金になるわ」
明子は、フフ、と笑《わら》って、
「じゃ、決ってるわね」
と、言った。
「そう。そ《ヽ》う《ヽ》い《ヽ》う《ヽ》バイトよ」
と、主婦は微《ほほ》笑《え》んだ。
「どうやって、相手と会うの?」
「待って。その前に、言っとくけど、三万円の約《やく》束《そく》なの。その内、一万円をこっちへ納《おさ》める」
「いいわ。もっとチップをもらったら?」
「それはあなたのものよ」
「へえ。——でも、何だか心配だな」
「今は危《あぶな》い時期?」
話が生々しくなって来て、明子はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。
「そうじゃないけど——変な相手じゃいやだしさ。こう——まともじゃないのは」
「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。うちのお客は、上等だし、お金もあるわ。それに年《ねん》齢《れい》の行ってる人が多いから、上手よ」
「そう?」
「それに、若《わか》いのみたいに、ただやればいいってのと違《ちが》って、ムードがあるわ。絶《ぜつ》対《たい》に、楽しめるわ」
明子は、迷《まよ》っているふ《ヽ》り《ヽ》をして、
「でも、一つ心配なのよ」
と言った。
「なあに?」
「暴《ぼう》力《りよく》団《だん》とかさ、そんなののヒモつきだと、あとで怖《こわ》いじゃないの」
「その点は大丈夫」
「でも、おばさんだって、責《せき》任《にん》者《しや》じゃないんでしょ?」
「私は外交員よ」
保《ほ》険《けん》だね、まるで。
「上の人に会わせてよ。そしたら安心できるから」
「それは、まず腕《うで》を見てから」
「腕?」
「そう。お客が満足して、また会いたい、って言うようなら、合格よ」
明子は、ゴクリとツバを飲み込《こ》んだ。——こうなると、やめるわけにもいかなくなってしまう。
「いいわ」
と明子は言った。「じゃ、これが試験ってわけね」
「じゃ、商談成立ね」
と主《しゆ》婦《ふ》は、肯《うなず》いて、「待ってて」
店の赤電話の方へ歩いて行くと、どこやらへ電話をしている。
呆《あき》れたもんだわ、と明子は思った。
あんな普《ふ》通《つう》の主婦が、こんな仕事をしているんだ!
「はい。——じゃ、すぐにそこへ。——はい、それじゃ」
主婦は急ぎ足で戻《もど》って来た。
「良かったわ、ちょうど今、お客がいるの」
「え?」
「案内するわ。行きましょ」
と促《うなが》される。
明子は迷《まよ》ったが、ここで、いやだと言い出せば、もう声はかかるまい。
何とかなるさ! 明子は椅《い》子《す》をずらして立ち上った。
連れて行かれたのは、ちょっと小ぎれいなマンションの一階にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》。
主《しゆ》婦《ふ》は店に入って、中を見回すと、週《しゆう》刊《かん》誌《し》を開いている中年の男の方へ歩いて行った。
「お待たせして」
「君が?」
と中年男が目を丸《まる》くした。
「違《ちが》いますよ」
と主婦は笑《わら》って、「入口に立ってる子です」
と、明子の方へ目をやった。
「いかがです?」
「——うん、なかなかいい」
と、中年男は肯《うなず》いた。「結《けつ》構《こう》だね」
こっちはコケコッコーだわ。明子は、仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で立っていた。
「じゃあ……」
と主婦は明子の方へやって来ると、「一時間したら、ここに来て待ってるわ」
と言って、ポンと肩《かた》を叩《たた》いた。
「しっかりね」
「どうも——」
成り行きとはいえ、少々困《こま》った事《じ》態《たい》であった。
中年男は、見たところ、そういやな男でもない。
まずは上級のサラリーマンである。
「出ようか」
と、席を立ってやって来る。
「はあ」
どうしようか?
明子が割《わり》合《あい》のんびりしているのも、いざとなれば、合《あい》気《き》道《どう》がある、と思っているからである。
ともかく、まず、どこへ行くのかを確《たし》かめよう、と思った。
それから、例の「相《あい》棒《ぼう》」の手がかりがつかめるかもしれない。
ところが、その中年氏は、外へ出ずにそのままマンションのホールへと入って行ったのだ。
「どこに行くの?」
と、明子は訊《き》いた。
「何だ知らんのか?」
「ええ」
「じゃ、本当に初めてなんだな」
と、中年氏はニヤリと笑《わら》った。
「このマンションの中に部《へ》屋《や》があるのさ」
「ここに?」
これは有力な手がかりだ、と思った。
マンションであるからには、その部屋の持主がいるはずだからだ。
よし、後で調べてみよう。
エレベーターで四階に上る。
「——四〇二号室だよ」
と、中年氏が廊《ろう》下《か》を歩きながら言った。
静かだった。どの部屋にも、人がいないのかしらと思うほどである。
「ここだ」
中年氏が鍵《かぎ》を出して、ドアを開ける。「この鍵が三万円とはね。——まあ、入って」
明子は、上り込《こ》んだ。
ごく普《ふ》通《つう》の、2LDKぐらいのマンションである。
「ここがいつも?」
と、明子は訊《き》いた。
「ああ。他にもいくつか部屋があるんだ」
「このマンションの中に?」
「あちこちさ。——さあ、時間がない」
いきなり後ろから抱《だ》きしめられて、明子はあわてて身をよじった。
「あ、あの——ちょっと——いくら何でもムードが——」
「なるほど」
と中年氏はすぐに手をほどいて、
「じゃ、アルコールをちょっとやろうか」
「そ、そうね……」
明子はホッと息をついた。
どの辺でやっつけるかな。——もう少し聞き出してから。
このおっさん、何度かここを利用しているらしい。
「——さあ、カクテルだ。甘《あま》いからね」
とグラスを二つ持って来た。
アルコールなら、明子は少々のことではへばらない。
「じゃ、乾《かん》杯《ぱい》だ」
「ええ。——乾杯」
と、明子はグッとグラスをあけた。
頭がクラクラした。足がもつれる。
手から、グラスが落ちた。立っていられない。
「私——どうして——」
明子は、床《ゆか》に座り込《こ》んでしまった。
「薬に慣《な》れてないね」
と、中年氏が楽しげに言った。「よく効《き》いたな」
「薬ですって?」
「そう。薬で動けなくなったところで楽しむのが好《す》きでね。——シャワーを浴びて来よう。その間に、君は身動きできなくなる」
口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら、中年氏がドアの一つの向うへ消える。
明子は這《は》って出口の方へ進もうとしたが、一メートルと行かずに、手足がしびれて、動けなくなってしまった。