「間違ってたわ」
と、明子が言った。
「そうだ」
尾形が肯《うなず》く。「大体君がこんなことに首を突《つ》っこんだのが間違いだ」
「違うのよ。私たちの捜《そう》査《さ》方《ほう》針《しん》が、間違ってたのよ」
「『私たちの』じゃない! 君《ヽ》の《ヽ》捜査方針だ」
「あらそう」
明子はむくれた。
「まあ、落ちついて」
と、志水が笑《わら》いながら言った。「ともかく無《ぶ》事《じ》だったんですから——」
「冗《じよう》談《だん》じゃないですよ」
と、尾形は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》である。「無事でなかったら大変だ」
——ここは再《ふたた》び社長室である。
警《けい》察《さつ》も駆《か》けつけて、ナイフを調べるべく持って帰った。
肝《かん》心《じん》の犯《はん》人《にん》だが、どうも、はっきり顔を憶《おぼ》えている人間が一人もいなくて、
「中肉中《ちゆう》背《ぜい》の、若《わか》いか中年の男」
という、これより漠《ばく》然《ぜん》とは言いようのない表《ひよう》現《げん》になってしまった。
「しかし、困《こま》ったもんだ」
と、社長もため息をつく。「この式場で、人は死ぬわ、刺《さ》されそうになるわ……。あまり続くと、お祓《はら》いでもしてもらわんと、客が来なくなる」
「でも、今の人、そんなこと気にしませんわ」
と明子が言った。
「そうかね?」
「ええ、お祓《はら》いにかける分を、値《ね》引《び》きしてあげたら、もっと喜びます」
「なるほど、そんなものかもしれんな」
と、社長は肯《うなず》いた。「ところで、君が間《ま》違《ちが》ってた、というのは、どういう意味だね?」
「忘《わす》れていたってことです」
と、明子は言い直した。「そもそもの事《じ》件《けん》はこ《ヽ》こ《ヽ》から始まったんです。だから、ここに戻《もど》って調べ直すべきなんですわ」
「分ったようで分らんな。——何のことを言っているのかね?」
「最初の茂木こず枝は、自殺かもしれない。確《たし》かに、死へ追いやられた、という意味では他殺とも言えますけど、犯人はそばにいなくてもいいわけです」
「それはそうだな」
「そうなると、直《ちよく》接《せつ》、誰《だれ》かが手を下した殺人は、保《ほ》科《しな》光子さん、そして白石紘《こう》一《いち》、それに私……」
「君は生きてるじゃないか」
と尾形が言った。
「残念そうな口ぶりね」
「いや、そんなことは……」
明子ににらまれて、尾形は、あわてて目をそらした。
「その三つの事《じ》件《けん》には共通点があるんです」
「そうか」
と、志水が肯《うなず》いた。「ナ《ヽ》イ《ヽ》フ《ヽ》だね」
「そうなんです。しかも、三つとも、とても鮮《あざ》やかな手口です。今度だって、もし成功したら、犯人はとても捕《つか》まらなかったでしょう」
「失敗したけど、捕まってないよ」
「分ってるわよ!——この三つの事《じ》件《けん》、ちょっと偶《ぐう》然《ぜん》とは思えません」
「同感だな」
と、社長が言った。「これはきっと同一犯《はん》人《にん》の犯《はん》行《こう》だ」
「そうなると、私たち、もっと最初の犯行——保科光子さんが殺された事件を、よく調べてみるべきだったと思うんです」
「なるほど」
社長は、志水の方を見て、「あの事件の捜《そう》査《さ》はどうなってるんです?」
と訊《き》いた。
「今のところ、手がかりがないようですな。お恥《は》ずかしい限《かぎ》りですが」
「何か恨《うら》みを買っていたとか——」
と尾形が口を挟《はさ》む。
いくらか興《きよう》味《み》を覚えて来たようだ。明子は、しめしめ、というように、横目で尾形の方を見た。
「男関係などを中心に洗《あら》ったようですが、何も出て来なかったらしい」
「古いんだよね、警《けい》察《さつ》って」
と明子が暴《ぼう》言《げん》を呈《てい》した。「発想が三十年は遅《おく》れてる」
「それはあるかもしれませんな」
と、志水は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。
「通り魔《ま》的《てき》犯《はん》行《こう》とか、そんなことじゃ、解《かい》決《けつ》にはならないと思います。やっぱり、これは一連の事《じ》件《けん》の一つと考えるべきですわ」
「すると、なぜ彼女《かのじよ》が狙《ねら》われたのか」
尾形は明子を見て、「君と間《ま》違《ちが》えられたとは思えないね」
「彼女、三十よ。私は二十一!」
「分ってるよ」
尾形は、あわてて少し体をずらした。
「そうなると……」
「あのお弁《べん》当《とう》箱《ばこ》かしら?」
保科光子が、明子に預《あず》けた、包みの中身である。ごくありふれた弁当箱で、中は空っぽだった。
「うん、そうだな」
と、社長は肯《うなず》いた、「他には考えられん」
「でも、何の変《へん》哲《てつ》もない弁《べん》当《とう》箱《ばこ》だったけど……」
「彼女《かのじよ》の手紙があったね」
「ええ。〈私の身に万一のことがあったら、開けてくれ〉とありました」
「すると、やはり、あの弁当箱には、何か秘《ひ》密《みつ》があるのかな」
「それ、どこにあるんだい?」
と尾形が訊《き》いた。
「うちにあるわ。警《けい》察《さつ》に届《とど》けたって、笑《わら》われるのがオチだし」
「よし、じゃ一つ、調べてみようじゃないか」
「持って来るわ」
明子が張《は》り切って立ち上る。
「ついて行くよ。またナイフで狙《ねら》われでもしたらこ《ヽ》と《ヽ》だ」
尾形が、ナイトよろしく、ついて社長室を出る。
「あなたも、大分乗《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》来たわね」
廊《ろう》下《か》を歩きながら、明子が言うと、尾形はむずかしい顔で、
「早く解《かい》決《けつ》しないと、君が講《こう》義《ぎ》に出席しないからだ!」
と言い返した。
「無《む》理《り》しちゃって」
と、明子はゲラゲラ笑《わら》った。
尾形はため息をついた。——どうして俺《おれ》はこんな女の子に惚《ほ》れちまったんだろう、とでも嘆《なげ》いているかのようだった……。
調べれば調べるほど、どこといって変った所のない弁《べん》当《とう》箱《ばこ》だった。
「——二重底にもなっていないようだな」
と、尾形は言った。
再《ふたた》び社長室、一時間後。顔ぶれも同じで、違《ちが》っているのは、明子の主《しゆ》張《ちよう》で——というほど大げさなものじゃないが——コーヒーとケーキが出ているところだった。
もちろん、これは事《じ》件《けん》に直《ちよく》接《せつ》関係ない。間《かん》接《せつ》的《てき》にも、ない。
「材《ざい》質《しつ》もただのアルミだね。JISマークもついているし、別にどこといって変ったところはない……」
と、志水が言った。
「これに、一体何の秘《ひ》密《みつ》が隠《かく》されているのかな?」
尾形は、弁当箱をひっくり返したり、持ち上げてみたり、叩《たた》いてみたり、食べてみたり——はしなかったけれど、ともかく、色々と調べたのである。
「使ったものかな」
と、社長が言った。
「そうですね。新しいことは確《たし》かだが——」
志水が弁《べん》当《とう》箱《ばこ》を取り上げ、「たぶん、使ってあると思いますよ」
「でも——誰《だれ》が?」
と、明子が言った。
一《いつ》瞬《しゆん》、他の三人がポカンとした。
「そうだわ! まず肝《かん》心《じん》のことを調べなきゃ!」
と、明子は手を叩《たた》かんばかりにして言った。「この弁当箱の持《ヽ》主《ヽ》は誰か、ってことですよ!」
「なるほど——」
と、志水が大きく肯《うなず》いた。「これは保《ほ》科《しな》光子の物じゃないかもしれない」
「違《ちが》うと思いますわ」
と、明子は言った。「光子さんは、いつも食堂で食べてたんです。私、よく一《いつ》緒《しよ》に行きましたから。一人だと、お弁当なんか作るよりも、外食の方が安く上るんです」
「なるほど、すると、彼女《かのじよ》は、この弁当箱の持《ヽ》主《ヽ》のことを教えたかったのかな」
「でも、それにしたって、容《よう》易《い》じゃありませんね」
と、尾形が言った。
「確《たし》かにね。こんな弁当箱を使っている人間はいくらもいる」
と社長が言った。
「でも、光子さんがわざわざ私の所に送って来たのは、きっとこ《ヽ》れ《ヽ》で犯《はん》人《にん》が分るからだったんだと思うんです。つまり、身近にいる誰かだと……」
「そいつは正しい指《し》摘《てき》だな」
と、尾形が言った。「そうなると、問題は、保科光子が教えようとしていた『身近』というのが、どの辺を指すか、の問題になって来る」
「彼女《かのじよ》の近所か、それとも——」
と言いかけた志水を遮《さえぎ》って、
「そうだわ! 分った!」
と、明子は飛び上った。
正に、ソファから十センチも飛び上ったのである。
「ど、どうしたんだ?」
尾形が目を丸《まる》くしている。
「あの言葉よ! 茂木こず枝の言った、『こんな仕事をしてるなんて、皮肉なもんね』という——」
「それがどうした?」
「もし、その男が、この結《ヽ》婚《ヽ》式《ヽ》場《ヽ》で働いていたら、それなら『皮肉』っていうのも分るじゃないの!」
そうだわ。明子は思い当った。あの、ぎっくり腰《ごし》になった男から聞いた電話番号。
どこかで見たと思ったのだが、この式場の番号に似《に》ている。
「そうか……」
尾形も、さすがに唸《うな》った。「それで、その弁《べん》当《とう》箱《ばこ》も、その男のものだとしたら、何もかも分るね」
「きっとこれだわ! それが答えなのよ!」
志水は微《ほほ》笑《え》んで
「どうやら、それが正《せい》解《かい》らしい。しかし、社長さんには、難《むずか》しい事《じ》態《たい》ですな」
明子はあわてて口をつぐんだ。
言われてみればその通りだ。ここの職《しよく》員《いん》の中に、主《しゆ》婦《ふ》売春や、殺人に関った者がいる、というのだから……。
「いや、こいつは参った」
と、社長はふうっと息をついた。
「しかし、こうなった以上、真相はあくまではっきりさせなくては。社長としての責《せき》任《にん》問題になるからね」
「すみません、騒《さわ》ぎ立てて」
と、殊《しゆ》勝《しよう》に明子が謝《あやま》る。
「いや、もし、このまま放っておけば、ずっと事《じ》件《けん》が続いたかもしれん。早く分って幸いだったよ」
「さすがに社長! 大物は違《ちが》いますね」
「持ち上げるな」
と苦《く》笑《しよう》して、「では、どうやって調べるかな?従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》は少なくないが」
「それが問題ですね」
と、尾形も、今は真《しん》剣《けん》である。
「いくら多くても、一万人はいないんですから」
明子は大きく出た。
「しかし、弁《べん》当《とう》持参というのは、そう多くないのじゃないかね」
と社長は言った。「よし、じゃ、何か名目をつけて、誰《だれ》と誰が弁当を持って来ているか、アンケートを取ってみよう」
「それは名案だ」
と、志水が言った。
「でも、犯《はん》人《にん》が、もしこの弁当箱のことを知っていたら、嘘《うそ》を書くんじゃありません?」
と明子が言うと、
「それは却《かえ》って、自白してるようなもんだよ。きっと正直に書くと思うね」
と尾形が言った。
「私はこの弁当箱を持って帰って、調べてみよう。指《し》紋《もん》が出るかもしれない」
「なるほど、そういう方法がありますね」
尾形は少々興《こう》奮《ふん》気味。「それで出た指紋と、ここの従業員の指紋を合わせれば——」
「しかし、そんなもの、採《と》っとらんぞ」
と、社長が言った。
「当然ですよ」
と、志水が肯《うなず》く。「何かいい方法があるといいが……」
しばし、みんな考え込《こ》んだが……。
声を上げたのは——やはり明子だった。
「社長!」
「何だね?」
「ちょっとポケットマネーを使ってパーティを開きません?」
「パーティ? そりゃいいが——しかし、何のパーティだ?」
「何だっていいですよ。創《そう》業《ぎよう》何周年とか——」
「この前、済《す》んだばかりだ」
「じゃ、社長の還《かん》暦《れき》祝いとか」
「まだそんな年《ねん》齢《れい》じゃない!」
「もうすぐでしょ?」
「まだ五十八だ」
「じゃ、ともかく——何でもいいですから、パーティを開くんです」
「それでどうするんだ?」
「だからその席で——」
と、明子は得《とく》意《い》げに言った。