「どういう風の吹《ふ》き回し?」
「知らないわ」
「もう社長、死期が間近いんじゃない? 急にいいことをしようとすると、危《あぶな》いっていうわよ」
あれこれ、噂《うわさ》話《ばなし》が飛び交っていたが、ともかく——。
「夕食代が浮《う》くんだから、遠《えん》慮《りよ》しないようにしましょうよ」
というわけで、何かわけの分らない〈パーティ会場〉へ、ゾロゾロと男女の従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》が入って行く。
女《じよ》性《せい》の方も、いつもは制《せい》服《ふく》だが、今日は精《せい》一《いつ》杯《ぱい》のおしゃれをしている。
おかげで、上司の方は部下の見分けがつかず、
「こんな美人、うちにおったかな?」
と正直に言って、けっ飛ばされていた。
「——今日は急な集りなのに、みんなよく出て来てくれた」
とまず社長が挨《あい》拶《さつ》。「いつも頑《がん》張《ば》ってくれている、みんなのために、ささやかな慰《い》労《ろう》の会を開くことにしたんだ。自分がいつも働いている場所でのパーティというのも、何だか気が乗らんかもしれんが、まあ、楽しんでくれ」
拍《はく》手《しゆ》が起る。——立食形式のパーティだったが、早くも、寿《す》司《し》だの、ローストビーフだのは、器が空になりつつあった。
何やってるんだ?
尾形は、明子が家から出て来るのを、苛《いら》々《いら》しながら待っていた。
名《めい》探《たん》偵《てい》が、服を着るのに手間取って、犯《はん》人《にん》を逃《にが》したなんて、ミステリーにならない。
「すみませんね、尾形さん」
と、母の啓《けい》子《こ》が顔を出す。「今、来ると思いますから」
「はあ」
尾形は、友人の車を借りて、運転して来ていた。——それに当人も、一番上等の背《せ》広《びろ》を着ている。
背広は英国製とはいかないが、ハンカチはカルダンだった!
「お待たせ」
と、明子の声がした。
「遅《おそ》いじゃないか、もうパーティは始ま——」
妙《みよう》なところで途《と》切《ぎ》れたのは、尾形がアングリと口を開きっ放しになったからだった。
「全員ここにいますよ」
と、社長は、低い声で志水に言った。
「係を外に待機させてあります」
と、志水が肯《うなず》く。
「あの弁《べん》当《とう》箱《ばこ》から、指《し》紋《もん》は出ましたか?」
「いくつか出ていますが、我々も触《さわ》っていますからね。それらを消して行かなくてはならない」
「もちろん私のも採《と》って下さい」
と社長が言った。
「そうしましょう。ただし——」
志水は付け加えて、「ここで集めた指紋は、必要なもの以外は、全部責《せき》任《にん》を持って処《しよ》分《ぶん》します。信用して下さい」
「分りました」
社長はグラスをぐっとあおって空にすると、「あなたは頼《たよ》りになる方ですな」
と言った。
臨《りん》時《じ》雇《やと》いらしいボーイが、盆《ぼん》の上に、社長の空のグラスをのせ、会場を出た。
廊《ろう》下《か》を進んで、ぐるっと回ると、志水に言われてやって来た鑑《かん》識《しき》班《はん》の人間が、待っていた。
「これが社長のグラスです」
「社長か。OK」
と、袋《ふくろ》に入れて、足下の箱《はこ》へ入れる。番号をふって、メモをしておく。
こうして、全《ぜん》従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》の指《し》紋《もん》を集めよう、というわけである。
——志水と社長は、会場の中を見《み》渡《わた》して、
「彼女《かのじよ》はまだ来ないようですな」
急に会場の中がスーッと静かになった。
やがて拍《はく》手《しゆ》が起こる。
明子が、目にも鮮《あざや》かなカクテルドレスで現《あら》われたのである。
「やあ、永戸君。すてきだね!」
社長が首を振《ふ》って、「私もあと二十年若《わか》ければな……」
と言った。
ついて来た尾形の方も、明子のスタイルに刺《し》激《げき》されてか、ソワソワしている。
「さあ、食べようっと!」
明子は皿《さら》を取ると、テーブルを見回した。「どこが空《す》いてるかしら?」
「ねえ君——」
と、尾形が言った。「少しレディらしくしないと、そのドレスが泣《な》くよ」
「泣いたって構《かま》わないわ。食《しよく》欲《よく》の方が優《ゆう》先《せん》!」
いつもながらの明子に、尾形が少々ホッとしたのも事実だった。
——パーティは、穏《おだ》やかに進んだ。仕《ヽ》事《ヽ》の方も、順調だった。
明子が、
「あれは××さん、これは〇〇さん」
と、グラスを運び出すボーイへと囁《ささや》く。
これのために、明子としては、あまり酔《よ》っ払《ぱら》うわけにいかないのである。
「やあ、永戸君。謹《きん》慎《しん》はとけたのか?」
と、やって来たのは、嫌《きら》いな村川部長である。
少し酔《よ》っているらしい。
「おかげさまで」
と、そっぽを向く。
「社長の所へ来てたね。何か用だったのか?」
「部長に関係ないでしょ」
「冷たいね。——さてはあの若《わか》いのと、できてるな?」
村川がワハハ、と品のない笑《わら》い方をする。
明子はさっさと逃《に》げ出すことにした。
「——いや、料理もいいですよ」
と、尾形が社長と話している。
「何の話?」
明子がやって来ると、
「いや、僕《ぼく》らも、ここで式を挙げようと言ってたんだ」
「あら、どなたと?」
「もちろん君さ」
「私?」
明子は、わざと大きく目を見開いて、「私はまだ学生の身ですもの。五年たったら考えるわ」
社長は楽しげに笑《わら》った。
「いや、実に愉《ゆ》快《かい》な人たちだ」
「——社長、アンケートの方は?」
と、明子が訊《き》く。
「うん。今日、配っておいたよ。明日には回収させる」
「楽しみですね、結《けつ》果《か》が」
「ところで——どうだね?」
と、社長は会場の中を見回して、
「指《し》紋《もん》の方は全部採《と》れたのかな?」
「あと、四、五人だと思いますけど。まだ、みんな飲んでるし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
と、明子は力強く肯《うなず》いた。
「——いいパーティだった」
と、尾形は言った。
「そうね……」
明子は言った。
車が夜の道を走り抜ける。尾形がハンドルを握《にぎ》っていた。
——何だかロマンチックな雰《ふん》囲《い》気《き》だった。
「ああいう形式も悪くないね」
と、尾形は言った。「僕《ぼく》も結《けつ》婚《こん》するときはああいう風にしよう」
「結《けつ》構《こう》ね」
「君はどう思う?」
「そうね……」
明子は、何やら考え込《こ》んでいる様子だったが——その内、ワーッと大《おお》欠伸《あくび》をした。
尾形はため息をついた。ムードも何もないんだから!
「これで解《かい》決《けつ》するといいわね」
「欠伸で?」
「違《ちが》うわ、事《じ》件《けん》のことよ」
「あ、そうか」
忘《わす》れてしまいそうだったのだ。
尾形は、車を道のわきへ寄《よ》せて停《と》めた。
「ねえ、君……」
「うん?」
「今夜は凄《すご》く魅《み》力《りよく》的《てき》だよ」
「そう? ありがとう」
「僕《ぼく》は考えてたんだけど……その……今は学生同士だって、結《けつ》構《こう》結《けつ》婚《こん》しちまう奴《やつ》がいる。僕はまあ——一《いち》応《おう》講《こう》師《し》だし、君とは年《ねん》齢《れい》も多少違《ちが》ってる」
「うん」
「だから、その……別に具合の悪いことはないと思うんだ。つまり君と僕が……」
「ふん」
「その……だから……」
尾形は、エヘンと咳《せき》払《ばら》いをして、顔を真っ赤にし、思い切って言った。
「結婚しようじゃないか!」
——長く待ったが、返事はなかった。
見ると、明子は少し口を開いて、スヤスヤと眠《ねむ》り込《こ》んでいる。
尾形は大きくため息をつくと、車をスタートさせるのだった……。