「あーあ」
欠伸《あくび》からスタートするというのは、少々読者に失礼かもしれないが、そこは勘《かん》弁《べん》していただく他はない。
ともかく、明子が起き出したのが十一時。それから三十分の間、ほぼ五分毎に欠伸をしていたのである。
「ねえ、明子」
と、母の啓子がコーヒーを注《つ》いでやりながら言った。
「なあに?」
「尾形さんが言ってたよ」
「ああ、大学のことでしょ。分ってるわよ」
と、うるさそうに言う。「授《じゆ》業《ぎよう》に出ろって言うんでしょ?」
「あら、停学中じゃなかったの?」
と啓子は椅《い》子《す》を引いて座る。
「解《かい》除《じよ》になったのよ」
と明子は言って、「——あれが夢《ゆめ》でなきゃね」
と付け加えた。
「そりゃ良かったわ。じゃ、こんなにのんびりしてちゃいけないんじゃないの?」
「勉強は学校だけでするもんじゃないわ」
明子は分ったようなことを言った。
「でも、月《げつ》謝《しや》を払《はら》ってるのは大学だけよ」
啓子も理《り》屈《くつ》っぽく言って、「ともかく、そんな話じゃないのよ」
「じゃあ、何のこと?」
「ゆうべあんたを送って来てね、尾形さん、ゆっくり話し込《こ》んで行ったの」
「へえ、図《ずう》々《ずう》しい! 何か高いものでも食べさせたの? メロンがあったでしょ」
「出さないよ」
「当り前よ。どうせ、私のこと、ケチョンケチョンに言ってたんでしょ。大体、想像がつくわ」
「そう?」
「もう、お付き合いはこれ切りにしたい、って言ったんじゃない?」
「そうねえ」
と、啓子は、ちょっと考えて、「まあ、そんなようなことだわね」
「分ってるのよ。ああいう男は狡《ずる》いんだから。こっちから願い下げだわ」
「でも、結《けつ》婚《こん》させてほしい、ってことだったよ」
と、啓子が言ったので、明子はポカンとして、
「——誰《だれ》が?」
と、やっとの思いで訊《き》き返した。
「尾形さんよ。決ってるでしょ」
「——私と?」
「私でもいいけど、ちょっと年が違《ちが》うからねえ」
と啓子は真顔で言った。
「お母さん、何て答えたの」
「別に。本人に訊《き》いて下さい、と言っておいたわ」
明子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
ブラックコーヒーより、よほど目が覚める話だった。
それは確《たし》かに——尾形とは恋《こい》人《びと》同士といって差し支《つか》えない程《てい》度《ど》には付き合っているし、よく冗《じよう》談《だん》で、結《けつ》婚《こん》の話もする。しかし、尾形が母に話をしたとなると、事は重大と言わねばならない。
つまり、尾形は、明子が心配していた状《じよう》態《たい》——真《ヽ》剣《ヽ》に《ヽ》明子のことを愛し始めたのかもしれない。
いや、明子だって、当節の女子大生としては、週《しゆう》刊《かん》誌《し》やTVで「ああだこうだ」と言われるほど、遊んでるわけじゃないし、「愛」というものを、神《しん》聖《せい》なりと考えるくらいの真《ま》面《じ》目《め》さは持ち合せているのだ。
ただ、それをも《ヽ》ろ《ヽ》に《ヽ》真面目に口に出したりするのを、照れるのである。
他の子たちだって、たいていはそうなのだ。
ホテルへ行ったりして、適《てき》当《とう》に遊んでいるような子でも、実《じつ》際《さい》は、ごく当り前に結《けつ》婚《こん》しようと思っている。それを、ストレートに口に出すと、カッコ悪い、と思っているだけなのだ。
愛人バンクだ、ホテトルだ、と、話題ばかり、にぎやかだが、誰《だれ》も彼《かれ》もが、そんな風ではない。明子だって、たぶん、たいていの友人たちには、男の二人や三人は知っていると思われているが、実のところ、まだまだ未《み》経《けい》験《けん》の一人なのだ。
「尾形さんのこと、どうなの?」
と啓子が訊《き》いて来る。
弱いのよね、こういうの。——何と答えたものやら、困《こま》っちゃう。
「まあ——悪い人じゃないとは思うわ」
と、明子は言った。
「じゃあ、結婚する?」
「ちょっと——ちょっと待ってよ」
と、明子はあわてて言った。「それじゃ、『悪くない人』なら誰とでも結婚しなきゃならないの?」
「そうじゃないけど……」
と、啓子は言った。「でも——いざそうなってからそうするのも何だからね」
明子は目をパチクリさせた。
「何よ、それ? どういう意味?」
「つまり——そうなってから結《けつ》婚《こん》するのも、あんまり感心しない、ってことよ」
「最初の『そうなって』ってのは、どうなって、ってことなの?」
何だかややこしい。
「そりゃもちろん、お前が子《こ》供《ども》でもできてさ——」
「お母さん!」
明子が目をむいた。
「だって、もうホテルぐらいには行ってるんでしょ?」
どういう親なんだ?——明子は呆《あき》れて言葉もなかった。
ちょうど電話がかかって来て、啓子が立って行く。明子は、ため息をついて、コーヒーを飲み干《ほ》した。
親があれじゃ、ホテルへ行かなきゃ、申し訳《わけ》ないみたいじゃないの!
「——明子、会社の方からよ」
啓子が、のんびりと顔を出す。
明子は急いで席を立つと、電話の方へと走った。
「——永戸です」
「君か。村川だ」
「ああ、部長さんですか」
明子は、ぶっきらぼうに言った。「何かご用ですか?」
「おい、君はうちの従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》なんだぞ」
「あ、そうでしたね」
と、明子はとぼけた。「でも今日は午後の出社ですよ」
「ひどく忙《いそが》しいんだ。悪いが十二時から出てくれんか」
「でも、お昼休みは?」
「二時から取っていい。ともかく十二時の昼時に、手が足りなくなるんだ」
仕方ないか。一《いち》応《おう》、給料をもらう身だ。
「分りました。じゃ今から出ます」
「助かるよ。じゃ、待ってるからな」
村川の方も、珍しく愛想がいい。
「忙しいときだけだわ」
電話を切ると、また大《おお》欠伸《あくび》。——いつの間にか、啓子がそれを見ていて、
「そんなに欠伸ばっかりしてると、嫌《きら》われるよ」
と言った。
今から出ます、と言っても三十分はかかるのが、女性というものである。
明子の場合は、多少スピーディで、それでも二十八分かかった。
外へ出て歩き出すと、また欠伸《あくび》が出る。
さすがに、大口開けてはやらなかった。多少は、近所の目というものもある。
タクシーで行くか。——ちょうど、空車が来たのを停《と》めた。
行先を告げると、運転手が、
「式場の下見かね」
と言った。
「いいえ、予約の取消し」
と、明子は言った。
そのタクシーが走り出すと、そ《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》物《ヽ》は、小さなトランシーバーを取り出して、タクシーの色とナンバーを連《れん》絡《らく》し、角を曲ってタクシーが見えなくなるまで、見送っていた。
タクシーは、坂の下へと近付いた。
坂を上るわけでなく、その下を通り抜《ぬ》けるだけである。
坂の途《と》中《ちゆう》に、かなり薄《うす》汚《よご》れたダンプカーが、一台停《とま》っていた。
タクシーが近付くと、ダンプカーは、ブレーキが外れたものか、ゆっくりと坂道を下り始めた。たちまち加速度がつく。
タクシーの前に、ダンプカーが突《とつ》然《ぜん》、飛び出して来た。急ブレーキ!
しかし、とても間に合うものではなかった。
タクシーは、ダンプカーの横《よこ》腹《ばら》に激《げき》突《とつ》した。
尾形は、講《こう》義《ぎ》をしながら、むやみに苛《いら》立《だ》っていた。
「おい! そこの奴《やつ》、何を居《い》眠《ねむ》りしてるんだ!」
と怒《ど》鳴《な》ったりするので、学生たちの方が面《めん》食《く》らっている。
「どうしたんだ、先生?」
「きっと振《ふ》られたんだ」
「財《さい》布《ふ》落としたんじゃねえか?」
「いや、パチンコで損《そん》したんだよ」
と、みみっちい話も出る始末。
「おい! 何をしゃべっている!」
尾形はますます荒《あ》れていた。
要するに、明子のせいである。——ゆうべ、とうとう、明子の母親に、結《けつ》婚《こん》の話をしてしまった。
もう明子も起き出して、母親から、そのことを聞いているだろう、と思うと、尾形は居ても立ってもいられない気分だったのである。
明子は、それを聞いて、どうしただろう? 感《かん》激《げき》に目をうるませたか? まさか!
大口を開けて、ゲラゲラ笑《わら》ったか?——その方が正《せい》解《かい》かもしれない。
しかし、ともかく——言ってしまったのだから、今さら取り消すことはできない。
考えてみれば、大変な子に結《けつ》婚《こん》を申し込《こ》んだものだ。
夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》をしても、とても尾形に勝目はない。ぶん投げられて、目を回すのがオチである。
全く——それでいて、惚《ほ》れちまっているのだから、どうしようもない!
「——失礼します」
と、扉《とびら》が開いて、事《じ》務《む》の女の子が顔を覗《のぞ》かせた。
「何か?」
「先生、お電話です」
「ありがとう」
尾形は、廊《ろう》下《か》へ出た。事務室は少々遠い。
軽くかけ足で、やっと受話器を取ったときは、少し息を弾《はず》ませていた。
「尾形です」
「あ、永戸です。明子の母ですが」
来たか。——この口調では、断《ことわ》られたかな、と思った。
「どうも昨日は——」
と言いかけたのを、向うが遮《さえぎ》った。
「娘《むすめ》が事《じ》故《こ》に遭《あ》いまして」
「な、何ですって?」
尾形は、飛び上らんばかりに驚《おどろ》いた。