「タクシーはダンプカーの下へ潜《もぐ》り込《こ》むように、突《つ》っ込んだんです」
と、医《い》師《し》が言った。「タクシーは上半分、削《けず》り取られてしまったんですよ。まあ、普《ふ》通《つう》なら頭が飛ばされて、一巻の終りなんですが……」
「運が良かったのよ」
ベッドでは、明子が元気一《いつ》杯《ぱい》の様子だった。
「ちょうどハンドバッグを開けて、コンパクトを出してたの。そしたら、それを床《ゆか》に落っことしてね、拾おうとして、かがみ込んだのよ」
「そこへドシン、か」
「そう! 頭の上を、ダンプのフレームが通《つう》過《か》して行ったわけね」
「おい、冗《じよう》談《だん》じゃないよ」
と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「一《いつ》瞬《しゆん》の差で、頭が失くなってたところかもしれないんだぜ」
「だったら、もう少しま《ヽ》し《ヽ》なのと取りかえられたのにね」
と、明子は至《いた》って呑《のん》気である。
「で、先生——」
と、尾形は医《い》師《し》の方を向いた。「けがの具合は?」
「ガラスの破《は》片《へん》で、ちょっと切り傷《きず》はできていますが、それ以外は、骨《ほね》も何ともなっていませんよ。運転手の方も、すぐに伏《ふ》せて、無《ぶ》事《じ》だった。奇《き》跡《せき》的《てき》ですな」
「分ったでしょう?」
と、明子が言った。「私は運が強いのよ」
「人に心配かけて!」
と、尾形はにらんだ。「運が強い、もないもんだ」
「ごめん」
明子は、ちょっと舌《した》を出した。「でもね、あのとき、一《いつ》瞬《しゆん》、死ぬのかな、って思ったわ。そして、ふっと思い浮《う》かべたの……」
「僕《ぼく》のことを、かい?」
と、尾形が勢い込《こ》んで訊《き》く。
「ドラ焼きのことを」
医師が吹《ふ》き出してしまった。
病院のドアがノックされて、尾形が開けてみると、
「——やあ、これは」
思いがけない顔だった。検《けん》死《し》官《かん》の志水だ。
「署《しよ》の方から、知らせてくれましてね」
と、志水は言って、「——やあ、しかし、元気そうだ」
と明子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。正《せい》義《ぎ》の味方は死にません」
と、明子が言うと、また医《い》師《し》が笑《わら》い出した。
「いや、実に面白い患《かん》者《じや》さんだな」
「いつ退《たい》院《いん》できます?」
と明子が訊《き》く。
「そうだね。一《いち》応《おう》今夜だけ入院しなさい。明日には退院できますよ」
医師が出て行くと、志水はホッと息をついて、
「しかし、危《あぶな》いところでしたねえ」
と言った。
「本当に。——ダンプの方の責《せき》任《にん》を厳《きび》しく追《つい》及《きゆう》しなきゃ」
尾形は今ごろになって、腹《はら》を立てている。
「いや、ダンプの運転席は空だったんですよ」
と志水が言った。
「何ですって?」
明子が頭を上げる。「それ、どういう意味ですか?」
「あのダンプカーは、盗《ぬす》まれたものでね、あそこに朝から停《と》めてあった」
「朝から?」
「そう。そして、ハンドブレーキを誰《だれ》かが外して、坂を下って行ったわけです」
「誰かが……」
明子は、独《ひと》り言のように呟《つぶや》いた。
そういえば、前にも一度、車ではねられかけたことがある。きっと同じ犯《はん》人《にん》だろう。
「つまり、彼女《かのじよ》を狙《ねら》って、誰かが、わ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》、やったというんですか?」
尾形は目を見開いて、「それじゃ——あの犯人だ! 君を刺《さ》しそこなった奴《やつ》だよ、きっと!」
「待って」
明子はベッドに起き上った。「でも、私があのタクシーに乗ったことを、なぜ知っていたの? それに今日は大体午後出社だったのに、早く出たんだし——」
そして、突《とつ》然《ぜん》言葉を切ると、
「分ったわ!」
と声を高くした。
「おい、今度は何だい?」
尾形が、うんざりしたような声を出す。
「今日、忙《いそが》しいから、早く出てくれって電話があったの。そして家を出て、タクシーを拾ったのよ。指《し》紋《もん》はどうでした?」
と、志水に訊《き》く。
「まだ、結果が出てないんでね」
と、志水が言った。「今、弁《べん》当《とう》箱《ばこ》の指紋と照合しているんですよ。私たちのもの以外に、誰《だれ》かの指紋があることは事実です」
「それ、きっと村川さんのだわ!」
と、明子は力強く言った。
「村川?」
「部長よ! 村川さんが、私に早く出ろと電話して来たのよ」
明子はベッドから出ると、「ちょっと外へ出て。服を着るから」
「おい、どうするんだ?」
「退《たい》院《いん》するの」
「無《む》茶《ちや》だよ! 今、先生が——」
「どうせ明日退院するのよ。今日だって、同じよ」
名《めい》探《たん》偵《てい》にしては、論《ろん》理《り》を無《む》視《し》した言い方だった。
「何だ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
ロビーへ入って行くと、社長が明子を見付けてやって来た。
「あ、社長」
「事《じ》故《こ》にあったと聞いて、今から病院へ行こうと思っとったんだ」
「ご心配かけて。——ご覧《らん》の通り、ピンピンしてます」
「良かった! 足もちゃんとついとるようだな」
「部長はどこですか?」
「村川か? さあ、知らんな。今日は見ていないが」
「部長は、今日はお休みですよ」
と、受付の女の子が言った。「今朝《けさ》、電話があったんです」
「そうか」
「やっぱりだわ!」
と明子が肯《うなず》いた。
「何が、やっぱり、だね?」
「私、殺されかけたんです。事故じゃなくって」
目を丸《まる》くしている社長へ、明子は事《じ》情《じよう》を説明した。
「——なるほど。すると、例の男というのは村川だったのか」
「アンケートの結《けつ》果《か》は出ました?」
「ああ。社長室へ行こう」
——社長室で、明子は、社長から、アンケートの結果を見せられた。
村川は、やはり弁《べん》当《とう》持参組の一人だった。
「ちょっと電話を拝《はい》借《しやく》」
と、志水が、社長のデスクの受話器を取り上げた……。
「うん。——そうか。誰《だれ》の指《し》紋《もん》だった?——そうか。分った。——いや、ありがとう」
志水は、受話器を戻《もど》し、
「やはり図星だよ」
と、言った。「弁《べん》当《とう》箱《ばこ》に、村川の指紋があった」
「やったわ!」
明子は飛び上った。
「よし、では、村川の家を手配しましょう。住所を教えて下さい」
志水は、村川の自《じ》宅《たく》に近い署《しよ》へ連《れん》絡《らく》を取った。
「——これで、すぐ自宅へ急行しているでしょう。我々も行ってみますか?」
「もちろん!」
明子が真っ先に答えた。
「まだこりないのか?」
尾形が、ため息をついて、「よし、僕《ぼく》も行くよ」
「私も同行したいが——」
と社長が残念そうに、「大事な客が来るのでね」
「じゃ仕方ありませんね」
と、明子が言うと、社長は、
「うん、仕方ない」
と肯《うなず》いた。「客には待ってもらおう」
大分、明子の好《こう》奇《き》心《しん》が社長にも感《かん》染《せん》しているらしい。
かくて、明子と三人の男たちは、社長のベンツで、村川の自《じ》宅《たく》へと向かった。
「あれらしい」
と志水が言った。
パトカーが、三台ほど停《とま》っているのが、見えた。
「それにしても、ちょっと様子がおかしいな……」
——かなりの高級住《じゆう》宅《たく》地《ち》である。社長が、
「こんな所に住んでるのか」
と、呆《あき》れ顔で言ったほどだ。「あいつの給料では、とても無《む》理《り》だ」
「やはり何か、陰《かげ》でやってるんですよ」
と、明子は言った。
パトカーの手前で、ベンツを停《と》め、四人は外へ出た。
志水が先に立って行って、警《けい》官《かん》と話をしている。そして、いかにも成金趣《しゆ》味《み》的《てき》な、ごてごてした感じの家から、刑《けい》事《じ》らしい男が出て来た。
志水と顔見知りらしく、親しげに話をしてから、一《いつ》緒《しよ》に明子たちの方へとやって来た。
「古いなじみの刑《けい》事《じ》ですよ」
と、志水が言った。「殺しだって?」
「そうなんです」
と、中年のその刑事が肯《うなず》く。
「じゃ、村川さんが?」
と、明子が訊《き》いた。
「いや、そうじゃないんです」
と、刑事は首を振《ふ》った。「若《わか》い男でね。村川は姿《すがた》を消しているんですよ」
「その男の身《み》許《もと》は?」
「分りません。——見ていただけますか?」
「ええ」
明子は肯いた。死体の一つや二つ、何だ! 村川の家の中は、外見に劣《おと》らず派《は》手《で》で、悪《あく》趣《しゆ》味《み》だった。
「家族は?」
と尾形が言った。
「奥《おく》さんは、実家に戻《もど》っているんです。村川と、うまく行っていなかったのかもしれませんな」
「その若《わか》い男っていうのは——」
「人相や風体を奥さんへ電話で説明したんですが、心当りがない、ということでした」
刑《けい》事《じ》は、居間のドアを、肩《かた》で押《お》した。「ここです」
——広い居間で、誰《だれ》かが寝《ね》ていた。
いや、本当は死んでいるのだ。しかし、表《ひよう》情《じよう》は穏《おだ》やかだった。
「いかがです?」
と、刑事は言った。
明子は、どこかで見た顔だ、と思った。
こうして、死体となって倒《たお》れているから、よく分らないが。
明子はかがみ込《こ》んで、まじまじと顔を眺《なが》めた。
「おい、気を付けろよ」
と、尾形が言った。「かみつくかもしれないぞ」
「犬じゃあるまいし」
と、明子は言った。
そうだ!——思い出した。
この男。——中松進吾ではないか……。