次の日、出社すると、すぐに山口課長が私を呼んだ。
「おい、平田君、ちょっと打ち合せがある。来てくれ」
私はあまり気が進まなかった。昨夜も、山口の勝手な言い草に腹が立って、なかなか寝つけなかったくらいである。
山口は珍《めずら》しく私を会社の下の喫茶店へ連れて行った。会議室では、人に聞かれると思ったのだろう。
「コーヒーをくれ」
と、山口は言った。
「僕も——」
と言いかけ、私は気が変った。
「紅《こう》茶《ちや》にしてくれ」
山口は、神経質そうな手でタバコに火を点《つ》けると、何度かせわしなくふかして、すぐに灰《はい》皿《ざら》へ押し潰《つぶ》した。
「会ってくれたか?」
「ええ」
「彼女……元気だったか?」
「やせこけてました。金がなくなったとかで……」
「そうか。——可哀《かわい》そうに」
山口はちょっと目を伏《ふ》せ、それから、私を見た。「彼女から話を聞いたか?」
「大体のところは」
「勝手な男だと思うだろうな、俺《おれ》のことを?」
私は答えなかった。山口は続けて、
「俺だって辛《つら》いんだ」
と言った。「君は知らんだろうが、俺は養子の身なんだ。いつも女房には頭が上がらない。何とか見返してやりたかった。——ついてなかったんだ」
「彼女だって、今さら金を返してほしいとは言いませんよ」
と私は言った。「しかし、彼女を殺人容疑者のままにしておくのは、いくら何でも、ひどいじゃありませんか」
「しかし、俺にはどうにもできない」
「彼女がアパートを急に出た理由を警察へ説明すべきです」
「そんなことをすればスキャンダルだ。女房の耳にでも入ったら——」
「大丈夫。警察だって、きっとプライバシーは守ってくれますよ」
「分るもんか。——俺はいやだ。もう……小浜君とは手を切ったんだ」
私は腹が立つというより呆《あき》れてしまった。こうも虫のいい男だったとは……。
「君は彼女に言い含《ふく》められて来たのか?」
と、山口は言った。
「とんでもない。しかし、あんまり彼女が可哀そうじゃないですか」
「彼女だって、俺が世帯持ちと承知の上で関係したんだ。それぐらいのことは覚《かく》悟《ご》してるはずだ」
「しかし、殺人事件が絡《から》むとなれば話は別じゃありませんか?」
私は頑《がん》張《ば》った。
山口は私を怪《あや》しむように見て、
「やっぱり、あいつに言いくるめられたんだろう?」
と言い出した。「あいつと寝たのか?」
私はもう我《が》慢《まん》できなかった。立ち上がると、
「失礼します。紅茶代はここへ置きます」
小銭をテーブルへ投げ出すと、私は店を出た。
全くひどい男だ。私もつくづく呆れる他はなかった。
しかし、これからどうすべきだろう?
——私は、よっぽど警察へ行って、何もかもぶちまけてやろうかと思った。
だが、小浜一美がどう決めるか、それも知らずに勝手に動いて良いものかどうか、と考えてみた。一美は一晩中ゆっくりと考えてみると言っていた。
ここはまず、一美の判断を優《ゆう》先《せん》すべきではないか。何といっても、私は単なる局外者に過ぎないのだから。
局外者?——いや、決してそうではない。私は桜田を殺した犯人を見ている。そして向うも、それを知っているのだ。
だが、彼女にそう言うわけにもいかない。
——席に戻っても、私はなかなか仕事が手につかなかった。
どうやら表は雨になっているようだった。
五時になって、帰り支《じ》度《たく》を始めていると、山口がやって来た。
「なあ、平田君」
と、いやになれなれしい。
「何ですか?」
「今朝《けさ》はちょっと言いすぎた。まあ、気を悪くしないでくれ」
私はムッとして、
「僕にそんなことを言っても仕方ありませんよ。彼女に謝《あやま》ったらいかがですか?」
「実はそのことだ」
と、山口は左右を見回し、「——今、彼女はどこにいる?」
と少し声を低くして訊いた。
「知りません」
「ゆうべは一《いつ》緒《しよ》だったんじゃないのか?」
「夕食を食べましたが、それだけですよ」
「そうか……」
山口はがっかりした様子で、「いや、あんな手紙だけでは、いくら何でも誠意がなかったと思ってな」
多少はまともなことを言い出した。
「会って詫《わ》びたいと思うんだ。どこへ行くとも言ってなかったか?」
「さあ……」
私は肩をすくめた。「何なら、あのホテルへ行ってみたらいかがです? もしかしたら戻ってるかもしれませんよ」
口から出まかせである。しかし、多少の可能性もないではなかった。
まるきり知らない所に泊るよりは、何日か過した所のほうが安心だろう。もちろん、顔を憶えられているという危険性はあるわけだから、逆に敬遠することも充《じゆう》分《ぶん》に、考えられるが……。
「そうだな。行ってみるか」
と山口は言った。「いや、どうもありがとう。もう君には決して迷《めい》惑《わく》はかけないからね」
山口は自分の席へ戻って行った。
私は帰り支度をして、外へ出た。
細かい雨が一面に霧のように立ちこめている。——雨ではあるが、霧の夜と同じように、見通しがあまり良くきかない。
私は、あの桜田が切り裂かれた夜を思い出して、一《いつ》瞬《しゆん》身《み》震《ぶる》いした。
あの夜、私は桜田を殺すつもりだったのだ。ほんの偶《ぐう》然《ぜん》が、私を殺人者から、殺人の目《もく》撃《げき》者へと変えた。ともかくも、否《いや》応《おう》なしに、私は事件に巻《ま》き込《こ》まれていたのである。
傘《かさ》をさして、少し歩きかけた私は、会社のビルを見上げた。もちろん、まだ明りがついて、残業している者たちも多い。
今さら出世したくもない私としては、残業して、上役にいい印象を与える必要も別になかった。
私は肩をすくめて歩き出した。
霧《きり》雨《さめ》。——どうにも、重苦しい気分だった。何か起こりそうな気がする。
その白いヴェールを一瞬の内に切り裂いて、あの謎《なぞ》めいた女が、目撃者を殺しに来るのではないか……。
実際、こんな雨の中では、どんな犯行が目の前で起ころうと、人はさして気にも止めずに行き過ぎてしまうだろう。
誰《だれ》もが、ただ早く家へ帰りつくことしか考えていないのだ……。
私は、向うから歩いて来た男と、危《あや》うくぶつかりそうになった。
「気を付けろよ!」
と怒鳴られる。
「すみません」
不注意はお互《たが》い様だと思ったが、つい謝ってしまうのが、私の気の弱いところなのである。
私は、せかせかと歩いて行く、その男のほうを振り返った。すると、また、その男が誰かとぶつかりそうになって、
「気を付けろ!」
とやっている。
「どうも」
という声は、山口課長だった。
おかしい、と思った。確か山口はこっちへ帰るのではないはずだ。
私は、とっさにわきへと身を寄せて、山口をやりすごすことにした。山口は私のことなど全く気付かない様《よう》子《す》で、通り過ぎて行ってしまう。
どこへ行くのだろう?——昨日、小浜一美が泊っていたホテルか。
私はちょっと迷ってから歩き出した。山口の後をついて行く。
山口は、途《と》中《ちゆう》で、夜間まで空《あ》いているスーパーの一つへ立ち寄った。私は、外から、明るい店内の様子を眺《なが》めていた。
雑貨のコーナーへ行った山口は、何やら捜していた物を見付けたとみえて、それをレジへ持って来た。店員がそれを手に取って、レジを打つ。
私はギクリとした。山口が買ったのは、ナイフだった。
何のつもりで、山口はナイフを買ったのだろう?——私は、雨の中、山口の後を尾《つ》けながら考えていた。
もちろん、ナイフとはいえ、山口が買ったのは、缶《かん》切《き》り、栓《せん》抜《ぬ》きなどがついた万能ナイフというやつだ。自宅で使うのかもしれないが、しかし、あのナイフで人を刺《さ》すことだって、出来ないわけではない。
まさか、とは思ったが、私は前を行く山口の背《せ》中《なか》から、目を離《はな》せなかった。
——やはり、山口はあのホテルへとやって来た。
小浜一美は泊っているだろうか?
入口の扉《とびら》の手前で、私は足を止めて、暗がりへ退いた。山口は、フロントへ行って、人がいないのに当《とう》惑《わく》した様子だった。
置いてあるベルを鳴らすと、中からのっそりと六十ぐらいの年寄りが出て来た。
「知り合いが泊ってると思うんだけどね」
と山口が言った。
「お名前は?」
山口はどう言っていいのやら詰まって考え込んでしまった。きっと彼女が本名で泊っていないに違《ちが》いないと思い付いたのだろう。
「ええと……小浜というんだけど、もしかすると——」
「小浜さんね。三階の三〇四ですよ」
「あ、ありがとう」
「山口さんって方ですか?」
「そうだよ」
山口はびっくりした様子だった。
「あんたが来たら部屋を教えてあげてくれ、って言われてたよ」
山口は、
「どうも……」
と、落ち着かない様子で、階《かい》段《だん》のほうへ行きかけた。
「ああ、エレベーターはそこだよ」
と言われて、あわてて方向転《てん》換《かん》している。
フロントの男が、また奥へ引っ込むと、私はそっとホテルの中へ入って行った。
エレベーターが二階、三階へと上がって行くのを見て、私は階段を上がることにした。
三階ぐらいなら、階段でも大して苦にならない。私は足早に階段を上がった。
三階の廊《ろう》下《か》を見《み》渡《わた》す。どうやら逆の方向へ出て来てしまったようである。ドアのナンバーを追って行くと、三〇四のドアが、少し開きかけたままになっているのに気付いた。
もし山口が一美と本当に話し合っているのだったら、そこへ顔を出すのも妙だな、という気がして、私は足を緩《ゆる》めた。
だが、中からは、話し声らしきものは、全く聞こえて来ない。——しばらく耳を澄《す》まして、それから、首をのばして中を覗《のぞ》いた。
部屋の中は真っ暗だった。
どうしたのだろう? 話をするにしても何にしても、ドアを開けたままにして、しかも明りが消えているというのはおかしい。
私はゆっくりとドアを開けた。廊下の光が部屋の中へ射《さ》し込む。
山口の姿も、一美の姿もなかった。
「——課長」
と、そっと声をかけてみる。
返事はなかった。見回してみたが、どこにも、人がいたという様子がない。スイッチを探《さぐ》って、明りをつけた。
一美が昨日までいたのと同じような部屋である。——ではシャワールームのほうにいるのかな?
そのドアの前で、しばらく耳を澄ましてみたが、物音はしない。私はドアを開けてみた。
とたんに、何かビニールの布のような物をすっぽりと頭からかぶせられて、私は後ずさって尻《しり》もちをついた。
誰かが飛び出して行く足音がした。私はあわてて布を払《はら》って叩《たた》き落とす。
シャワーのカーテンだ。立ち上がった私は、チラッとシャワールームを覗いて、仰《ぎよう》天《てん》した。
シャワーの下に、山口が血に染《そ》まって、うずくまるように倒《たお》れていた。
血が、排《はい》水《すい》口へ向って流れている。私は急いで廊下へ飛び出した。
山口が殺された! なぜだ? 一体誰が?
「まさか!」
思わず私は口走った。一美がやったのか?
——他に誰がいよう?
ともかく、この場でうろついているわけにはいかなかった。人に見られては大変である。
エレベーターへ足が向いたが、思い直して階段へと急ぐ。
エレベーターでは、下手をするとフロントの男と、まともに顔を見合わせてしまう恐《おそ》れがあるからだ。
一階まで降《お》りた私は、そっとフロントのほうを覗いた。誰もいない。これ幸いと、足早に通り過ぎようとして、私はギョッとした。フロントのカウンターの端《はし》から、男の足が覗いていたのだ。
私はそっとカウンターの内側を覗き込んで愕《がく》然《ぜん》とした。
あのフロントの老人が、胸を朱《あけ》に染めて、倒れていた。
その目は、生きているとき以上に愛想よく、こっちを見ているように思えた……。
私は、アパートへ帰り着くと、しばらくはぐったりして畳《たたみ》の上に寝転がっていた。
傘《かさ》を持っているのを忘《わす》れて、雨の中を歩いていたので、服はすっかり濡《ぬ》れてしまっている。
着《き》替《か》えないと風邪《かぜ》を引く、と思いつつ、起き上がる元気もなかった。
あれが一美の犯行なのか? 山口を殺すのは分らぬでもないが、しかし、いくら顔を見られているとはいえ、フロントの男まで殺すというのは……。
一美ではないのだろうか? しかし、フロントの男は、彼女が部屋で待っている、と言っていた。
起き上がって、時《と》計《けい》を見る。——三十分近くも、濡れた服で寝転がっていたことになる。急いで風《ふ》呂《ろ》の口火を点《つ》け、服を脱《ぬ》いだ。
沸《わ》くのを待っていられないので、シャワーだけを浴びることにする。
やっと生き返った思いで風呂から出て来ると、電話が鳴った。
「はい、平田です」
少し、向うは黙《だま》っていた。「——もしもし?」
「平田さん?」
私は、せっかくあたたまった体に、冷水を浴びせられるような気がした。
「君か……」
「今夜はもうちょっとでお会いできるところだったのに残念だったわね」
「今夜?」
私の顔から血の気がひいた。「おい、君はまさか——」
「山口って男、殺してあげたわよ」
「何だって?」
「ついでにフロントの人は気の毒だったけれど、死んでもらったわ。死んでも、そう世界の損失って人でもなさそうだったものね」
女は低く笑った。
「どうして山口を……」
「やっぱり私も女ですからね」
と、女は言った。「小浜一美さんの気持が良く分るの。山口って男は赦《ゆる》せないわ」
「ちょっと待ってくれ! 君はどうして彼女のことを——」
「いいじゃないの、そんなことは」
と、女は笑いを含んだ声で言った。
「君は、彼女のために山口を殺したっていうのか?」
「そうよ。それからね、一つ付け加えると、山口は彼女を殺す気だったのよ」
「何だって?」
予想していなかったわけではないが、やはり、ドキリとした。
「ナイフを持っててね。もっとも、使うひまはなかったけど」
私は女の、低い笑い声に一瞬戦《せん》慄《りつ》を覚えた。
「君は誰なんだ? どうして僕や小浜君のことを知ってる?」
「その内分るでしょう」
と、女は言った。「いつか、お会いすることがあるでしょうからね……」
「しかし——」
「それじゃ、ま《ヽ》た《ヽ》ね《ヽ》」
と女は言った。そして、電話は、沈《ちん》黙《もく》した……。