「——平田さん!」
ドアを開けて、中へ入ると、小浜一美がベッドから笑《え》みを投げた。
「やあ、もう起きたの」
私はベッドのほうへ歩み寄った。
「今、ドアの開く音で目が覚めたの。——こんなによく寝《ね》たの、久しぶりよ」
一美は、晴れ晴れとした顔で起き上がって時計を見た。「まあ、こんなに眠《ねむ》ったのね、私!」
「朝まで寝てていいんだよ」
と私は言った。
一美は、ふっと真顔になって、
「——あなたにとんでもないことをさせてしまったわ」
と重い口調で言った。
「君が気にすることはないよ」
「いいえ!」
一美は首を振《ふ》った。「あなたを巻《ま》き込《こ》んでしまうなんて……。私は恩知らずね」
「僕はこれぐらいのことしかできないんだからね」
私は頭をかいた。実際、大したことはやっていないのだ。
「さあ、寝る? それとも何か食べるかい」
と、私は少し元気をつけるように言った。
「ともかくシャワーを浴びて来る」
一美がベッドから出た。「服のままで寝ちまったから、しわくちゃだわ」
「ゆっくりお湯につかるといい。僕は外に出ていようか」
「いいわよ。こういうホテルだもの。きっとバスルームは大きいんじゃない?」
私はソファに座《すわ》って、一美がバスルームの中へ入るのを見ていた。
これからどうしようか?——一美は大分元気を取り戻している。一人にしておいてもまず大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》そうだ。
私の懐《ふところ》は、あまり豊かなほうではないが、ここのホテル代くらいは何とかなりそうだった。
ともかく、ここが安心となれば、また妙子の所へ戻りたい。何といっても、差し迫《せま》って危《き》険《けん》があるのは妙子のほうなのだから。
二十分ほどして、一美が何とも派手な赤のローブをはおって出て来た。
「ああ気持いい! さっぱりしたわ、本当に!」
とバスタオルで髪《かみ》を拭《ぬぐ》っている。
「何か食べる物を取っておこうか」
「ええ。——すみません。何から何まで平田さんにおぶさって」
「いや別に……。ねえ、小浜君」
「何ですか?」
「僕はちょっとその——人を待たせていてね。いや、必ずここへ戻って来るからね……」
「まあ、彼女を置き去りにして来てんですか?」
「いや、別に彼女っていうわけじゃないんだけど——」
「隠すことないじゃありませんか」
一美は楽しげに言った。「私のことはどうぞご心配なく。彼女の所へ行ってあげて下さい」
「すまないね。——できるだけ早く戻るようにするから」
私は冷《ひや》汗《あせ》を拭《ふ》きながら、早々にラブホテルを出た。フロントが不思議そうに見送っていた。
それはそうだろう。ラブホテルに来て、出たり入ったりする客というのも珍《めずら》しいに違いない。
外は霧で、相変らず風がないせいか、一向に薄《うす》れて行く気配はない。
タクシーを飛ばして、とも思ったが、却《かえ》ってこの霧では遅《おそ》くなりそうだと判断して電車を使うことにした。
大場妙子のいるビジネスホテルは、相変らずフロントも人の姿はなく、客が他にあるのかしらと思うほど静かだった。
三〇四号、三〇四号……。
二基あるエレベーターの一つが、一階で停《とま》っていた。もう一基は〈3〉に明りが点《つ》いている。
上りボタンを押し、エレベーターへ乗ると、ちょうどもう一基が三階から降り始めるのが分った。
三階。——廊下は人っ子一人いない。
三〇四号室のドアを軽く叩《たた》くと、
「おい、大場君。——僕だ。平田だよ」
と声をかける。
返事はなかった。もう一度、ドアをノックした。
「大場君!——いないのか?」
いないよ、と返事があるはずもなかったが、何度か呼《よ》んでみた。ドアは鍵がかかっている。
どこかへ出かけたのだろうか?——まあここへ泊るにしても、食事ぐらいには当然出かけるだろう。
しかし、一度殺人があった部屋で、しかも妙子を狙っている女がいるのだ。やはり不安はつのった。
フロントへ降りて行って、ベルを鳴らしてみた。
「——何だ。あんたかね」
さっきの男が出て来たのを見て、私は何となくホッとした。
「三〇四号の女性、出かけたかい?」
「さあね」
と男は肩をすくめて、「鍵を置いちゃ行かなかったよ、少なくとも」
と言った。
「持ったまま出て行ったのかな」
「そこまでは分らないね」
と、至って無愛想である。
「ねえ、ちょっとあそこを開けてみてくれないか」
「そんなことやだよ」
と男は手を振って、「またもめ事はごめんだ」
「もめ事?」
「あんたが女に追ん出されたって、俺の知ったことじゃねえ」
男は少し酔《よ》っているようだった。
「よし、分った!」
私は少し強く出ることにした。
「じゃ、警《けい》察《さつ》へ電話する」
「警察?」
男が目を丸くした。
「ホテルの管理責任者が酒を飲んで酔っ払ってたってのは、どう考えたって、表《ひよう》彰《しよう》されることじゃないぞ」
と、言い捨《す》てておいて、フロントのカウンターにのせてある電話機のほうへ歩いて行き、受話器を上げる。
「分ったよ!」
男はあわてて、「やめてくれ!——今、マスターキーを持って来るから」
と奥《おく》へ入って行く。
よほど警察という言葉が、こたえたらしい。
鍵の束《たば》を手に出て来ると、
「何があっても、俺の責任じゃないよ」
と、くり返し呟きながら、先に立ってエレベーターのほうへ向った。
三〇四号室の前へ来ると、男はもう一度ドアをノックした。返事がないと分ると、ちょっとため息をついて、ドアの鍵《かぎ》穴《あな》に、マスターキーの一本をさし込んだ。
ドアを開ける。
中は明りが点いていた。——すぐベッドの上に目をやって、一《いつ》瞬《しゆん》ギョッとした。
別に死体が横たわっていたわけではない。——服が、脱《ぬ》ぎ捨ててあったのだ。
確かに、妙子の服である。
丁《てい》寧《ねい》にたたむとか、そんなことは一切しないで、下着まで全部、遠くから放り投げでもしたかのように、ベッドの上に散っていたのだ。
「お風《ふ》呂《ろ》じゃないのかね」
とフロントの男が言った。
「いや……。音が全然してないじゃないか。それに我々が入って来たのは聞こえているはずだ」
「じゃ、一体——」
「待って」
私はシャワールームのドアへ、そっと手をのばした。山口の死体があった所である。
その記憶が、手を、ともすれば引っ込ませようとする。しかし、まさか、いくら殺人鬼でも、二人の男を殺しはすまい。
思い切ってドアを開ける。——切り裂かれた妙子の死体は、なかった。
だが、誰かがシャワーを使ったことは明らかだった。防水パンは水で濡《ぬ》れ、シャワーのノズルからは、細く水が垂《た》れていた。
「シャワーを使ったんですな」
と、フロントの男も覗《のぞ》き込《こ》んで、言った。
「それから?」
と私は言った。「どこへ行ったんだ? 服を全部置いて、裸《はだか》で散歩に出たとでも?」
「いや……そりゃまあ、おかしい……ですな、全く」
私は部屋の中を調べた。
しかし、何しろ狭《せま》い部屋である。調べるといっても、五分もあれば充《じゆう》分《ぶん》だ。
そして——結局、妙子の姿はなかった。
どこへ行ったのだろう? 服を残して、なぜ姿を消したのか。——それとも「消された」のか。
部屋のキーは、部屋のテーブルの上に、投げ出してあった。
「どうしたもんでしょう?」
ただでさえ、商売が上がったりなのに、この上、客が行方《ゆくえ》不明になったとあっては、このホテルは潰《つぶ》れてしまうかもしれない。
フロントの男の表情は、正《まさ》に真《しん》剣《けん》であった。
「分らないな。ともかく、どこにも手を触《ふ》れないようにして、鍵をかけておくのがいいと思う」
「は、はい」
と至って素直にドアを閉《し》める。
「——彼女が家へ帰ったのかどうか、確かめるから、その結果で決めることにしようか」
と、私は言った。
「そうしていただけるとまことに——」
と急に低姿《し》勢《せい》になる。
私は、苦笑いした。その変り身があまり素早かったからである。
フロントの電話から妙子の自宅へと電話を入れた。
「大場でございます」
と、母親らしい声。
「会社の者で、平田と申しますが、妙子さんはお帰りになっていらっしゃいますか?」
「まあ、どうも、妙子がお世話になりまして——」
と母親が呑《のん》気《き》に挨《あい》拶《さつ》を始める。
やっとそれが終ると、
「——今夜は、妙子、まだ戻らないようでございますが」
「遅くなる、という電話などは、ありましたか?」
「特に何もございません」
「そうですか」
「でも、妙子はよく外泊して参りますので、別に心配はないと思います」
なかなかユニークな母親である。さすが、妙子の母親だけのことはある、と妙《みよう》なところに感心しつつ、電話を切った。
「ど、どうしましょう?」
フロントの男は、いよいよ顔が青くなって来た。
「——やっぱり警察へ知らせたほうがいいと思うね」
と私は言った。
相手はガックリ来た様子で、渋《しぶ》々《しぶ》受話器を取り上げた。
警察の調べが終って、やっと解放されたのは、もう夜中の三時だった。
警察の調査でも、何一つ目新しいことは分らなかった。妙子の服には、血《けつ》痕《こん》などは一つもなく、また乱《らん》暴《ぼう》にむしり取られたわけでもなさそうだ。
一体、妙子はどこへ消えてしまったのだろう?
警察署《しよ》を出ると、もう霧はほとんど晴れかかっていた。
もうすぐ夜が白《しら》々《じら》と明けて来るだろう。——私は、一美のことを思い出した。
「行ってやらなくちゃ」
と呟いて頭を強く振り、眠気をさますと、今度こそタクシーを拾った。
こんな時間では仕方ない。その代り、道路は空《す》いていて、思ったよりずっと早く、ホテルの前に着いた。
「彼女を待たしてんですか?」
タクシーの運転手が、金を受け取りながら、ニヤニヤ笑って、言った。
そんな呑気な話じゃないよ、と私は苦笑した。
こっちのフロントの男は、私がまた入って来たので、目を丸《まる》くした。
二つのホテルに、女を二人置いて、交《こう》互《ご》に愛し合っているのだとでも思ったのかもしれない。
「すまないけど——」
と言いかけると、
「部屋へお電話をいたしますか?」
「頼《たの》むよ」
「お待ち下さい」
——しばらく鳴らしたが、一美は出なかった。
「お寝《やす》みかもしれませんね」
そうかもしれない。
しかし、私は気になった。——少なくとも一美は逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》なのだ。いくら安心して休んでいるとはいえ、電話のベルにも目を覚まさないなどということがあり得るだろうか?
「すまないけどね」
「何か?」
「ちょっと鍵を開けてくれるか?」
こちらのフロントは、金次第だった。五千円の出資は痛《いた》かったが、仕方ない。
——鍵を開けて、
「どうぞ」
と言ったきり、フロントの係の男は、さっさと行ってしまう。
なるほど。後は何があろうと関知しない、というわけか。なかなか頭がいい。
私は中へ入った。明りのスイッチを探り、バチッとつける。——室内が明るくなった。
私は、しばらく、ポカンと突《つ》っ立っていた……。
そこには、もちろん一美の死体はなかった。大きな血だまりも、床《ゆか》に突き立ったナイフもなかった。
ただ、ベッドの上に——あのビジネスホテルのベッドとは比べものにならない、大きな派手なベッドだが——服が脱ぎ捨ててあったのだ。
それは紛《まぎ》れもなく、小浜一美の服に違いなかった。
やっと少し落ち着いて、私はベッドへ歩み寄った。——服、下着。投げ捨てるように放り出されている様子は、あの、大場妙子が姿を消したのと、そっくりそのままであった。
「どうなってるんだ!」
私は呟いた。それから、浴《よく》室《しつ》やタンスなどを片っ端から調べ回った。しかし、一美の姿はどこにもない。
——大場妙子、小浜一美。
二人とも、どこかへ消えてしまったのだ……。