「平田さん、警《けい》察《さつ》の方が受付に……」
受付の女の子がやって来て言ったとき、正直ホッとした。
朝から、仕事はまるで手につかなかったのである。
「どうせ来るなら、もっと早く来い」
とブツブツ言いながら、受付へ行く。
「度々どうも」
立っていたのは、松尾という、若い刑《けい》事《じ》一人だった。
いやな予感がした。いつもなら、川上という、穏《おだ》やかな、年《ねん》輩《ぱい》の刑事と一《いつ》緒《しよ》なのだが、この若《わか》い刑事、やたらと人をおどしつけようとするくせがある。
TVの暴力刑事に憧《あこが》れているのかもしれない。
「今日は一人で来たんですよ」
こっちの心を読んでいるように、松尾は、ニヤリと笑ってそう言った。
「何のお話ですか」
「ちょっと署まで同行願いたいんです」
「しかし——」
「いやなら、無理にとは言いません」
と松尾は、じっとこっちをにらみながら言った。「ただ、事情聴《ちよう》取《しゆ》に応じないというのは、何か理由があるからだと思われても仕方ありませんね」
これが「任意」なのか、と私は苦笑した。
「行きますよ」
と私は肩《かた》をすくめて言った。
公用にて早退という届を出し、会社を出る。
「これは逮《たい》捕《ほ》じゃないんでしょうね」
車へ乗りながら、私は、ちょっと冗《じよう》談《だん》のつもりで言った。
「残念ながら、ね」
松尾刑事の答えには、どこかハッとさせるものがあった。顔を見ると、どことなく、険悪なものを感じさせる目が、じっとこっちを見つめている。
私は、ふっと寒気がして、あわてて目をそらした……。
暗《くら》闇《やみ》の中から、真っ白な光が突《とつ》然《ぜん》目を覆《おお》った。
「やめてくれ!」
私が叫《さけ》んだ。
「やめてほしきゃ、素直に吐《は》け!」
松尾刑事の罵《ば》声《せい》が、耳もとで爆《ばく》発《はつ》した。その声が、まるで実体のあるもののように頭へ食い入って来て、私は、机《つくえ》の上に顔を伏《ふ》せ、両手で耳を押《おさ》えた。
とたんに髪《かみ》の毛をつかまれ、ぐいと引っ張り上げられる。痛《いた》さに涙《なみだ》が出た。
——もう何時間、こうして、責め立てられているのだろう。
全身が汗《あせ》で水を浴《あ》びたようになり、頭も重く鉛《なまり》のようで、何か言おうにも、舌がもつれて、言葉にならない。
「水を……くれ」
と、言った。
もう何十回、そう言っただろう。口の中は一滴《てき》の唾《だ》液《えき》も残っていないと思えるくらい、カラカラに乾《かわ》いていた。
「水が欲しいのか?」
「ああ……」
「しゃべれば、いくらでも飲ませてやるさ」
松尾が笑《わら》った。
ともかく、向うの話はこうだった。
あのレストランで、小浜一美を間《かん》一髪《ぱつ》で取り逃《にが》したとき、私らしい客を、刑事の一人が見ていた。
もちろん、それは本当に私だったのだが、それを認めろというのだ。
「小浜一美を逃がしたな! 白状しろ!」
というわけだ。
しかし、こうして、認めろと責め立てるのは、はっきりした証言が得られていないということである。私にもそれくらいのことは分った。
見た刑事も、それが私だったと証言はできないのだろう。だから、松尾はやっきになって、私を責めているのだ。
そして昨日、大場妙子が行方《ゆくえ》不明になり、そこに私が居合わせた。大場妙子は桜田の姪《めい》である。
この事実が松尾の耳に入った。それで、こんな強《ごう》引《いん》な方法に踏《ふ》み切ったのに違《ちが》いないのだ。
「どうだ! 小浜一美はどこにいる!」
「知りませんよ……」
「貴様がかくまってる! ちゃんと分ってるんだ!」
分ってるなら、訊《き》かなきゃいいのだ。要するに向うは当てずっぽで言っている。こっちは 「知らない」で通す他はない。
「貴様も共犯だ! 死刑だぞ!」
とまで言い出した。
私はもう答えなかった。——答える元気もなかったのである。
「この野《や》郎《ろう》!」
突《つ》き飛ばされて、私は椅《い》子《す》ごと床《ゆか》に転がった。目が回った。
松尾は苛《いら》立《だ》っていた。
パッとしない、何となくおずおずとした私を見て、おそらく、ちょっといじめれば思い通りになると思っていたのに違いない。それはまるで計算違いというものだ。
私のように、いつも、うだつの上がらない、万年平社員をつとめているような男は、いじめられたり、我《が》慢《まん》することに慣れているのである。
むしろ、エリートコースを一直線に来て、出世したような男は、自分が大事にされないということ自体に堪《た》えられない。
その辺を分っていないのは、松尾がやはり若いせいだろう。
「この野郎——俺《おれ》をなめる気か!」
胸《むな》ぐらをつかまれて、引きずるように立たされ、
「いくらでも留置場へぶち込めるんだぞ! 素直に吐け!」
私はめまいがして、立っていられなかった。松尾が手を放すと、よろけて机にぶつかり、そのまま床へ倒《たお》れ込《こ》んだ。
額《ひたい》を、したたかに打った。——目から火花が出るというのはこのことだろう。
おかげで、却《かえ》って、頭のほうははっきりした。相手は焦《あせ》っている。こっちがカッとしては思う壷《つぼ》だ。
「おい立て!」
と怒《ど》鳴《な》り声がした。
私はよろけつつ立ち上がった。
「川上って……人はどこだ?」
私が、もつれた舌で言うと、松尾は低く笑った。
「残念ながら出張中だ。さあ、座《すわ》れ、もう一度やるぞ」
そうか。だから、一人で頑《がん》張《ば》っているのだ。
逆に、川上という刑事が帰るまでに、決着をつけておかなくては、立場がまずくなるのだろう。だから必死なのだ。
「——今夜は眠《ねむ》らせんぞ。覚《かく》悟《ご》しとけよ」
松尾は、強《きよう》烈《れつ》な光を私の顔へ浴びせながら言った。
もう何も見えない。
白い光が、視界を覆いつくして、まるで頭の中まで真っ白になったようだった。
「小浜一美と寝《ね》たんだろう」
松尾は、さっきからそれをくり返していて、
「いいや」
私が首を振《ふ》る。
「いい女だったか」
私は黙《だま》って首を振る。
「もう一度訊くぞ。小浜一美と寝たな?」
その内、ついうっかりと肯《うなず》こうものなら、たちまち、「関係を認めた」という調書ができ上がるだろう。
「——寝なかったんだな?」
と松尾が言った。
いいや、と言いそうになってハッとした。
「ああ、寝なかったよ」
松尾が歯ぎしりした。こんな風に引っかけようとするのだ。
「——よし」
松尾は立ち上がった。「何日でも起きてるがいいさ」
「何日でも……」
「認めるまで寝かせないぞ」
私の内に激《はげ》しい怒《いか》りが湧《わ》き上がって来た。——殺《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》や《ヽ》る《ヽ》。必ず殺してやるぞ。
「——何だ。その目は」
松尾が私の首をぐいとつかんだ。私はむせ返った。
「俺を馬《ば》鹿《か》にするとどうなるか憶《おぼ》えとけ!」
そのまま、ぐいと突き飛ばされ、私は床へ投げ出される。
殺してやる! 私は起き上がろうともがいた。
ドアが開いた。
「——何をしてる」
聞いたことのある声だった。
沈《ちん》黙《もく》があった。
「何の真《ま》似《ね》だ!」
「川上さん……」
川上刑事だ。
「いつからこんなことがやれるほど偉《えら》くなった?」
「ですが、こいつ、もう少しで——」
「出て行け」
と川上は言った。
「間違いないんです! この野郎は、あの女と出来てたんですよ!」
「出て行け」
冷ややかな声だった。——松尾が足早に出て行った。
「平田さん。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
という声が近付いて来る。
「ええ、大丈夫です」
と答えて、立ち上がった——つもりだった。
よろけて、私はそのまま気を失ったらしかった。