「——お詫《わ》びのしようもありません」
川上刑事が頭を下げた。
私は黙って、出されたお茶を飲み干《ほ》した。——もう十杯《ぱい》目ぐらいだった。
「今、何時ですか?」
と私は訊いた。
「朝の五時です」
「五時……」
私は大きく息を吐き出した。
「松尾のことは私の責任です」
川上はもう一度頭を下げた。
「もういいですよ」
と私は言った。
「しかし——」
「若い内は、誰《だれ》しも暴走しがちなもんですからね」
「そうおっしゃられると辛《つら》いです」
「別に訴《うつた》えるとか、そんな気はありません」
「ありがとうございます」
川上は頭を下げた。——珍《めずら》しく、良心的な刑事である。普《ふ》通《つう》、仲間同士では、かばい合うものだろうが。
「ただ、二つお願いがあるんですが」
と私が言った。
「何でしょう?」
「会社を今日休むのに、公用という証明が欲しいんです」
「分りました」
「それから——」
「何です?」
「後で、うな丼《どん》を一杯、おごって下さい」
と私は言った。
「——何人前でもどうぞ」
赤坂の、有名なうなぎ専門店で、私は満《まん》腹《ぷく》になってフウッと息をついた。
「いや、もう結構です」
——座《ざ》敷《しき》は、静かで、およそ都会の真ん中の、それも昼どきとは思えなかった。
「それにしても、あなたの精神力は大したものですね」
と、川上が言った。
「いじめられつけてるんですよ」
と私は言った。
「——大場妙子さんというのは、桜田さんの姪とか。ご存知でしたか」
「ええ。彼女、自分からそう言いました」
「なぜ、あなたの会社へ入社したんでしょう?」
「事件のことを調べてみたかったようです。若い娘《むすめ》は無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》ですから」
「全くですね。それを手伝っておられたんですか」
「手伝わされていた、というべきですかね」
「頼《たよ》られていた?」
「妙ですよ。このとしになるまで、女の子に頼られたことなどなかったのに」
と私は苦《く》笑《しよう》した。「——松尾さんも、私と小浜君のことばかり訊いていたけど、私と大場君のことも訊けば良かったのに」
「ほう。すると——」
「彼女のほうからね。本当ですよ」
「信じますとも。——しかし、行方不明になった事情は奇《き》妙《みよう》ですね」
「ええ」
もちろん、小浜一美が行方不明になったことは、誰も知らない。二人の女が、時を同じくして行方不明になった。それこそが、奇妙である。
「何かお考えはありませんか」
と川上が訊く。
「それはそちらの領分でしょう」
と私は言った。
「全くですな」
川上は笑った。
アパートへ帰ったのは、午後の二時過ぎだった。
それからぶっ通して眠り、目が覚めたのは、夜中の一時だった。
風《ふ》呂《ろ》へ入り、上がると、やっといつもの頭《ず》脳《のう》に戻《もど》ったようだ。
体を拭《ふ》いていると、電話が鳴った。
「——平田です」
「もしもし」
あの女だった。
「君か……」
「警察にいたの?」
「ひどい目に遭《あ》った」
「そのようね」
女は笑いを含《ふく》んだ声で言った。
「なぜ知ってる?」
「いいじゃないの、なぜでも」
「君は——」
私は言いかけて、言葉を切り、「何の用だ?」
と訊いた。
「松尾っていう刑事。許せないわね」
「おい待て! それは僕《ぼく》の問題だ」
「あなた、や《ヽ》る《ヽ》つもり?」
「悪いか?」
「いいえ。ちっとも」
女は人を小馬鹿にしたように、「出来るかしら?」
と付け加えた。
「やる。必ずやる」
「怖《こわ》いのね。——じゃ、そちらへ任せるわ。頑張って」
「ご親切にどうも」
「表はまた霧よ。——でも長くはもたないでしょ。やるなら今夜しかないわ」
「そうか。しかし、準備が必要だ。相手の居場所をつかまなくちゃ」
「今、松尾刑事はスナックで酔《よ》っ払《ぱら》ってるわよ」
「何だって?」
「私、その近くからかけてるの」
「じゃ……松尾をつけてるのか」
「そう。もしかしたら、あなたが自分でやると言い出すかもしれないと思ってね。——それで電話したの」
「ありがたい。場所を教えてくれ」
女の説明を、私は頭へ叩《たた》き込んだ。
「——分った」
「まだ彼はそこにいるわ。たぶん、しばらく動かないでしょう」
「礼を言うよ」
「どういたしまして」
女はフフ、と軽く笑って、電話を切った。
あの女は何者なのか?
なぜ、一美のこと、妙子のこと、山口のこと、そして松尾のことまで知っているのだろう。気にはなったが、今は余《よ》裕《ゆう》がない。
私は、下着を替《か》え、それから服を一揃《そろ》い、出して並《なら》べた。
一つずつ身につけて、それから黒のコートをはおる。帽《ぼう》子《し》、靴《くつ》。
そしてナイフ。
今日こそは、〈切り裂《さ》きジャック〉がよみがえる夜だ。
私は、すっかり用意を整えて、鏡の前に立った。
そこにはもう〈平田正也〉はいなかった。十九世紀のロンドンから抜《ぬ》け出した男が立っている。
殺人鬼《き》、切り裂きジャック。
私は、そっと微《ほほ》笑《え》んだ。——あの松尾という刑事が、腹《はら》を切り裂かれたとき、どんな顔になるだろう、と思うと、一刻《こく》も早く出かけたかった。
「さて」
私は鏡の中のジャックへ、挨《あい》拶《さつ》した。「行って来るよ」
外は霧。風が少し流れて、コート姿《すがた》の私を霧が巻《ま》いて行く。
私は、いつにない力強い足取りで、夜の道を歩き出した。
スナックから、松尾が出て来た。
不《ふ》機《き》嫌《げん》な様《よう》子《す》である。大方、川上刑事に叱《しか》られたのだろう。
「畜《ちく》生《しよう》!」
八つ当り気味に小石をけっとばす。
松尾が歩き出した。私もその後を尾《つ》けて行った。
刑事が尾《び》行《こう》されるのでは、ちょっと見っともない話である。
どこへ行く? さあ、どこでもいいぞ。
死に場所ぐらい、選ばせてやる。
どうやら、松尾は、あまりアルコールに強くないとみえる。
途《と》中《ちゆう》で気分が悪くなったのか、わきへそれて、どこかの家の塀《へい》の陰《かげ》で吐いているらしかった。
もう少しすれば、気分の悪いのも、治してやるのに。このメスで。
私は左右へ目を走らせた。——あの女は、どこかから見ているのだろうか。
見ているがいい。本当の〈切り裂きジャック〉の手《て》並《なみ》を見せてやるから。
ナイフを握《にぎ》りしめた手は、震《ふる》えもせず、汗もにじまない。
松尾は、やっと息をついて、体を起こした。私は、ナイフを手に、その背《せ》中《なか》へ向って、ゆっくりと足を進めて行った。