松尾は、気分が悪いせいか、背《はい》後《ご》から近付く私に、全く気付いていなかった。
私の手には、血を吸《す》うのを待ち焦《こ》がれているナイフがあり、目の前には松尾の背中がある。その間は、もう一メートルとはなかった。
今だ! 私はナイフを握った手を、ゆっくりと振《ふ》り上げた。
「——いやだって言ってるじゃないのよ!」
女の声が、突《とつ》然《ぜん》すぐ近くで聞こえた。私は素早くナイフを握った手をコートのポケットに入れ、振り向いた。
「なあ、何だよ、今さら!」
と男の声。
霧《きり》で多少見にくいが、どう見ても二十歳《さい》そこそこの若《わか》い男と女である。どっちも少し酔っているようだ。
私は舌打ちした。松尾が声を聞いて振り向くと、まともに顔を合わせることになる。
一《いつ》旦《たん》姿を隠《かく》さなくてはならない。——私は素早く暗がりへと移動した。
松尾は、気分が良くならないのか、少し歩いて、街《がい》灯《とう》にもたれると、そのままじっと動かない。
「——いやなもんはいやなのよ!」
「そりゃねえだろ、ここまで来たのによお」
若い男女はまだもめている。
「ここまで来たって、あんたが連れて来たんでしょ」
「お前がついて来たんじゃねえか」
「何もしないって言うからよ」
「あそこまで来て、何もすんななんて、冗《じよう》談《だん》きついぜ」
——どうやら、男が、恋《こい》人《びと》をホテルか個室喫《きつ》茶《さ》か、その手の所まで連れて行ったのに、いざとなったら、女のほうが逃《に》げ出したというところらしい。よくある話だ。
「約《やく》束《そく》したでしょ。あんた、キスだけだって」
「そんなのねえよ。散々金使ってんだぜ」
——畜生、と私は苛《いら》々《いら》しながら、靴《くつ》で小石をけった。どっちでもいいから、とっとと姿を消してくれ!
「お金が何よ! ケチくさいこと言わないでよ」
「ケチたあ何だよ!」
「ケチだからケチって言ったのよ!」
「お前こそ何だ、いつも飯食っちゃ逃げちまうくせして。食い逃げめ!」
「言ったわね……」
女はカッとしたらしく、男の頬《ほお》をいきなり平手でひっぱたいた。バシッと景気のいい音が響《ひび》いて、
「この野《や》郎《ろう》……」
男のほうも頭に血が上ったと見える。女の髪《かみ》をわしづかみにして引っ張った。
「痛《いた》い! 何すんのよ! この気《き》狂《ちが》い!」
女が手にしたハンドバッグを振り回す。
こうなると、もう乱《らん》闘《とう》だ。——私は、ため息をついた。
もちろん、かの〈切り裂きジャック〉だって、バッキンガム宮《きゆう》殿《でん》の中で犯行に及《およ》んだわけではない。色々と邪《じや》魔《ま》も入ったに違《ちが》いない。
しかし、こんな騒《さわ》ぎに出くわしたのでは……。
私はすっかりやる気を失ってしまった。
「てめえ、金返せよ!」
「何すんの、泥《どろ》棒《ぼう》!」
——恋人たちもこうなっては終りだな、と私は苦《く》笑《しよう》した。男が女のバッグを引ったくって、中身を道路へぶちまけた。
そして、財《さい》布《ふ》をひっつかむと、
「返してよ! 泥棒!」
と食ってかかる女を突《つ》き飛ばした。
女は路上に転《てん》倒《とう》して、ちょうど街灯にもたれている松尾の足下に転がった。
「ねえ、あいつを捕《つか》まえてよ! 泥棒なのよ!」
と、女は松尾の足をつかんで叫《さけ》んだ。
もちろん、まさかそれが本物の刑《けい》事《じ》だとは思ってもいないだろうが。
「うん……? 何だ、一体?」
松尾が、物《もの》憂《う》い様子で顔を上げた。
「あいつが、私の財布を盗《と》ったのよ!」
と女が、若い男のほうを指さす。
「勝手言いやがって! そいつに電車賃でも借りて帰るんだな!」
と、男のほうは言い捨《す》てて歩き出す。
突然、松尾が職業意識に目ざめたのか、
「待て!」
と、怒《ど》鳴《な》った。「逃げるな!」
「何だよ」
男は振り向いて、「引っ込《こ》んでろい! 関係ねえだろう!」
「それを返せ」
松尾は、ちょっとよろけながら、相手のほうへと近付いて行った。
「大きなお世話だ、引っ込んでろ!」
「財布を返してやれ!」
松尾のほうも、酔《よ》っているせいか、言葉が荒《あら》々《あら》しい。「逮《たい》捕《ほ》するぞ!」
「笑わせるない、この酔っ払いが!」
男にドンと胸《むね》を突かれて、松尾はよろけると尻《しり》もちをついた。男はゲラゲラと笑いながら、
「ざまあ見ろ! 悔《くや》しかったら、逮捕でも何でもしてみろよ」
松尾が、よろけつつ立ち上がる。
——私は松尾の顔つきが変っているのに気付いた。
私を尋《じん》問《もん》していたときの、あの凶《きよう》悪《あく》そのもののような顔になっている。こいつはただでは済まないぞ、と思った。
「お、まだやる気かよ」
相手はニヤニヤ笑っている。何も分っていないのだ。
「謝《あやま》れ」
と松尾は低い声で言った。
「何だと?」
「手をついて謝れ」
「ふざけるない! てめえこそ——」
松尾が男の腕《うで》をぐいとつかむと体を沈《しず》めた。男の体がみごとに一回転して、道路に叩《たた》きつけられる。
「いてて……」
「さあ、謝れ」
「誰《だれ》が謝るもんか!」
起き上がった男は拳《こぶし》を固めて松尾に向って行った。だが、松尾の手のほうが、鍛《きた》えられている。手刀が水平に男の首を打って、男は苦しげに喘《あえ》ぎつつ倒《たお》れた。
「分ったか! 俺《おれ》を馬《ば》鹿《か》にした奴《やつ》は、容《よう》赦《しや》しないんだ」
松尾は、靴で、思い切り相手の腹《はら》をけった。ウッと呻《うめ》いて、体を折る。
「フン、ゴキブリ野郎!」
と、松尾は吐《は》き捨てるように言った。
それから、少し離《はな》れて、二人の争いを見ていた女のほうへ、
「さあ、財布を取り返せよ」
と言った。
だが、女のほうは、さっきの勢いはどこへやら、すっかり怯《おび》えてしまっていた。
「もう……いいの」
「何がいいんだ! こいつは泥棒なんだぞ」
松尾は大声で喚《わめ》いた。
「あの……どうせ大して入ってないから……」
と女はこわごわ言った。
「何を震《ふる》えてるんだ?——俺が怖《こわ》いのか?」
松尾は声を上げて笑った。「俺は刑事だぞ! 何も怖いことなんかないんだ」
「分ったわ……。ありがとう、もういいの」
「いや、よかないぜ。財布をちゃんと取り戻《もど》さなきゃな」
松尾は、倒れている男のほうへ歩み寄った。
「ズボンのポケットだな……」
と男の上にかがみ込んで、「あ……」
と呟《つぶや》くように言った。
おかしいぞ、と私は思った。
私の位置からはよく見えないのだが、何かあったのだ。
松尾が、そろそろと体を起こすと、二、三歩後ずさりして、振り向いた。——女が悲鳴を上げた。
街灯の光で、松尾の腹の辺りが、赤く染《そ》まっているのが分る。——倒れていた男が、上体を起こした。
あの若い男がナイフを持っているとは、松尾も気付かなかったのだろう。
松尾が、苦《く》痛《つう》の表情など、まるで見せないのが却《かえ》って怖かった。むしろ、薄《うす》笑《わら》いさえ浮《う》かべている。
そして——不意に松尾の体が崩《くず》れた。
路上に伏《ふ》した松尾の体の下から、血がゆっくりと広がり始める。
男がナイフを手に立ち上がる。
「——何やったのよ!」
女が叫《さけ》んだ。
「俺……だって……頭に来たから……」
と、男がボソボソと言った。
「殺したのよ!」
女のほうが、こういうときは冷静になるようだ。
松尾の上にかがみ込んで、上《うわ》衣《ぎ》のポケットを探《さぐ》った。
「——見て!」
「何だ?」
「警《けい》察《さつ》手帳よ」
しばらく、どちらも口をきかなかった。
「そんな……」
「本物の警官よ! 刑事を殺したのよ!」
女が叫んだ。「何てことしたのよ!」
「どうしよう……俺……」
男が、血のついたナイフを投げ出した。
「だめよ。どこかへ捨てなきゃ」
女がバッグの中のものを拾い集めて、ハンカチで血のついたナイフを包んだ。「さあ、早く逃げるのよ!」
「どうする? だって、もしかしたら、まだ助かるかもしれない——」
「もう死んでるわよ! 誰か来ない内に。早く!」
「う、うん」
男のほうはただ呆《ぼう》然《ぜん》としているばかりで、女に腕を取られて、よろけるようにして立ち去った。
——私は、ゆっくりと、松尾のほうへ歩み寄った。
本当に死んでいるのだろうか? かがみ込んで、手首を取ってみる。
——そこには生命のしるしは、全くなかった。
私は、しばし呆然として、松尾の死体を見下ろして立っていた。
何という皮肉だろう。殺そうとした相手が、こんなにも簡《かん》単《たん》に、他の人間に殺されてしまうとは。
しかも、刺《さ》されているのだ!
それは、まるで、天が私に代って、松尾を殺してくれたようなものだった。「切り裂きジャック」は、またしても、その腕を振《ふる》うことなしに終ってしまったのである。
——ふと、我に返って、私は歩き出した。こんなところを人に見られては怪《あや》しまれる。
「怪しまれる、か……」
そう呟いて、笑い出した。
切り裂きジャックが、怪しまれるもないものだ。どうなってるんだ、全く!
私が笑いながら、歩いて行くと、すれ違ったどこかの酔っ払いが、
「おい、兄《あん》ちゃん、ご機《き》嫌《げん》だね」
と、声をかけて行った。
私は足を早めた。霧は少し晴れかかっている。