「——心配かけてごめんなさい」
妙子は、やっと落ち着いた様子で言った。
ろくに食べていなかったらしく、手近な食堂に入ったら、旨《うま》くもないカレーライスを二皿《さら》ペロリと平らげてしまった。
「どうしたんだい、一体?」
と私は訊《き》いた。「警《けい》察《さつ》でも、君を捜してるんだよ」
「ええ、明日でも出向いて行って説明するわ」
「何があったのか、話してくれよ」
「私にだって良く分らないのよ」
と、妙子は言った。「三〇四号室で、あなたが戻《もど》って来るのを待ってる内に、ウトウトしちゃったのね。——誰《だれ》かが入り込んで来たのよ。いきなり毛布をスポッとかぶせられて、どこかを殴《なぐ》られたら、アッサリ気を失って……」
「相手が誰だか分らなかったの?」
「全然。ハッとしたときにはもう毛布の中で」
「それから?」
「その後は、気が付いたら、あの店の中。もっと奥《おく》に、倉庫みたいな所があるのね。外へ出入りできる隠《かく》し戸もあるみたいなんだけど、そこに縛《しば》られて、転がされてたわけ。——しばらく放っておかれて、マリファナか何かのタバコを無理に喫《す》わされたり……。あんまり効《き》き目がないもんだから、直接注射してやると言って……。そこへあなたが来てくれたのよ」
「間《かん》一髪《ぱつ》だったね」
「命の恩人だわ、平田さんは」
と、妙子が言った。
私は、何だかくすぐったい気持になって、
「——そうだ。お母さんが心配してるよ。連《れん》絡《らく》してあげたら?」
「あ、そうだ! 十円玉を貸してくれる?」
妙子は、自分の服に初めて気が付いた様子で、「——まあ、ずいぶん野《や》暮《ぼ》ったい格好してたのねえ」
と呑《のん》気《き》なことを言った。
怖《こわ》いもの知らずというのか……。私はつい笑《わら》い出さずにはいられなかった。
「しかし、どうして君を裸《はだか》にして行ったんだろうね」
と私が言うと、妙子は肩をすくめて、
「どこかへ売り飛ばすつもりだったのかしらね」
と気楽に言った。
妙子を家まで送るべく、表に出てタクシーを停《と》めた。
「さあ、乗って」
と、妙子を乗せ、つづいて乗り込む。
すると、どこにいたのか、もう一人、女が私の後から乗り込んで来た。
「おい、何だ、君は?」
と見て、「あ、さっきの——」
あの店で私を誘《さそ》って来た若い女である。
「一万円落としたから、拾って届けてやろうと思ったのよ」
と女は言って、さっき私が投げてやった札《さつ》を取り出した。
「それは君にやったんだ」
「何もしないでもらえないわ」
「ともかく降りろよ」
「いやよ」
「どうする気だ?」
「私、さっきあなたを見ててしびれちゃったんだ。カッコ良かったよ!」
「そいつはどうも。さあ、降りて」
「いや! あんたについて行くんだ!」
「何だって?」
運転手がうんざりした顔で、
「どこへ行くんですか?」
と言った。
妙子が家の場所を告げると、タクシーは走り出した。
私は、妙子とその女、二人に挟《はさ》まれて座《すわ》っていた。——到《とう》底《てい》、「両手に花」なんて気分ではなかった。
朝、いつもの時間に目が覚める。
一人暮《ぐら》しは、何とも疲《つか》れるものだ。しかし、疲れるからといって、習慣を一度崩《くず》してしまうと、もう歯止めが効かなくなる。
辛《つら》くとも、同じ時間に起き、顔を洗《あら》い、コーヒーを淹《い》れて——。この日課を守ることが、一人でいて、惨《みじ》めさを感じない唯《ゆい》一《いつ》の方法なのである。
この日も、手順通りに一日はスタートした。少し手早くやったせいか、出かける前に、五分ほど時間が空《あ》いた。
新聞を広げようとして、ふとあの女のことを思い出した。タクシーに無理に乗り込んで来て、結局このアパートの前までくっついて来たのである。
「帰れ」
と言っても、
「帰らない!」
と頑《がん》張《ば》る。
こっちも根負けして、勝手にしろ、と言って部《へ》屋《や》へ入ってしまった……。
そのまま朝になったわけだが、あの女、どうしただろうか。——私は立ち上がって窓のほうへ行って外を見た。
別に女の姿《すがた》は見えない。諦《あきら》めて帰ったのだろう、とホッとした。
さて、少し早いが、出かけようか、と伸《の》びをして、ネクタイを手に取った。
外へ出て鍵《かぎ》をかけ、アパートを出ると、駅へ向って足早に——。
「おはよう!」
振《ふ》り向いて驚《おどろ》いた。昨日の女である。
「何してるんだ?」
と私は訊いた。
「歩いてるのよ。歩いちゃいけないの?」
「構わんさ。しかし、一《いつ》緒《しよ》に歩かないでくれないか」
「あら、たまたま同じ駅に行くってだけじゃないの」
と、澄《す》ました顔をしている。
「いいか、君と遊んでるヒマはないんだ!」
「誰も遊んでくれなんて、言ってやしないわよ」
なるほど、それはその通りだ。私は肩をすくめて、勝手に足を早めた。
おかげで一本早い電車に間に合い、会社に着く前に、早朝のモーニング・サービスをやっている喫《きつ》茶《さ》店で一息入れることができた。
こんな時間でも、朝食抜きで家を出て来ているサラリーマンたちが、ここで朝食のトーストをかじっている。
私は、窓《まど》際《ぎわ》の席に座って、のんびりとコーヒーをすすった。外をせかせかと走って行くサラリーマンたちは、たぶんまだ会社まで距《きよ》離《り》があるのだろう。——何となく、余《よ》裕《ゆう》がある感じで、いい気分である。
トントン、とガラスを叩《たた》く音に顔を上げて、ギョッとした。——あの女が窓の外にニコニコ笑っている。
「——何のつもりだ?」
金を払《はら》って外へ出ると、私は、女にかみつきそうな調子で言った。
「歩いてたら、たまたま見かけてね……」
「そんなことがあるもんか! 一体何が狙《ねら》いだ?」
「別に。ただ、何となくあんたに魅《ひ》かれたのよ」
「迷《めい》惑《わく》だよ」
「別に構わない、私」
これでは話にならない。
「——ねえ、早く会社に行ったら?」
しまった! ギリギリだ! 私は、
「もうついて来るなよ!」
と怒《ど》鳴《な》っておいて、会社に向って駆《か》け出した。
昼休みになって、私は席から立ち上がった。——午前中は、みんな専《もつぱ》ら大場妙子の話でもちきりだった。
今日は妙子は休んでいる。警察で色々話をしたり、あの、閉じ込められていた店も、手入れを受けることになるだろう。
もっとも、店の人間はとっくに夜《よ》逃《に》げしているに違《ちが》いないが。
昼食を外で食べようと、ビルを出た私は、目の前にあの女が立っているのを見て、ため息をついた。
「——ねえ君」
「あら、また会ったわね」
しゃあしゃあとして笑っている。
——何となく格《かつ》好《こう》が薄《うす》汚《よご》れているが、まだ若《わか》く、よく見ればなかなかチャーミングな個性のある顔立ちをしている。
「よし、じゃ昼飯でも食べるか?」
彼女はキャア、と声を上げて手を打った。
「良かった! 飢《う》え死にしそうだったんだ!」
私は苦《く》笑《しよう》した。
「それならもう少し待つんだったな。何を食べる?」
「何でもいいよ」
正《まさ》に——何でもいい感じだった。
その女、入ったソバ屋で、カツ丼《どん》と天丼をきれいに平らげ、かつ、ざるそば一つを、さして苦にするでもなく、お腹《なか》におさめて、
「ああ、生き返った」
と言った。
「君の名前は?」
「めぐみ。メグってみんな呼《よ》ぶよ」
「ゆうべは表に立ってたのか」
「うん。でも、立って寝《ね》られるんだ。馬みたいでしょ」
「家へ帰らないのか?」
「家なんてないよ。ありゃ、あんな所でゴロゴロしてない」
なるほど、それはその通りかもしれない。
「君は、覚せい剤《ざい》か何かやってるのか?」
「たまにね。面白くないことがあったとき。それにお金ないと手に入んないしね」
「そんなことやってると体がボロボロになっちまうぞ」
「まだ中毒してないからね」
「しかし、金がほしくて僕《ぼく》に声をかけたんだろう」
「うん、お腹が空《す》いてたんだもの」
私はつい笑ってしまった。これなら、充《じゆう》分《ぶん》に立ち直れそうだ。
めぐみ——メグと名乗ったその女は、確かに、ああいう中毒患《かん》者《じや》とは違って、生気のある目をしていた。
「ねえ、あんた何者なの?」
ソバ屋を出て、近くのパーラーに入ると、メグは、胸《むね》やけしそうなチョコレートパフェを平然と食べながら、そう訊いた。
「僕はただのサラリーマンだよ」
と、私は言った。
「そんなことないよ!」
「どうして?」
「だって……あのナイフの扱《あつか》い方なんて、ベテランじゃないの」
「向うが意気地なしなのさ」
「あの女の人、恋《こい》人《びと》なの?」
「え? ああ……そんなところかな」
「ふーん。ね、どんな事情なの? 話してくれない?」
「聞いてどうするんだ?」
「あんたのことなら、何でも聞きたいんだもん」
私は戸《と》惑《まど》った。——そのメグという娘《むすめ》、明らかに、私に対して恋心を抱《いだ》いているのだ。
その目つきは、疑《うたが》いようもなかった。
何となく憎《にく》めない女ではある。しかし、とてもじゃないが、今の私に、そんな色恋を語る余裕は、とてもないのだ。
「なあ、いいかい……」
と、私は言った。