「切り裂《さ》きジャック、かあ……」
メグは、ぶらぶら歩きながら言った。
もう、夜も九時を回っている。——昼休みの時間では、とても話にならないので、帰りにまた会って、夕食を食べさせてやりながら、今度の事件のことを説明してやったのである。
といっても、もちろん小浜一美のこと、私自身の内面的なことは一切触《ふ》れていない。
「私もどこかで読んだよ、その記事」
とメグは言った。「たぶん、どこかに落ちてた新聞でも見たんだね」
「用心しろよ、霧《きり》の夜は」
と私は、アパートへの道を辿《たど》りながら言った。
「大丈夫よ。ああいう男は美女を狙うんでしょ?」
「今回は男もやられてるからね」
「ああ、そうか。——あんたの恋人の伯《お》父《じ》さんも殺されたんだもんね」
「用心に越《こ》したことはないよ」
「でも、いいんだ。殺されたって泣く奴もいないし。そういう人間って、割《わ》りと殺されないんじゃない?」
「さあ、どうかね」
何とも憎めない女である。「——君はいつもどこに泊《とま》るの?」
「その都《つ》度《ど》、適当によ」
とメグは言った。「ご心配なく。泊めてくれなんて言わないわ」
「言われても困《こま》るよ」
「誰かが帰りを待ってんでしょ」
「大人《おとな》をからかっちゃいけない」
「アパートまで一緒に行っていい?」
「上げるわけにはいかないよ」
「いいわよ、それでも」
「じゃ、勝手にしろ」
メグは口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》き始めた。——なかなかうまいもので、そのメロディは、私の知らないものだったが、それでいてどこかで聞いたことのあるような、懐《なつ》かしさを覚えさせた。
「——アパートだ。じゃ、達者でな」
「うん」
メグはあっさりと言った。「時には顔出してもいい?」
「いきなりはやめてくれ。——なあ、どこかで真《ま》面《じ》目《め》に働けよ」
「そうね。考えてみる」
私は、そのとき、アパートの窓へ目をやって、
「変だな」
と呟《つぶや》いた。
「どうしたの?」
「明りが点《つ》いてる」
私はアパートへと足を進めた。メグがついて来る。
「ねえ、危《あぶな》いんじゃないの? 昨日の連中が待ち伏《ぶ》せてたら——」
「来るな。危いかもしれない」
ドアの前に来て、私はそっと中の様《よう》子《す》をうかがった。
何の物音もしない。ただ、明りが点いているのだ。——私は、思い切ってノブを回し、ドアを開けた。
「お帰りなさい。遅《おそ》かったのね」
大場妙子が微《ほほ》笑《え》んでいた。
「びっくりさせるなよ……」
「ごめんなさい。ちょっと管理人のおじさんに頼《たの》んだら、快《ヽ》く《ヽ》開けてくれたの」
頼《たよ》りにならない管理人だ。——メグがヒョイと顔を出した。
「昨日はどうも」
「あら、あなた……。平田さん、ずっと一緒だったの?」
「誤解しないでね」
とメグは言った。「私、一文《もん》無しだから、ご飯ごちそうしてくれたんだ。じゃ、バイバイ」
メグが足早に行ってしまうと、私はドアを閉《し》めた。
「——あの店はどうなったんだい?」
「午後に踏《ふ》み込んだけど、もう誰もいなくって、何か月も空《あき》家《や》だったみたいだって言ってたわ。当り前ね」
「残念だな。なぜ君をかっさらったのか、訊き出せたのに」
「きっと一連の事件に関係があるのよ」
「というと?」
「切り裂きジャックよ」
私は何とも言わずに、ネクタイを外し、上《うわ》衣《ぎ》を脱《ぬ》いだ。そして、どっかとあぐらをかくと、言った。
「警察がそう考えてるの?」
「私よ。だって、あのホテルのあの部屋で、いきなり襲《おそ》われるなんて、どう考えたっておかしいじゃない」
「しかし、切り裂きジャックに、仲《なか》間《ま》はいない。一人だよ」
「本《ヽ》物《ヽ》は《ヽ》ね《ヽ》」
「というと?」
「ねえ、今度の〈切り裂きジャック〉の騒《さわ》ぎは、何かのカムフラージュだと思わない?」
「カムフラージュ?」
「そう。本当は、伯父の桜田、山口課長、どっちも、何か、理由があって殺されたんじゃないかしら。それを隠すために、あの伝説を利用したとは考えられない?」
「なるほど……」
「大体、ジャックにしてはおかしな人選じゃない? 変質者が狙うっていうタイプじゃないと思うの、二人とも」
「つまり、何か世俗的な——現実的な理由がある、というんだね?」
「そう。私はそうにらんでるの」
なるほど、そうは考えてみたこともなかった。私自身は、あの女の声も聞いているから、それ以外の可能性など、考えなかったのだが、もし、妙子の言う通りなら、あの女の声も、私を引っかけるエサなのかもしれない。
だが、何のために、私《ヽ》を《ヽ》騙《だま》そうとするのか? 私を騙して、何か意味があるとでもいうのだろうか。
「君は、その考えを警察に話したの?」
と私は訊いた。
「いいえ。あなただけよ。——だって、名探《たん》偵《てい》は、最後の最後にならないと謎《なぞ》を解明しないものだわ」
私は苦笑した。
「まだこ《ヽ》り《ヽ》ないのかい? あんな目にあっていながら……」
「それぐらいのことで引き退《さ》がってたら、女じゃないわ」
妙子はそう言って笑うと、「——でも、あなたにお礼をゆっくり言うぐらいの礼《れい》儀《ぎ》はわきまえてるのよ」
と進み出て来る。
「ねえ、今はそれどころじゃ——」
と言いかけた言葉を、彼女の唇《くちびる》が封《ふう》じた。
私たちは一緒に畳《たたみ》の上に倒《たお》れた。私とて、女を抱《だ》きたくないというわけではないのだ……。
だが、そのとき、
「キャーッ!」
という女の叫《さけ》び声が、私たちを引き裂いたのだった。
「——何かしら?」
「表だ。行ってみよう」
私は、部屋を出た。
外の、街《がい》灯《とう》のあたりに、数人の人が集まっている。同じアパートの住人の顔もあった。
「——何事です?」
と走って行くと、顔見知りの男が、
「あ、平田さん。女がね、刺《さ》されてるんですよ」
と言った。
「刺されて?」
私は、一《いつ》瞬《しゆん》ヒヤリとした。——そして、そこに、血に染《そ》まって倒れているめぐみ——メグの姿を見たときは、唖《あ》然《ぜん》として、しばらく動くこともできなかった……。
夜の病院は、ひどく寒々としている。
「気の毒にね」
と、妙子は言った。「助かるかしら?」
「さあ……。出血がひどいと言ってたからな……」
私は、極力、平静を装《よそお》っていた。
あの女だ!——あの女が、メグを刺したのだ。
しかし、一体なぜだ? メグのような娘を殺して、何の意味があるのだ?
「君は帰ったら? またお宅《たく》で心配するよ」
と私は言った。
「でも——」
と言いかけて、私の顔を見ると、妙子は、「そうね、そうするわ」
と言った。
一人にしてくれたことが、ありがたかった。別に、メグが刺されたのが自分のせいだと限らないことは承知しているのだが、それでも、責任を感じる。
あの、憎めない、屈《くつ》託《たく》のない笑《え》顔《がお》が、目の前をチラついた。
それに——そうだ。すぐに帰らず、メグはアパートの近くで、ぶらついていたのだろう。もしかすると、また夜明かししようと思っていたのかもしれない。
私は、苛《いら》々《いら》と、人の気配の絶えた廊《ろう》下《か》を歩き回った。
「——平田さん」
と声がした。
川上刑《けい》事《じ》だった。
「川上さん。どうしてここに?」
「ナイフを使った事件となると、全部報告が入るんですよ。知っている女性ですか?」
「というか……」
私は、メグを拾ったようなことになったいきさつを説明した。
「なるほど。すると大場妙子さんが監《かん》禁《きん》されていた店にいたんですね? すると、やはりつながっているのかもしれないな」
「不良っぽい娘ですが、まだ立ち直れそうでしたよ。——刺した奴は人間じゃない!」
「やはりジャックですかね」
「分りませんね……。そうであろうとなかろうと、許せませんよ」
私は、つい声が震《ふる》えるのを、何とか抑《おさ》えていた。——別に、メグには恋《れん》愛《あい》めいた気持などなかったのだが、それだけに、彼女が哀《あわ》れだった。
せめて命を取り止めてくれれば……。
「医者が出て来ましたよ」
と、川上が言った。
川上が、自分の立場を説明して、
「どうですか、様子は?」
と訊いた。
「何とか持ちそうです。体力があるんですね、若いせいでしょう」
私はホッと息をついた。
「しかし、油断はできません」
と医師は続けた。「今夜がヤマということになりますね」
私は、閉じた病室のドアを、じっと見つめていた。
今夜はずっとついていてやろう。——私はそう心に決めていた。