目が覚めたときは、もう午後の三時だった。——妙子の姿はなく、私に毛布をかけて帰ったらしかった。
「やれやれ……」
起き上がって大欠伸《あくび》をした。
体はけだるい感じだったが、気持はすっきりして、ここへ戻《もど》って来たときの絶望感というか、沈み切った無気力は洗《あら》い流されていた。
妙子のおかげだ。彼女の体にのめり込み、我を忘れることで、救われたのだった。
しかし、彼女にしてみればどうだろうか?
ほんの遊びのつもりで付き合っていたとしたら、私があまりに真《しん》剣《けん》になるのを見て、恐《おそ》れをなしたのではないか。——だから、私が起き出さない内に姿を消したのだろう。
それも当然だ、と私は思った。ともかく、妙子には感謝しなくてはならない。
私は風《ふ》呂《ろ》場へ行って、熱いシャワーを浴《あ》びた。
霧のかかったような頭《ず》脳《のう》はすっきりして、疲れも取れたようだった。やっと、これからのことを考える余《よ》裕《ゆう》も出て来る。
改めて、メグを刺した犯人への怒りが湧き上がって来た。なぜ殺したのか。そして誰が……。
おそらくあの女だとは思ったが、一体なぜメグを殺したのだろう? 桜田や山口の場合、まだ殺される理由があった。
しかし、メグの場合は、私にくっついて来たという、ただそれだけのことではないか。とても殺人の動機になるとは思えない。
それならまだ妙子や小浜一美が狙《ねら》われたほうが分る気がする。
また、あの女から電話がかかって来るだろうか、と思った。いつも殺した後はここへ電話して来る。
シャワーを止めて、バスタオルを手に取ると、電話の鳴るのが聞こえて来た。——あの女か?
私はタオルを腰に巻《ま》きつけて、風呂場を出た。——部屋に、妙子が座って新聞を広げていた。
「あら、電話に出る?」
「君——いつの間に——」
私はあわてて訊《き》いた。何しろタオル一つの裸《はだか》である。
「買物に行ってたの。戻ったら、シャワーの音がしたから。——ねえ、電話に出たら?」
「う、うん……」
私はためらった。もし、あの女だったらどうしよう? 妙子の前で話はできない。
「私、出ようか?」
「いや、いいよ」
仕方なく受話器を上げた。「——もしもし?」
「あ、平田さんですか」
私はホッと息をついた。会社の女の子である。そうか。無断欠勤だったのだ。
「——いや、別に何でもない。——うん、そうなんだ、ちょっと疲れて寝すぎちまってね。電話しようと思ってて、ついうっかりしちゃったんだ。——ああ、明日は行くから」
受話器を置くと、妙子のほうを見て、
「そういえば君も休んでたんだね」
「私はちゃんと電話したわ。平田さんの世話をしているので、休みますって」
「まさか——」
「冗《じよう》談《だん》よ」
と妙子は笑った。「お腹《なか》、空《す》いたんじゃない? 折《おり》詰《づめ》のお弁当買って来たわ」
そう言えば、昨日以来、何も口にしていない。
「ありがたい。じゃ、いただくよ」
「お茶淹《い》れるわ。——大分元気が出たようね」
と妙子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「ああ、すっかり逞《たくま》しくなった感じだ」
私はぐっと胸をそらした。そのはずみに、腰に巻いていたタオルがハラリと落っこちてしまった。
妙子はしばし笑い転げていた。あわてて服を着ながら、私も笑い出していた。
こんなに幸福な気分になったのは初めての経験だった。
「——まだ足りない?」
妙子は、折詰の弁当をペロリと平らげた私を、呆《あき》れ顔で見て言った。
「これでやっと普《ふ》通《つう》の空《くう》腹《ふく》状態になったよ」
「驚いた! あなた、結構大食いなのね」
「運動したからだ」
「馬《ば》鹿《か》!」
と、妙子が照れたように笑う。「ね、どこかへ出かけない? 散歩して、少し遅く食事をしましょうよ」
「僕《ぼく》はいいけど……君は、いいの? そんなことしていて」
「子供じゃないのよ。親だってもう諦《あきら》めてるわ」
私は、妙子のいれてくれたお茶をゆっくりとすすった。
「——君のおかげで立ち直れたよ。本当に、ここへ帰って来たときは、参ってしまいそうだったんだ」
「嬉《うれ》しいわ、そう言ってくれて」
妙子は微笑んだ。
「もちろん、事件のことも忘れちゃいない。——必ず犯人に罪を償《つぐな》わせてやる」
「そりゃ。私も手伝うわ」
「そのためにも元気をつけなきゃ!」
私は立ち上がった。「さあ、出かけよう!」
夜九時過ぎの六本木。
大変な人出である。およそこんな場所には縁《えん》のなかった私は、すっかり圧《あつ》倒《とう》されてしまう。
妙子に連れて行かれたのは、裏《うら》手《て》の通りのビルの地下に入ったレストランで、入口は目につかないほど小さいのに、中は広く、しかもほぼ満席の盛《せい》況《きよう》であった。
幸い二人用のテーブルには空《あ》きがあって、私たちは席についた。
「ここは私に任せてね」
と、妙子が言った。「よく来るお店なんだから」
「いつもそんなわけにいかないよ」
と、メニューを見た私は目をパチクリさせて、「——じゃ、今夜は君に任せる」
と言い直した。
「気にしないで」
と妙子は笑って、「どうせ親からお小《こ》遣《づか》いもらってんだから」
「しかし……何日分かの食費がパーだよ」
「そんなこと考えてたらおいしくないわ」
「そりゃそうだけど、つい考えるよ」
しかし、ともかく、料理はおいしかった。
「——よかったわ」
妙子が、言った。「平田さん、すっかり男らしくなった」
「こりゃ手《て》厳《きび》しいな。それじゃ以前は——」
「ちょっと暗かったわよ、印象が」
そうかもしれない、と思った。
メグの死のショックから立ち直ったとき、私の中で何かが変ったようだった。体内を流れる血が、他人の血と入れかわったら、こんな気分かしらと思えるような、それは劇《げき》的《てき》と言いたい変化であった……。
「君のおかげだ」
と私は言った。
「違《ちが》うわ。あなたがもともと強かったのよ」
「キザなセリフだな」
「本当ね」
と、妙子は笑った。
私は、これほど、女性の目を真直ぐに見つめたことがなかった。いつもなら、伏《ふし》目《め》がちに、時々盗《ぬす》み見するぐらいが関の山なのだが今日は違っていた。
そう。——私は彼女に恋していた。
しかし、それは許されないことだ。私のようなしがないサラリーマン——しかも、〈切り裂きジャック〉という正体を持ちながら、女に恋をすることなど許されない。
「でも、誰があの女の子を殺したのかしらね?」
と、妙子が言った。
「分らないね。通りすがりの人間か——」
「でも、そんな人間がわざわざ病院までやって来る?」
「それもそうだね」
「やっぱり犯人は桜田や山口を殺したのと同一人物よ」
「うん……」
「憶《おぼ》えてる? 私が言ったこと」
「犯人は、何か現実的な目《ヽ》的《ヽ》があって、桜田や山口を殺してるってことだろう?」
「そう。そこへ、あの女の子がどう絡《から》んで来るのか……」
「しかし、桜田や山口があの女の子を知っているとは思えないよ」
「それはそうだけど、たとえば、あの子が、本当に自分で言った通りの人間かどうか、分らないでしょう?」
私はちょっと面食らって、
「つまり……」
「あの女の子が、わ《ヽ》ざ《ヽ》とあなたに近づいたのだとしたら?」
なるほど、それは考えなかった。確かに、妙子のほうが深く裏を読んでいる。私と来たら、切り裂きジャックなどと自称しながら、人の話を言われるままに信じているのだ。
全くおめでたい人間である。
「でも、あの娘《むすめ》が嘘《うそ》をついてたとは思えないな。人を騙《だま》すのなら、もう少し巧《うま》くやれそうなもんだ」
「私もね、あの女の子はとてもいい子だったと思うわ。人を騙すような人間は、もっと善良ぶると思うの。あんな風に自然には振《ふる》舞《ま》えないわ」
「同感だね」
「でも、嘘をつかなくても、あの女の子が言《ヽ》わ《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ことがあるかもしれないじゃない?」
私は肯《うなず》いた。
「ああいう娘に言うことを聞かせるのは簡単だろうからね。ちょっとお金をやればいい……」
「それであの子はあなたに近づいた。でも、あなたが本当にいい人だと分って、頼《たの》まれたことをやるのをいやがったんじゃないかしら?」
「なるほど。それで刺された」
「それなら、わざわざ危険を犯して病院に忍《しの》び込んだのも分るわ。あの女の子にしゃべられちゃ困るからよ」
妙子の言葉には説得力があった。
「するとやはり、君が監《かん》禁《きん》されていたあの店が鍵《かぎ》かもしれないな」
と私は言った。
コーヒーになったとき、妙子は言った。
「ねえ、平田さん」
「何だい?」
「こんなこと訊いて、怒《おこ》らないでほしいんだけど……」
と妙子はためらった。
「言ってごらんよ」
「あなたが私を助けに来てくれたでしょう。——あの店に私がいることが、どうして分ったの?」
「それは……」
その点については、もちろん川上刑事にも訊かれた。まさか〈謎《なぞ》の女〉の電話で、とも言えないので、妙子が姿を消した部屋であの店のマッチを拾い、ポケットへ入れて忘れていた、と答えたのである。
これは、我ながら頼《たよ》りない言い逃《のが》れだったが、川上はそれ以上、追及しては来なかったのだ。
「あなたの説明は聞いたけど、どうも本当とは思えないの。——ごめんなさい。私、助けてもらっておいて、こんなこと言っちゃいけないと思うんだけど」
「いや、そう思うのは当然だよ」
と私は言った。「実は——電話があったんだ」
「電話?」
「君があの店にいる、とね」
「誰から?」
「分らない」
と私は首を振った。「女の声だった。そして、この電話のことは誰にも言うなと言ったのさ」
「その女——殺された子じゃなかったの?」
「違《ちが》う。声がまるで違うよ。声《こわ》色《いろ》の名人でもありゃ別だけど」
「そう……。でも、それなら、あの女の子がわざとあなたへ近付いたという考えが正しいと言えそうね。私をさらって、わざとあなたを呼《よ》び出して——」
「でも、そんな面倒なことをするかな」
「分らないわ。何か理由があったんじゃないの?」
妙子の言う通りかもしれない。——一体、この事件の裏には何があるのだろう?
「もう一杯《ぱい》コーヒー飲む?」
と、妙子が訊いた。
「ああ、そうだね」
と、私は答えた。
「私と結《けつ》婚《こん》しない?」
「うん、いいね」
と答えて——私は、ニヤニヤ笑っている妙子の顔をポカンと眺《なが》めた。
「からかっちゃいけないよ!」
「あら、本気よ」
と、妙子は言った。
「もっと悪いよ」
「どうして?」
「僕は——僕は——」
「女なの?」
「まさか!」
「十八歳《さい》未満? 違うでしょ? じゃ、結婚できるじゃないの」
「いいかい、君とはあんまり——」
妙子はウェイターを呼んで、
「ねえ、私たち今日婚約したの」
と言った。
「おめでとうございます」
と、ウェイターが頭を下げる。
「何かケーキでも持って来てくれない?」
「かしこまりました」
ウェイターが行ってしまうと、私は息をついて、
「無茶だよ! 君は僕のことをろくに知らないのに……」
「だから知りたいの。だから結婚するの。分った?」
「しかし——」
「だから、もういいのよ」
確かに妙子の言葉には説得力があった。しかし、時にはそれで困《こま》ることもあるのである……。
「家へ帰らなくていいの?」
と、私は訊いた。
「いいのよ、そんなこと。電話しとくから」
妙子は平然と言って、タクシーを停《と》めた。
「どこへ行く? ホテル? それともあなたのアパート?」
「まあ……どっちでもいいけど……」
「じゃ、一流ホテルにしましょうか。明日出勤するのも楽だわ」
妙子は呑《のん》気《き》なことを言い出した。
逆らってもむだだというわけで、私は彼女の言うままに、都心の新しいホテルに泊《とま》ることにした。
妙子は部屋に入ると、自《じ》宅《たく》へ電話をかけて、
「——今夜は泊って行くから、心配しないで」
と言っていた。「——え?——一人じゃないから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」
一人じゃないほうがもっと心配ではないかと思ったが、親も親で、それで納《なつ》得《とく》したようだった。
「早く寝ましょうよ。明日は会社に行くんでしょ?」
「うん」
「じゃ、私、先にお風呂に入る」
「いいよ」
妙子は手早く服を脱《ぬ》いで、浴《よく》室《しつ》へ姿を消した。
私はベッドに座り込んだ。——大変なことになった。
どうやら、妙子は本気で私と結婚するつもりらしい。もちろん、私もそうできれば幸福に違いない。
しかし、私がいつも「平田正也」でいられればともかく、〈切り裂きジャック〉としてナイフを手にすることが、二度とないとは言えない。
現に、桜田も、松尾刑《けい》事《じ》も、今一歩で私は殺すところだったのだ。
殺さなかったのは、ただ偶《ぐう》然《ぜん》にすぎない。私は、精神的には殺人犯なのである。法で罰《ばつ》せられないにしても、それを否定することはできない。
——まあいいと、思った。どうせ、こんな安月給取り、彼女の親類縁者が猛《もう》反対するに決っている。
妙子とて、どこまで本気なのか……。明日になれば気が変るかもしれないのだ。
いずれにしろ、私はこの部屋から出ては行かなかった。——浴室からバスタオル一つで現れた妙子は、強力な磁《じ》石《しやく》のように、哀《あわ》れな鉄《てつ》片《ぺん》——つまり私を、吸《す》いつけて離《はな》さなかったのである。