「平田さん、もういいんですか?」
会社で女の子に声をかけられて、私は戸《と》惑《まど》った。
「何が?」
「あら、だって昨日、具合悪くてお休みしたじゃありませんか」
「あ、ああ、そうか。うん。いや——もう大丈夫なんだ」
私はあわてて言った。
そうだ。まだあれは昨日のことなのだ。妙子と素晴らしい夜を過したのは……。
「何だか怪《あや》しいわ、平田さん」
と、女の子は言った。
「怪しい?」
「本当は他の理由で休んだんでしょ」
「そんな——そんなことないよ」
「あ、そういえば、昨日は大場さんもお休みだった。怪しいな、本当に」
「僕が女にもてると思うかい?」
「でも、世の中、物《もの》好《ず》きな人もいますからね」
「ひどいこと言うなあ」
と私は笑《わら》った。
女の子は笑って行ってしまった。
奇《き》妙《みよう》なものだ。——今まで私は、会社の女の子たちと、そんな風に話をしたことがなかった。
気軽にしゃべろうと試みることはあっても却《かえ》ってぎこちなく、ギクシャクして、どうにもならなくなってしまうのが常だった。そして結末は自己嫌《けん》悪《お》に終るのである。
しかし今朝は違っていた。どこが違っているのか分らないが、どこか違うことだけは確かであった。
コピー室に行き、コピーを取っていると、妙子がやって来た。
「コピーならやりますけど」
「いや、たまにはこうして席を立ったほうがいいんだ。座《すわ》りっ放しじゃ、体が重くなるばかりだよ」
「そう。たまには、いつもと違うことをしてみるのもいいでしょ?」
と、妙子がいたずらっぽく笑う。
「たとえば?」
「結婚、とか」
「おい——」
私は、コピー室のドアのほうへ目をやって、「誰《だれ》が聞いてるか分らないんだよ」
「いいじゃない。却ってみんなに知れ渡《わた》っちゃえば、後へひけなくなるし」
「それで君はいいの?」
「昨日から何度も言ったわ。——私に何回結婚の申し込《こ》みをさせる気?」
とにらまれて、私は頭をかいた。
「いや、それは——」
「いいのよ。そこがあなたのいい所」
「そうかい?」
「いい所だと思ってる内に結婚しないと、機会を逃《にが》すわよ」
と、妙子は、ちょっとウィンクして出て行った。
私は、コピーの機械をじっと見ながら、妙子と結婚する可能性を、考えていた。
いや、結婚そのものは、彼女自身の決心が変らない限り実現しよう。しかし、結婚式は終っても、その先には何十年もの生活があるのだ。
その長い長い日々、私は「平田正也」でいられるだろうか?
ナイフを手に、女の白い肌《はだ》を切り裂《さ》きたいという欲望に逆らい切れるだろうか?
私には分らなかった……。
「——平田さん」
ドアが開いて、妙子が顔を出した。
「電話よ。川上さんから」
「すぐ行く」
私は、コピーの機械を一《いつ》旦《たん》止めて、机《つくえ》に戻《もど》った。
「——どうですか?」
と受話器を取るなり、私は言った。「何か分りましたか」
「どうも……。まだはっきりした手がかりはないんですよ」
川上刑事の声は、眠《ねむ》そうだった。疲《つか》れているのだろう。
「何かお役に立てることがあれば——」
と私は言った。
「恐《おそ》れ入ります、お元気そうですね、ちょっと心配していたんですよ」
「それはどうも」
「ともかく一度ご連《れん》絡《らく》を、と思いましてね。お仕事の邪《じや》魔《ま》をして申し訳ありませんでした」
「いや、構いませんよ」
「では、何か分ったら連絡します」
と川上は言って、電話を切った。
「——まだ、何も?」
そばにいた妙子が、低い声で言った。
「まだね。——難しいだろうな」
私は首を振った。
そういえば、昨夜はアパートへ戻らなかったが、あの謎《なぞ》の女から、電話がかかったのだろうか?
あの女から今度かかって来たら、できるだけあれこれ話をしてやろうと私は思った。あの女の正体を知るきっかけを、何とかつかみたい。
「はい、平田さん」
妙子が、取り終えたコピーを、私の前に置いた。
——昼休みまで、アッという間だった。
「女の子たち同士で食事して来るわ」
と妙子が言った。
「それがいいよ」
「噂《うわさ》になるのが怖《こわ》いんでしょ。怖がり屋さん!」
妙子はそうからかって、財《さい》布《ふ》を手に、事務所を出て行った。
私のほうはどうせ一人だ。さて、行くか、とのんびり立ち上がると、電話が鳴った。やれやれ……。
十二時にかけて来るとは、全く気のきかない奴《やつ》だ。
「はい」
「外線からです」
つながると、女性の声がした。
「あの……平田さんは……」
「私が平田ですが」
「あ——」
「もしもし。どなたですか?」
向うは、しばし黙《だま》っていた。妙な電話だ、と思った。
「もしもし?」
「——あの、私、実は看《かん》護《ご》婦《ふ》なんです」
「はあ」
「一昨日の夜、女の子が殺されたとき、私当直で——」
「あなたが? じゃ、何かご覧《らん》になったんですか?」
「はあ……。その……見たというか、何というか……」
どうにもはっきりしないのである。
「何か小さなことでも、警《けい》察《さつ》へ、お話しになったほうがいいですよ」
と私は言った。
「その前に、あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》に《ヽ》お話ししたいんですけど」
「なぜです?」
「それは——会ってお話ししたいんです」
私はためらった。どうもおかしな電話である。
「ええと——お名前は?」
「玉《たま》川《がわ》正《まさ》代《よ》と申します」
すぐに名乗った。看護婦というのは、嘘《うそ》でもないらしい。
「分りました」
と私は言った。「いつ、お目にかかれますか?」
「今夜はいかがでしょう?」
「結構ですよ」
私は、会社の近くの、目につく喫《きつ》茶《さ》店の名を挙げた。幸い、向うも知っているとのことで、会社の帰りに会うことにした。
看護婦が、私《ヽ》に《ヽ》何の用があるというのだろう?
外へ出て、一人で食事を済ませ、コーヒーを飲んでいると、TVでは、メグの殺された事件のことを報道していた。
しかし、中身は要するに、何の手がかりもないということだけだった。
私は、ゆっくりと窓《まど》の外を眺《なが》めた。——ずいぶんと大勢の人間が死んだ。
桜田、山口、松尾、そしてメグ。ホテルのフロントの男、警官……。
いつになったら終るのだろう?
「そうだ」
そして、小浜一美。彼女は、生きているのだろうか?
——昼食を終えて戻ると、一時のチャイムが鳴る。
「平田さん」
と、受付の子がやって来た。
「何だい?」
「笹山課長が、会議室へ来てくれって」
「課長が?」
何だかいやな気分だった。大体、笹山という男、およそ課長の器《うつわ》ではない。
「——平田君。座ってくれ」
会議室へ入って行くと、笹山が、こわばったような笑《え》顔《がお》で待っていた。
「ご用でしょうか」
と私は言った。
「うん。——色々大変だね」
と、笹山は言った。
「といいますと?」
「つまり——えらい事件に巻《ま》き込まれて、ということさ」
「仕方ありません。好きでこうなったわけじゃないのですが」
「そりゃ分ってるよ」
と笹山は肯《うなず》いた。「実は——」
「何でしょう?」
「さっき社長に呼《よ》ばれてね」
と、笹山は苦い顔になった。「どうも——その——君が事件のことで、新聞や何かに出るのが、気になるとおっしゃってるんだ」
「出るといっても——」
「うん。もちろん犯人として出るわけじゃないし、問題はないはずなんだ」
「それなら何ですか」
私はイライラして来て、「はっきりおっしゃって下さい!」
と言った。
「社長はね、君個人がどうこうとおっしゃってるわけじゃない。ただ、その度に、わが社の名前が出るのがお気に召《め》さないっていうんだ」
「警察に協力するなとおっしゃるんですか?」
「いいや、とんでもない! それは市民の義務だからな」
笹山は咳《せき》払《ばら》いして、「ただ、その際、わが社の名が出ては、イメージダウンになるおそれがある。そこで、一時的に、君に退職してほしいとおっしゃってるんだ」
私はちょっと言葉がなかった。
「——つまり、クビ、ということなんですか?」
「いや、もちろん自主退職の形にして、退職金も払うよ」
「今、『一時的』とおっしゃいましたね。つまり、この事件が片付いたら、またここへ戻れるということですか?」
「そこはだね、つまり充《じゆう》分《ぶん》に考《こう》慮《りよ》しようということなんだ」
「どういう意味です?」
「だから、そのときには、前向きの姿《し》勢《せい》で検討して——」
これでは国会答弁だ。
「はっきり言って下さい。もう一度、ここへ入れると約《やく》束《そく》していただけるんですか?」
笹山は、渋《しぶ》い顔になった。責任を取ることが嫌《きら》いで、何でもはっきり言おうとしないのである。
「それは……」
と言い渋っている。
「どうです?」
と私は一押《お》しした。
「約束は……できない」
と、笹山は言った。
「分りました」
要するに、クビになる前にやめろということである。
「承知するかね?」
私は立ち上がって、
「すぐにはご返事できません。二、三日待って下さい」
「ああ……。それぐらいはもちろん……」
まだ口の中でモゴモゴ言っている笹山を残して、私は会議室を出た。
「クビ?」
「事実上の解《かい》雇《こ》さ」
——会社の帰り、玉川正代という看護婦と待ち合わせた喫茶店に、私は、妙子と入っていた。
「ひどいじゃない、そんな!」
と、妙子は腹《はら》を立てている。
「しかし、どうしようもないよ。組合だって頼りにならないしな」
「おとなしくやめるの?」
「他にどうしようがある?」
妙子はちょっと考えて、
「そうね」
と肩《かた》をすくめた。「いいじゃないの。やめたら?」
「どこか就職先を捜《さが》さなきゃ」
「私が養ってあげる」
「よせよ」
と私は苦《く》笑《しよう》した。
「心配ないわ。父がいくらでも紹《しよう》介《かい》してくれるわよ。娘の亭《てい》主《しゆ》が失業じゃ困《こま》るでしょうからね」
妙子はすっかり結婚するつもりである。「——その玉川って人、遅《おそ》いわね」
「そうだな。十五分ぐらいすぎた。しかし、待ってる他ないだろ」
「何の話かしら?」
「いや、それより、なぜ僕《ヽ》に《ヽ》話すのかってことさ、分らないのは」
と私は言った。
ガラス戸が開いて、三十代の半ばと見える女性が入って来た。落ち着かない様《よう》子《す》で中を見回す。
「あの人?」
「らしいね」
私は立って行って、「玉川さんですか」
と声をかけた。
「はあ……」
「平田です。どうぞ」
玉川正代は、ためらいがちな様子で、席についた。私は妙子を紹介して、何を話しても心配ないと言った。
「——お話というのは?」
「ええ……。実は、あのとき、私は当直で、一階におりました」
と玉川正代は言った。
そして——玉川正代は、目を何気なし店の中にさまよわせたのだが、突《とつ》然《ぜん》言葉を切って立ち上がった。
椅《い》子《す》が後ろへ倒《たお》れるのも気付かない様子だった。
「どうしました?」
と私が訊《き》いたが、玉川正代は答えない。
そしていきなり店を飛び出して行ってしまったのである。
「待って下さい!」
私は後を追った。「——君、お金を——」
「分ってるわ。行って!」
店を出て見回すと、玉川正代が道の反対側へと上がったところだった。
「玉川さん!」
私は声をかけた。
彼女がタクシーを停《と》めるのが見えた。急いで道を渡ろうとしたが、車がビュンビュンと駆《か》け抜けるので、とても危《あぶな》くて横切れないのだ。
その間に、玉川正代はタクシーに乗り込み、行ってしまった。
「——どうしたの?」
妙子が出て来る。
「タクシーで行っちまった」
「まあ……」
「一体どうしたんだろう?」
「ねえ」
と妙子は言った。「今から病院へ行ってみましょう」