どこの電話ボックスだろう?
私は駅へと急ぎながら、考えていた。
小浜一美は、私のアパートを知っているのだから、当然、駅からアパートへと向う途中のボックスだろうと考えていたのだが、彼女が果してどこからどうやって駅の近くまで着いたのか、それが分らないのだ。
あの弱々しい声から察すると、傷《きず》を負ったか、それとも誰《だれ》かに監《かん》禁《きん》されていて、体が弱っているのかもしれない。そうなると、電車で逃《に》げて来たとは限らない。
しかし、差し当りは、駅とアパートの間を捜《さが》すのが一番だろう、と思えた。
途中、電話ボックスは一つしかなかった。それも駅よりはアパートのほうにかなり近かった。
中には、もちろん小浜一美の姿はなく、ここにいたという痕《こん》跡《せき》もない。
駅前に出ると、バス乗場の近くに、電話ボックスが三つ並《なら》んでいる。——このどれかからかけたのだろうか?
しかし、今はどのボックスも、帰《き》宅《たく》途中のサラリーマンが使っている。
私は周囲を見回した。ゆっくりと、駅前のロータリーを歩き回った。
だが、どこにも、小浜一美らしい姿は見えない。
もう時間的には大分遅《おそ》くなっていて、駅前の商店街《がい》はもちろん、喫《きつ》茶《さ》店などもほとんど店じまいしている。開いているのは、わずかに深夜営業のスーパーと、わき道へ入ったところのバーぐらいのものだった。
そういうわき道の一本一本へ入り、調べたが、どこにも小浜一美の姿は見えない。
念のために、と、バーの中も覗《のぞ》いて回ったが、むだだった。
となると——駅の反対側にいるのか?
もう、アパートを出て三十分たっていた。玉川正代がやって来ているかもしれない。しかし、ここで小浜一美を捨《す》てて帰るわけにもいかなかった。
私は、駅の反対側に出てみた。
バス乗場のある側が、開けて、明るいのと対照的に、反対側の駅前は、薄暗くて、ほとんど店らしい店もない。
どうしてこうも鮮《あざ》やかに分れてしまったのか、私には分らないが、何しろこちら側は、昼間から女性が襲《おそ》われることもあるというくらいの、寂《さび》しさなのである。
もちろん、この時間、何となくさびれた家《や》並《な》みは、ひっそりと静まり返って、人通りもなかった。
「こんな所に電話ボックスなんて——」
あるはずがない、と見回そうとして、ポツンと、まるで一本のロウソクのように明るい、電話ボックスに気が付いた。
ちょっとの間、私は、それが幻《まぼろし》ではないかという気がして、瞬《またた》きをくり返した。しかし、もちろん、それは消えてなくなりはしなかった。
真直ぐにのびた道の半ばに、ポツンと立っている、その電話ボックスへと私は足を早めた。——なぜか分らないが、それが、小浜一美のいたボックスに違いない、という気がしたのである。
中に人の姿はなかった。扉《とびら》を開けて、私はギョッとした。——床《ゆか》に、赤い液体が広がっている。
血だろう。そう思って気を付けて見ると、受話器に、赤い筋《すじ》が見えた。
血のついた手で握ったのだろうか。
ここに小浜一美がいたことは間違いない。しかし、どこへ行ったのか?
けがをしているとすれば、遠くへは行くまいが。それとも——誰かに連れ去られたのか?
だが、けがをしているかという私の問いに、彼女は「いいえ」と答えている。
すると、この血は?
あの電話の後《ヽ》で、彼女は刺《さ》されたのかもしれない。——私は不安がこみ上げて来るのを感じた。
このぐらいの血なら、重《じゆう》傷《しよう》ではないかもしれないが、ともかく、負傷したことは確かである。——自分からどこかへ隠《かく》れたのか。それとも……。
私はボックスの中へ入り込《こ》んでいた。足下の血《ち》溜《だま》りに足を触《ふ》れないように、下ばかり見ていたのだ。
車のライトに気が付いたのは、そのときだった。ふと顔を上げると、ガラス窓《まど》越《ご》しに、真直ぐに近付いて来るライトが目に入った。
まぶしさに目を細める。——おかしい、と思った。
ライトはぐんぐん大きくなって、それて行かないのだ!
とっさに行動するというのは、よほど訓練された人間でもなければできるものではない。車が近付くのが、割合とゆっくりだったことが私を救ったのだった。
私はボックスから飛び出して、迫《せま》って来る車と逆の方向へ走り出した。
何歩走ったろうか。——ともかく、ほんの五、六歩だったことは確かだ。
ガーンと、凄《すご》い衝《しよう》突《とつ》音がして、振り向くと、大型トラックが電話ボックスを押し倒し、その上に乗り上げた。ガラスが砕《くだ》ける音、電話線の切れる音。
そして火花があちこちで飛んだ。
我に返ったときは、トラックのエンジンの音だけが、ブルブルと続いて聞こえていた。電話ボックスは、乗り上げたトラックの重味で、ひしゃげている。
あの中にいたら、今ごろは、全身、ずたずたにされていただろう。——私の足は震《ふる》えていた。
トラックの運転席に人の姿はなかった。もちろん、ぶつかる前に飛び降りていたのだろう。
私は、目の前の出来事が、まだ信じられなくて、しばし呆《ぼう》然《ぜん》としてその場に突《つ》っ立っていたが、ふと気付くと、近くの家々の窓に明りが点《つ》いていた。
姿を消したほうがいい。
私は、足を踏《ふ》みしめるようにして、その場を離《はな》れた。
——アパートへ帰り着くと、どっと疲《つか》れが出た。
玄関を上がって、しばらくその場に座り込んでいた。——そして、玉川正代のことを思い出した。
ここへ来たのだろうか? 見回したが、その様子はなかった。
もっとも、上がって、しばらく待って帰っただけなら、何も残らなくて当然だ。
時計を見ると、一時間余り出ていたことになる。つまり、三十分以上、ここで待っていた可能性があるということだ。
しかし、おそらく電車で来たのだろうから、駅のほうから戻って来た私と出会わなかったということは、かなり前に帰ってしまったことになるのだ。
つまり、ほとんど待っていなかったか、あるいはここへ来なかったかである。
私は肩をすくめ、服を脱いだ。——あのトラックは、明らかに私を狙《ねら》ったものだ。
しかし、誰が私を殺そうとするのだろうか。誰が?——何のために?
電話が鳴って、ギクリとした。
直感的に分った。あ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》だ。
「もしもし」
「ご無事で良かったわね」
女の声は、相変らず皮肉で、笑みを含《ふく》んでいた。
「君か、僕《ぼく》を狙ったのは」
女は、フフ、と笑って答えなかった。
「——どういうつもりだ?」
「あなただって分ってるでしょう」
「何のことだ」
「〈切り裂《さ》きジャック〉は二《ヽ》人《ヽ》は存在できないのよ」
「ごまかすな!」
と私は怒《いか》りをこめて言った。「何者なんだ君は? 何の目的でこんなことをするんだ!」
しばらく返事はなかった。そして、女の声から、初めて、笑いが消えた。
「そろそろけ《ヽ》り《ヽ》をつけるときが来たようね」
「とっくに来てるさ」
と私は言った。
「あなた、まだナイフは持ってるの?」
「もちろん」
「じゃあ、私と勝負をしましょう」
「勝負?」
「決《けつ》闘《とう》ね。どっちが生き残るか」
私は答えなかった。
「——どうしたの? 怖《こわ》いから、やめておく?」
「そんなことはない」
メグが殺された。その怒りは、まだ私の中で燃え上がっている……。
「良かった。じゃあ異存はないわけね」
「もちろんだ。だが、こっちは君の正体を知らないんだぞ」
「その内分るわ」
「いつ、どこで?」
「あわてないの」
女は再び楽しげな口調になっていた。「改めて連《れん》絡《らく》するわ」
「おい待て! 小浜君は無事なのか?」
「——生きてる、と答えておくわ」
「どうやって連絡して来るつもりだ?」
「会社のほうへ連絡するわ」
と女は言った。
「会社へ?」
「そう。いつ、かは分らないけどね。じゃ、そのときにまた……」
「おい待て!」
「心配しないで。す《ヽ》ぐ《ヽ》に連絡するわ。そして、この次に死ぬのは、あなたよ」
電話は切れた。私はしばらく、受話器を手に、じっとその場に座《すわ》り込《こ》んでいた。
「——何してるの?」
突然声をかけられて、飛び上がりそうになった。
玄関に妙子が立っている。
「電話とお見合い中なの?」
と妙子は言った。