「あら、おばさんが……」
という、若い女子職員の一言が、入江の足を止めさせたのだった。
「おばさん?」
と、入江は訊いた。「誰のことだね?」
「ええ、あの……。いつもお昼から手伝いに来てくれるおばさんなんです」
と、郵便局の野暮ったい制服を着た、その女の子は、キョトンとした顔で、「いつも時間通りに来てくれるんだけど」
もう午後の二時を回っている。
「電話してみたらどうかね」
と、入江はごく当り前のことを言った。
「あ、そうですね。そうします」
と、女の子は、机の電話を手に取った。
入江は、大内がやって来るのを見て、
「どうだい?」
と、声をかけた。
「裏の方が少しぬかるんでるんです」
「そいつは結構じゃないか」
「ところが——」
と、大内は顔をしかめて、「ここの警官が歩き回ったもんですから、足跡がめちゃくちゃで、参りますよ」
「そうカッカするな」
と、入江は笑った。「ま、ともかく見に行くか」
二人は、一体何十年前に建ったのかと思うような郵便局の古い建物を出ると、裏の方へ回って行った。
事件としては単純そのものだった。
夜の間に郵便局の裏口をこじ開けて、誰かが忍び込み、現金書留など、二十万ほどを盗んで行ったのである。
大した事件ではないが、この小さな町では大事件らしい。——確かに、町中の人間がみんな知り合いで、その暮し向きも知っているわけなのだから、犯人の見当も、容易につきそうなものだった。
「——手がかりより、聞き込みだけで犯人は挙げられそうですね」
と、大内が言った。
「うむ。こういう所じゃな。しかし、まあ一応、基本通りにやってみるさ」
入江は、それでもずいぶん心が弾んでいるのを感じて、我ながら苦笑しているのだった。
何といっても、事件にぶつかっている方が俺《おれ》は元気なのだ。
「——ちょっと失礼」
と、入江は警官たちの間を割って、ぬかるみの方へと歩いて行った。
「——この足跡が怪しいですね」
と、大内が言って、足跡の一つを、指さした。
「小さいな」
「ええ。靴の裏の模様も、警官のものとは違っています」
「しかし、こう端しか残ってないんじゃな」
と、入江は首を振った。
「どうも……あの……申し訳ありません」
と、そばに立った、若い巡査が言った。
「君は、吹田君だったね」
「は、はい!」
名前を言われて、その若い巡査はびっくりしたようだった。
入江も、いくらやる気がないとはいえ、しゃべる以上は、警官の一人一人の名前ぐらいは憶《おぼ》えておこうと思って、頭に入れておいたのである。
入江らしい生真面目さでもあり、また、仕事柄、人の名を憶えるのは得意だったのだ。
「私が、何も気付かず、この辺を歩き回ってしまいまして……」
「そうか。まあ、あんまり感心したことではないね」
と、入江は言った。「しかし——」
「どうかしましたか」
「いや……。犯人は、あの裏口をこじ開けて侵入した。中で金を盗んだ。——まあ、それは分る。しかし、出て来て今度は……。どこへ行ったんだ?」
「足跡は、木立ちの方へ向ってます」
「しかし、裏口から、真直ぐ木立ちの方へ向うのなら、このぬかるみは通らない。犯人はわざわざここを通って、斜めに、木立ちの方へ向っている」
「そう言われてみれば、そうですね」
と、大内は肯《うなず》いた。「何か理由がある、と?」
「偶然ってことも、ないじゃない。しかしな、普通、泥棒をした奴《やつ》は、早く人目につかない所へ逃げたがるもんだ」
「それなら真直ぐに進む、というわけですか」
「うん……。もしかすると、この足跡は、何の意味もないものなのかもしれんな」
「まさか。——目をくらますために?」
「あなどっちゃいかん。こういう平和な町だって、知能犯はいるんだ」
「林の中を捜索しています」
と、吹田という巡査が言った。
「どの辺を?」
「この足跡の向っている辺りです」
郵便局の裏手が、もう、すぐに林なのだ。大分都会とは違っている。
「おい、吹田君」
「はあ」
「二、三人連れて、あっちの方を調べてみるんだ」
入江が指さしたのは、足跡の向ったのとは正反対の方角だった。
「分りました!」
吹田は、張り切って、駆けて行った。
「——なかなか真面目そうで、いいですね」
と、大内が吹田を見送って、言った。
「うん。俺の話を、一番熱心に聞いていたのが、あの男だった」
と、入江は言った。「お前も昔はああだったがな」
「警部。皮肉ですか」
と、大内は言って笑った。
「まあ、ともかく任せておこう。土掘りまでやる気もせん」
と、入江は大内に言って、「お前、見ててくれるか」
「任せて下さい。警部、中でお茶でも飲んでて下さいよ」
「年寄り扱いするなよ」
と、入江は言ってやった。
ところが、入江が表に回って、郵便局の中へ入ると、さっきの若い女の子が、
「あ、お茶いれましたので、どうぞ」
と、言ってくれて、入江は思わず吹き出してしまった。
「——どうかしましたか?」
「いや、何でもない。ありがとう」
入江はガタガタ言っている椅《い》子《す》に腰をおろすと、「さっきの『おばさん』はどうしたね?」
と、訊《き》いた。
「それが、電話しても出ないんですよ」
と、女の子は首をかしげている。「一人住いだから、気になって……」
「心配だね。見て来ちゃどうだい?」
「でも……。警察の人がみえてるのに……」
「大丈夫さ。家は近いんだろ?」
「十分もありゃ、戻って来られます」
「じゃ、行って来たまえ。私はここにいるから」
「そうですか? じゃ——すぐに戻って来ます」
女の子は嬉しそうに言って、制服姿にサンダルばきのまま、駆け出して行った。
入江は、ゆっくりとお茶を飲んだ。
別に、あの女の子に親切にしたかったというわけではない。入江自身、「いつもと違う」ということに、敏感だったせいでもあるのだ。
人間は、よほどのことがない限り、いつもの習慣を狂わすものではない。それは、入江が長い刑事生活で得た「真理」の一つだった……。
もちろん、ここに手伝いに来ている「おばさん」が、たまたま今日休んでいることと、ゆうべの泥棒とが、何の関係もないだろうということは分っている。
「——警部」
と、大内が、入って来た。
声の調子で、おや、と思った。大内の奴、興奮してる。
「見て下さい」
土まみれになった布の袋。その口を開くと、中には、現金書留の封筒が沢山入っていた。
「どこにあった?」
「警部の言った方へ、五、六メートル林を入った所です。埋めてありました」
「感激です!」
と、吹田巡査が顔を紅潮させている。
「良かったな」
と、入江は言った。「手を洗って来いよ」
「はあ」
泥だらけの手に気付いて、吹田はあわててトイレに走って行った。
「——封も切ってません」
と、大内が言った。「どう思います?」
「うむ」
入江は考え込んだ。「——妙だな」
「隠しておいて、後で取りに来るつもりだったんですかね」
「何キロもある金塊を持って歩くわけじゃないぞ。それに大した量じゃない。ポケットへねじ込んだって、何とか隠せるくらいの量だ」
「すると、どういうことでしょう?」
「——分らんな」
入江は首を振った。
こんな小っぽけな町のこそ泥がなぜこんなことをしたのか……。
「ともかく、女の子が戻ったら、ここに、盗まれた現金書留が全部揃《そろ》っているかどうか、当らせよう」
「どこへ行ったんです?」
「おばさんの様子を見に行ったのさ」
「はあ?」
大内が目をパチクリさせた。
吹田が戻って来ると、まだ興奮さめやらぬという面持ちで、
「いや、さすがは警部殿で。ピタリと言い当てられたのには——」
「よせよ」
と、入江は笑って、「偶然さ。しかし、金も抜かれていないようだし、良かったじゃないか」
「全くです! 犯人の指紋を——」
「この状態じゃ、無理だろう。それより、何か君に心当りはないかね」
「とおっしゃいますと……」
「この小さな町に、一度にこんなに現金書留が届くってのは、よくあることなのか?」
吹田は、首をかしげて、
「さあ……。自分はよく分りません」
「そうか」
入江は、その封筒の一通ずつを見て行ったが、「——大内」
「はい」
「差出人の住所と名前を控えとけ」
「分りました、全部ですか?」
「どれも同じだ」
大内は封筒をいくつか見て、
「本当だ。——誰でしょうね」
と、手早く手帳にメモした。「東京ですよ。名前は……〈永井かね子〉か」
「個人名で、それも同じ日にこの町の住人、二十人近くに現金を送る、どういうわけかな?」
「調べますか」
「まあ待て。もう少し様子を見よう」
と、入江は言った。
入江の目は輝いていた。——わけの分らないことの裏には、きっと、隠された事情というものがある。
これは意外に面白い事件になるかもしれない、と入江は思った。
「——やあ、どうだった?」
入口から、あの女の子が入って来るのを見て、入江は声をかけたが……。入江は立ち上った。
「おい、どうした?」
ただごとではなかった。——女の子は呆《ぼう》然《ぜん》として、何も耳に入っていない様子だったのだ。
「何かあったのか?」
と、入江が大声で言うと、女の子はハッと我に返った様子で、
「あの——おばさんが——首を吊《つ》って……」
「何だと?」
入江は目を見開いた。「吹田君」
「はい!」
「ここの手伝いに来てた女の家、分るね」
「ええ。あの人が首を?」
「一緒に見に行ってくれないか、俺と」
「はい。もちろん」
「警部——」
「大内、お前はその子に、書留で、なくなっているのはないか、すぐに当らせてくれ。いいか、すぐにだ」
「分りました。——君、しっかりしてくれ」
大内に揺さぶられて、女の子は、
「はい——はい、大丈夫です」
と、肯《うなず》いた。
「よし、盗まれた現金書留が見付かったんだ」
「あら……」
「全部、揃っているかどうか、記録と当ってくれ。今すぐ、分るね?」
「はい」
女の子は、机に向って、引出しをあけた。
こんな風にショックを受けている時には、心配してやるよりも、何かやらせておいた方が、早く立ち直るのである。
入江はその辺のことを、よく呑《の》み込んでいるのだった。
「——どうだい?」
と、大内は言った。
「ええ……。大体ありますけど」
「じゃ、ないのもある?」
「一通だけ。——ええ、そうです、一つだけなくなってます」
「ふーん。誰あての一通?」
「ええと……笠矢さんあてだわ」
笠矢?
大内は、ちょっと眉《まゆ》を寄せた。——あの、駅のホームに立っていた、「父親を捜している」という女の子の名ではないか!
「差出人は、同じ人かい?」
と、大内は言った。
「ええ。同じです。他のと」
「この人——永井かね子って人から、いつもこんなに現金書留が来るの?」
「さあ……」
女の子は首をかしげて、「私、まだ現金書留とか、扱い始めたばっかりだから……。よく分らないんです」
「そうか」
と、大内は肯いた。
すると、そこへ、署長の水島が、部下を連れて入って来た。
「やあ、大内さん」
「どうも。今、ちょうど——」
「聞きましたよ。いや、さすがはベテランの方々ですな。どうもお手をわずらわせてしまって」
と、水島は早口に言った。「後は我々が引き受けます。どうぞ、引き上げていただいて結構ですよ」
「はあ……」
「——書留の控は? これか。借りて行くよ。こっちで調べるからね。いいか、君は公務員だ。秘密を守る義務がある。誰に何を訊《き》かれても、答えるんじゃない。分ったね」
「はい……」
女の子は、ポカンとして、答えた。
「じゃ、これを持って行くよ」
と、水島は、現金書留の入った袋を手にして、言った。
「あの——配らなくていいんですか?」
と、女の子が言うと、水島はジロッと見つめて、
「これは証拠品だ。調べがすんだら、こっちで渡しておく。余計な心配はするな」
「はい」
水島たちが出て行く。
「——どうも妙だな」
と、大内は首を振った。
今の水島の態度は、はっきり、大内や入江に、手を引いてほしがっていた。
「頭に来ちゃう!」
と、女の子が突然言った。
大内は、ちょっと笑って、
「全くだね。もうショックから立ち直ったようだな」
と言った。
女の子は赤くなって、あわててメガネを出してかけたのだった……。